Act.3


 からからと、飴玉が転がる音がする。

「ねぇ中也。『眠り姫』って知ってるかい?」
 執務室の扉が開く音がして、長椅子に横たわっていた太宰は顔を上げることもなく出し抜けに云った。そこにいる人物が、自身が思い描く人物と寸分違わぬ存在であることに何の疑いも抱かない。そして声をかけられた方も、そのことに何ら疑念も不審も抱くことなく応えた。
「あー……、あれだろ。継母に毒盛られて死にかけたけど屍体愛好ネクロフィリアの王子のおかげで目醒め復讐として継母に熱した鉄沓履かせて踊らせたっていうやべぇ奴」
「君のその童話に対する認識の方がやばいし姐さんに与えられた本だからって真に受けないで」
 しかもそれ、眠り姫じゃないし。
 長椅子から反動を付けて起き上がり、溜め込んだ息を盛大に、緩慢に、これ見よがしに吐き出す。中也の片眉がぴくりと痙攣した。「そりゃあ悪かったな」と吐き捨て、書類が山と積まれた小卓を挟んで向かいの長椅子にどっかと腰掛ける。背凭れに腕を伸ばして乗せ、口の中で飴玉を遊ばせる彼はどこか不機嫌そうだ。
「一般的な童話も知らない可哀想な中也のために説明しておくと、『眠り姫』は十五になったら糸車の毒に触れて死ぬというのろいをかけられた姫が、魔法使いの力で死を免れ代わりに眠り続けるお話さ」
「なんだそれ。寝たまんまなら死んでんのと大差ねぇじゃねえか」
「寝たままならね。その魔法使いは、姫が目醒めるための新たなまじないをかけたんだ。そこで必要になるのが、愛する王子様の心からの口吻けだ」
 中也はあからさまに表情を歪めた。
 彼は艶のある話があまり得意ではないらしく、そうした話題になると口数が極端に減る。聞いてはいるが、努めて右から左に流そうとする姿はいじらしく、揶揄い甲斐があった。
 だが今回は男社会にありがちの明け透けな話題ではない所為か、あまり抵抗感はないようだ。「うへぇ」と顔を顰めながらも、会話は成立した。 「ご都合主義も甚だしいが手前が語ると気持ち悪さの方が勝るな」
「残念ながら同意見だ」太宰はくすりと笑った。
「けどふと思ったんだ。十五で眠り続けることになったそのお姫様は王子様の顔を知らない。どんな人が来るかも分からないまま、目醒めのときをずっと、茨に覆われた城の中で待ち続けなくちゃならないんだ。どんな夢を見、どんな気持ちで待っているのか、少し興味が湧いてね」
「興味だァ?」
 怪訝に眉を顰めた中也が、次の瞬間には鼻で笑った。「手前の場合は誰にも来てほしくねぇんだろ。誰も来なきゃそのまま死ねるんだからな」
 慥かにその通りだった。
 糸車の毒で死ぬなどまったく莫迦げているとは思うものの、そうして訪れる静かな死は魅力的だ。できれば起こさないでほしいと思う。
 だがそれでは物語が成り立たない。
「私の場合はね、だからこそ誰が来てもあまり変わりがないのだよ。満を持して死ねたかもしれない好機チャンスふい・・にされるんだ。私から死を奪った人間を生涯恨み続け、きっと寝ても醒めてもその者のことばかり考えてしまう」
 中也は「へ」の字に曲げていた口を引き結び、言葉を呑み込んだ。片方しか見えない太宰の底知れない黒目が弓形に撓んで、中也を捉えて離さない。
「……ふん。手前らしい腐った思考だな」
「君はどうだい? 中也。どんな人に口吻けられたいか。誰に目醒めさせてほしいか、或いは目醒めさせてほしくないか」
「俺は……」
 背凭れを掴んでいた手を胸の前で組む。くだらない話にも真剣に考える素振りを見せるのが如何にも彼らしくおもしろい。太宰は立ち上がり、小卓を回り込んで悩む中也の隣に立った。
「俺は、やっぱり知ってる奴がいい。知らねぇ奴に命握られるみたいで、起きた後も生きた心地がしなさそうだしな」
「ふうん? ま、大体想像はついてたけどね」
 だったら聞くなよ! とがなり立てて顔を上げた時機タイミングで腰を折り曲げる。そのあまりの近さに中也が一瞬たじろいだ。「因みに聞くけど」吐息が触れる。
「それがもし私だったら、君はどうする?」
「は、」
 触れた。今度は吐息ではなく、柔らかい口唇が。
 中也の首にぴたりと嵌った首飾に人差し指を通し、それを太宰が引き寄せたのだ。あまりに流れるような動作で、行動の真意も不明で、見開かれた蒼が今にも零れ落ちそうに丸くなる。
 口の中は甘く、小さくなった丸い玉が温まっている。それを溶かす蜜が口腔には満ちていて、太宰はその甘さに誘われるままにじゅるりと音を立てて啜った。檸檬味だった。離れるのが少しばかり名残惜しく、せめてもの腹いせに飴玉を掠め取る。舌先で器用に、ざらつく上顎をなぞりながら。
「うふふ、ご馳走様」
 からり、と口の中で飴玉を転がす。呆然と肩で息をしていた中也の色素の薄い膚は仄かに赤く色付いている。が、次の瞬間には。
「何しやがんだ手前ェ!!」
「おー、怖い。別にいいじゃない、減るもんじゃないし」
「俺の精神がごりっごりに削れるわ!!」
 慌てて立ち上がり太宰から距離を取った。汚れた口周りを袖口で乱暴に拭い、チッとあからさまに舌を打つ。それを眺めていた太宰の目に、赤くなったままの耳が映る。
「却説、私の口吻キスで眠れる中也君は今まさに目醒めた。――どんな気分だい?」
「…………最悪な気分だ」
「そう。それはよかった」
 太宰は上機嫌に、先程まで中也が座っていた長椅子に腰掛け、足を組んだ。目の前の書類の束を無造作にぱらぱらと捲る。そこに中也が噛み付いた。
「ッ、つか! 今のと『眠り姫』とやらとじゃ状況も何もかもが違ェだろうがっ」
「そんなことはないさ。お姫様からすれば目醒めた瞬間に目の前に知っている人、もしくは知らない人がいるんだ。それも自分に口吻けをしている。まさに今の中也のように驚愕するのが普通の反応だろう」
「――ッ!」
 口を開き、なおも文句を言い募ろうとした中也だったが、言葉はまったくその口から出てこなかった。はくはくと開閉を繰り返し、何か探しているようではあったものの、結局見付けられないまま口を閉ざす。その頃には肩の力も抜けていた。
「……大体、俺も手前も”姫”じゃねぇだろうが」
「え、今さら?」
 あまりに遅い指摘に太宰は嘲笑に近い笑みを口元に浮かべた。それを睨もうとする蒼は、しかし直視ができないらしくすぐに逸らされる。実に正直なものだ。
 太宰は続けた。
「驚くのが普通であっても、その口吻が情熱的であればあるほどそんなことはどうでもよくなるのかもしれない。況してずっと眠っていたお姫様にとって、見るもの、聞くもの、触れるもの全てが新鮮で心躍るものだろう。そんな興奮状態では閾値刺戟サブリミナルが働いたって怪訝しくはない」
「……つまり、誰が相手であれ関係なく惚れちまうってことか」
「なに、私に惚れた?」
 カッとなった中也が拳を繰り出しそうになったところで、扉を敲く微かな音が二人の間に割って入った。中也は一度そちらを振り返り、舌打ちをして拳を引っ込めた。そして先程まで太宰が座っていた椅子に乱暴に腰を下ろす。そのあまりの衝撃に、椅子がぎしりと鳴いた。
「入ってきていいよ」
 敲音ノックの主が扉の前で微かに逡巡した。やがて緊張した面持ちで「失礼します」と扉を開ける。――芥川だ。
「やぁ、来たね」
「太宰さん、僕に所用とは」
 いつになく機嫌がいい太宰に困惑した様子の芥川は、座して待つ二人の上司にぴしりと背筋を伸ばし、敵意がないことを示すため腕を背中に回して入口前に立ち尽くした。それを太宰は、「そこだと邪魔だから」と室内に招き入れる。扉が閉まった。
「君は独断専行がすぎるから、今後のためにも私たちの仕事の様子を一度見ておいた方がいいと思ってね」
「太宰さんの……?」
「私と中也だ。今では双黒なんて呼ばれていてね。この犬っころの動きを見ていれば君が如何に独り善がりかが分かるだろう」
 誰が犬っころだ! と噛み付く中也は、既にいつもの調子を取り戻している。頬の赤みも引いている。それを確認し、太宰は横に立つ少年を見るともなく、手に持っていた書類を中也の前に放った。
「それが今回の仕事」
「はぁ? てか、ンなもん俺聞いてねぇぞ」
「だって今云ったもの。――決行は九十分後。今回はさもない仕事だから、中也一人で十分だ」
 普段は表情の変化に乏しい芥川の蟀谷がぴくりと反応を示した。
 彼は物静かに見えて短気がすぎるが、同じ短気でも中也とは違う。抛られた書類に目を通していた相棒は、太宰の言葉に「またかよ!」と苛立たしげに声を発した。
「手前はいっつもこうだ。せめて資料くらいもっと早く寄越しやがれっ」
「えー? だって明らかに作戦指示書に見える紙の束を目の前にしても全然反応しなかったじゃない君ィ」
「手前がクソくだらねぇ話を俺に振ってきた所為だろうが」
 立ち上がり、書類の束で太宰の胸をばしばしと叩く。それをどうどうと両手で宥めるように(これが一番中也の神経を逆撫でするのだ)しながら、「それにこの私が用もないのに中也を執務室ここに呼ぶわけないでしょ?」と云い添える。呼ばれた理由を察せられなかった中也の負けだ、と言外に告げ、口角を上げる。
 中也からしてみれば、訳の分からない問答に付き合わされた挙げ句に口唇を奪われたのだから、それが用事だったのかと勘繰りたくもなったのだが、ここで云い合いをしていてはそれこそ時間がなくなってしまう。中也は歯軋りし、いろんな感情が綯い交ぜになった吐息を腹の底から押し出した。
「……読んでる時間がねぇ。手短に説明しろ」
 その切り替えの速さに、太宰は満足げに頷いた。


* * *


 処変わって数年後。夕刻の喫茶店。
 太宰は、敦と芥川の正面に移動していた。
「この女性異能力者は、君たちも知っての通り口吻によって、対象者が一番に想っている者への感情を奪い去る。昔、それでマフィアの構成員も何人か骨抜きにされてね。調査の結果有用と判断し、中也を引き連れ捕縛に向かった。――芥川君も一緒だったから覚えていると思うけど」
 揃って独断専行に奔った二人を叱った太宰は、過去を思い返しながら当時のことを語って聞かせた。身を縮め、膝の上で両手を握る敦がそれを上目に見詰めている。話を振られた芥川が躊躇いがちに首肯した。
「彼女もなかなか肝が据わった女性だった。図らずもマフィアの構成員に手を出してしまったことに気付いた彼女は、命を狙われる危険から当時マフィアと抗争中だった武装組織に身を寄せた。だが異能力者でも何でもないそいつらは中也の前座にもなりはしなかった。十分もかからずに制圧は完了。そして腰が抜けて立ち上がれなくなったその女性を回収した」
 太宰の目の前に置かれた珈琲が白い湯気を立てている。そこに過去が映し出されてでもいるかのように視線を逸らさず語られる出来事は、今の太宰からは想像もつかないものだと敦は思った。
「その後彼女は地下牢に入れられ、マフィアに与する気はないかとさまざまな勧誘を受け続けた」
 些か熱烈過ぎたかもしれないけど、と口元が歪む。「随分と豪気な女性だったよ。いくら揺さぶっても頷くことはなかったし、鋼のような精神で耐え続けた。姐さんも感心するほどにね」
「耐える、って……その後、この人はどうなったんですか」
 敦の小型演算器は、既に太宰によって没収されていた。記憶端子は抜き取られ、接続部分がぽっきり折られてしまっている。
 その残骸はまるで、折られた人の爪のようでもあった。
「……逃げた」
「え?」
「監視の目を欺いてね。次に聴取を取ろうとしたときには既に地下牢は蛻の殻。悪鬼羅刹の巣窟みたいなあの監獄から逃げ出すなんて信じ難いとは思ったけど、監視映像のどこにも記録はなく、まさに煙のように彼女は地下牢からも、本部ビルからも忽然と姿を消していた」
「――思い出しました。慥か当時、逃亡を助けた内通者がいたと噂が」
 芥川だった。口を挟むべきか迷うようなゆとりはなかった。太宰が頷いた。「――その内通者が中也だ」
 二人は息を呑んだ。
 太宰がそのことに気付いたのは、女に逃げられたと報告したときの、なんてことのない彼の言葉からだった。
(――あの足じゃどこに行けるわけでもないのにな)
 中也は尋問に加わっていなかった。
 尋問の内容は基本的に口外しない。拷問官にとっても上層部にとっても、重要なのは言質であり、結果であり、その過程ではないからだ。どのように甚振り、言葉を引き出したのか、拷問官の裁量に任される尋問の方法などは然して問題ではない。
 だから、足の爪が全て剥がされ、強烈な痛みと失われた平衡感覚で立つことすらままならない状態だった女を知るのは、当時尋問に加わった者たちだけだった筈なのだ。にもかかわらず、中也はその状況を知っていた。
 監視の目を盗んで女性を扶け、今はほとんど使われていない地下道から外の世界へと連れ出した。理由は分からないままだ。
「……太宰さんは、それを」
「云えるわけないだろ。中也を問い詰めようとしたがあれも頑固だ。口を割るわけもない。それに仲間になる気のない女とともに中也を捕まえて処刑したところで、組織にとって不利益の方が大きくなるのは目に見えて明らかだった。だから不問にした。おそらく中也も、そうなることが分かっていて手を貸した筈だ」
 捕らえた異能力者を逃したとあって、太宰を快く思わなかった者たちを勢い付かせる結果になったのは事実だった。だが責任を感じたらしい中也の働きがそれを完全に帳消しにした。双黒の名が既に広く知れ渡るようになっていたのも奏功し、延焼は免れた。
 そのとき件の異能力者とつながりを得ていた中也なら、彼女と接触し、自ら望んで異能にかかることを選ぶことは可能だった。理由は不明だが、数年前に彼女を扶けた理由が関係しているのだとしたら、それはもう、太宰の手の出しようがない問題だった。
「その女性も気の毒な人でね。異能力の性質上、彼女はどんなに好いた人にも口吻ることが叶わない。それをしたが最後、想い人は彼女から離れていってしまうからね」
「あ……そうか」
 敦はやっと気付いた、と吐息を漏らした。
「だから幸せそうな恋人同士カップルを見るのが辛かった、というのが彼女から聞き出せた話だ」
 口吻けることで恋に目醒める眠り姫とはまったく逆の境遇を生きねばならないその女性に、同情がなかったわけではない。彼女はいくら待っても、やっとで王子様が訪れても、口吻で目を醒ますことはできないのだから。二度と明けることのない甘い夢を見続ける。それは、想像もできない苦しさだろう。
 そうして魔女となった女性に、中也は太宰への想いを消し去るよう依頼した。
「……まったく、あれが素直じゃないのは今に始まったことじゃないけど、それが全て気持ちの裏返しだったとはね」
 肩を竦める。椅子に深く背を凭れ、交差した足の上に組んだ両手を乗せ、吐息のように言葉を吐き出す。
 「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」だ。相手がどこで何をしようが、自分にどう働きかけようが、関心がなければ心が動くことはない。揶揄いに噛み付くことも、厭がらせに眉を顰めることもないのだ。
「…………太宰さん」
 敦だった。
 陽が沈む外の景色を惘乎と眺めていた太宰は、一度緩慢に瞬いてからそちらに首を巡らせた。
「僕、思ったんですけど」
「……何かな」
 月光色の双眸が、強く輝いている。
「中原さんは自分からその女性に異能をかけてもらったんですよね」
 それは確認だった。芥川の持つ黒曜石が敦を捉え、そして順繰りに太宰を見た。「中原さんの態度が急に変わったように感じられたのは、その分だけ太宰さんのことが好きだったから、ってことになる。今まさに好きだと思ってる人への気持ちを突然棄ててしまうのには、やっぱり何か訳があると思うんです」
 芥川が、敦の言葉を受けて続けた。
「――僕は最初、貴方がたは互いに嫌い合っているものと思っていました」
 静かな声。敦が口を噤み、芥川の横顔に視線をあてた。
「だが違った。そこにあるのは、最早好きや嫌いなどというものでは量れぬ何かだった。信頼なのか執着なのか、孰れにせよ、他者などが容易に踏み込めぬものが双黒を双黒たらしめていた。そして貴方が中也さんに向けていたそれは、中也さんもよく理解し受け止めていた」
 芥川が太宰を見る目には、もうどこにも畏怖や怯えといったものはなかった。まるで、隣に居並ぶ敦と同じような真っ直ぐさで、かつての師を睨むように見詰めている。
「この四年間、中也さんはどんな危機的状況に陥ろうとも決して最後の切り札汚濁を使うことはなかった。信じて命を預けられる貴方がいなかったからだ。ポートマフィアに戻るにしろ戻らぬにしろ、生きて再びその姿を現すのを心待ちにしていたのは、他でもない中也さんです」
「……芥川君」
「あの方の自尊心の高さ、知らぬ貴方でもないでしょう」
 芥川の脳裏には、午前中に中也と交わした言葉がこびりついていた。太宰への関心をまったく無に帰してしまった彼が、ずっと待っていた太宰ではなく部下の芥川に、しかも最悪の形で後始末を頼む。きっとそれは、太宰を待ち続けた四年間で達した、彼なりの覚悟の顕れでもあったのだろう。
 太宰は珍しく熱弁を振る芥川と、それに同調する敦とを交互に見遣り、中途半端に開いたままだった口を閉じた。口元がきれいな三日月を象る。
「……成長したねぇ、君たちも」
 しみじみと、心から思う。
「成長していないのは私たちの方、か」
「中原さん、きっと待ってますよ。早く理由を聞きに来い、って」
「あはは、だといいんだけどねぇ」
 ああ、でも。眠り姫のように、再び恋に目醒める日を待っていてくれているのなら。
 太宰は今なお鮮明に残る記憶の欠片を飲み込むように、湯気の消えた目の前の珈琲を一気に飲み干した。

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