陽が沈み、薄暗くなった室内に太宰はいた。
見慣れたその部屋はきれいに片付けられていて、家主の性格のほどが窺える。七年という歳月を経て殺風景だった部屋にはものが増え、それらが中原中也を形作っていた。
とはいえ、そこに今、太宰を感じさせるものは何もない。
当たり前だ。今回の件が起きる前から、会う頻度はそこまで多くなかった。たまに休日が重なりそうなときに連絡を取って約束を取り付ける程度でしかなく、そしてそれは、お互いの立場を考えれば至極当然のことだった。
昔は、中也が厭がることを率先してやったし、寝ても醒めてもどんな嫌がらせをしてやろうかとそればかり考えていた。この部屋とはまた別の、当時使っていたマンションには何度も通ったし、家主がいなければ勝手に冷蔵庫の中身を漁り、目くじらを立てる中也をおもしろがって眺めたものだった。奇妙なところに居を構え、生活感などというものとは無縁の暮らしをしていることを知ってからは、口を尖らせながらも度々「ちゃんと飯は食ってるのか」などと云って、口にこそ出さないものの心配するような素振りも見せていた。
それも、今は昔の話。
立場が違う今、したくてもできないことはたくさんある。かつてと同じようにあの「生」の輝きがぎらつく瞳にずっと映していてほしいと思う反面、太宰には太宰の、中也には中也の、それぞれ異なる居場所ができてしまった。あの瞳に映らなくても当たり前なのだと、頭が理解してしまっている。大人になってしまったのだと、戻らぬ過去を惜しむ気持ちが時折思い出したようにふっと湧き上がる。
だから、中也がそうと選んだのであれば、手を離してやるべきなのだろうと思ったのだ。十五の頃から抱き続けた幼い執着は棄て、それぞれが前を向くために。
それが最適解だと思っていた。
カタン、と音がした。
這入ったときに開けた鍵はしっかり閉めた。靴も隠した。警戒心の強い家主は、そうでなければ今度こそ本気で牙を剥きかねなかったからだ。それこそ弾丸のような小刀が何本も飛んでくることだろう。そしてそれを全て躱しても今度は拳と脚が襲い掛かってくる。それは御免被りたかった。
扉が開き、衣擦れと同時に靴を脱ぐ音が聞こえる。玄関に置かれた盆に鍵を置く金属音。太宰のいる居間に足音が近付く。
「――やぁ、おかえり」
「……!?」
パチン、と点けられた室内灯。煌々と室内を照らす明かりの下で、見開かれた双眸が太宰の姿を捉える。電気と一緒に点けたのか、自動遮光板が微かな駆動音とともに窓から見える外界と室内とを完全に隔てていく。
やがて二つの蒼は剣呑な色を帯び始めた。なんてことはない、不法侵入者への一般的な警戒だ。
「今日は君と少し話がしたいと思ってね」
「……俺はあんたと話すことなんて何もない」
「まぁ、そう云わずに」
腰を落として威嚇してくる中也に、両手を前に出し宥めるように「どうどう」と云う。それは、彼がまるで動物扱いされているみたいで嫌いだと昔云っていた手振りだ。今は何も思わないらしく、表情一つ変えることはない。
「……慥かに、君の私への素直とは無縁の反応の数々が、天邪鬼な君の精一杯の好意の表れだったと考えると悪い気はしないね」
「は? 何云って……」
「うん。でも話をするにはやっぱりちょっと不便かな」
中也は警戒心こそ解かないものの、部屋の中の大事なものたちが荒れることを危惧しているのか大仰な立ち回りができないでいた。
一歩近付けば一歩後退る。後ろには壁。蹴りか、拳か。部屋のものを壊さず相手を退けるにはどう動くべきか。――そうした思考の瞬間が、中也の隙となった。太宰は徐に手首を掴んで引き寄せ腰に腕を回し、手首から離した手で後頭部を押さえ込んで上を向かせ、そして有無も云わさず口唇を押し付けた。
「んぅッ!?」
蒼が瞠目する。
薄く、手入れらしい手入れもされていない口唇。久し振りの感触。それは、太宰の中に汎ゆる情動を掻き立てた。その中には「怒り」もあった。
「はッ……ん、んんっ」
太宰は熱い舌を容赦なく食み、唾液を啜り、呼吸を喰らった。息つく間も与えないまま、内側で膨らんだ情動をただただ目の前の小さな躰にぶつける。初めはどんどん、と胸を叩いてきた手にも徐々に力が入らなくなっていて、太宰がさらに力を込めれば、中也は海老反るように肢体をくねらせた。それだけで潰れてしまうような軟な男でないことくらい、疾うの昔に知っている。
「ん、んむ――ッ」
吸う。
呼吸を、臓腑を、魂を、そこから全て吸い尽くすように。
頭の中が痛むほど、思考が朦朧としてくるほどの烈しさに、酸欠気味の中也の顔は真っ赤に染まる。
やがて太宰の舌先に何かが触れた。ざらついた何か。――そして広がる、青白い閃光。
それを確認し、太宰はゆっくりと口唇を離した。
「げほっ、ごほ……ッ」
急激に酸素が肺を満たしたのか、中也は頻りに噎せ込み、背中を丸めた。太宰は舌先と上唇の間に挟んだ赤いそれを指先で摘まんだ。赤い、天鵞絨のような質感の花弁だった。
二人分の荒い呼吸が空間に満ちる。太宰は柄にもなく、深く安堵の息を吐き出した。
刹那。
――バキッ
「いッ――たァ!?」
「手前ェ……俺のこと、窒息させる気だっただろ……」
肩で息をする中也が、渾身の力を込めて拳を振るったのだ。左頬に決まった鉤突きで太宰の躰はあっけなく吹き飛ばされ、床に思いっきり尻を打った。腰に響く。口の中は切れて血の味がする。もはやどこが痛いのかも分からない。
「ちょっ、普通そこ手加減するところでしょ!?」
頬に手を当てながら叫ぶ。
「煩せェ!! そっちこそちったァ加減しろよ本気で死ぬところだったんだぞ!?」
「それは中也が……っ!」
だが言葉は続かなかった。それまでの勢いを萎ませ、肩から力を抜いた太宰の前で、呼吸を落ち着かせようと中也もしゃがみこんだのだ。「はぁー……」と項垂れ、赭色の髪がはらりと揺れる。
「……なんでこんなことしたの」
太宰は、最早効力を失くし、朽ちるだけとなった花の片鱗を摘み上げた。――この一週間、異能力者の口吻を通して中也の喉に貼り付いていたものだ。中也の想いを吸い上げていた異能の正体。太宰にとって、二重の意味で忌々しいもの。
中也は一度そちらに視線を向け、そして目を閉じた。
「……云ったろ。恋人だと思ってほしいんなら行動で示せって」
それは、最後に逢った日の閨での言葉だった。どうやらただの睦言として発せられたものではなかったらしい。「まさかとは思うけど、私が解除するの前提でこんな茶番をしでかしたわけ?」
「ったりめぇだ。――って、云ってやりてぇが、まぁ太宰が解除しなかったらしなかったで、そのまま俺らの関係が終わってただけだ。別にどうってこたねぇだろ」
「あのねぇ、」
事も無げに云ってのけた中也が、しゃがんだまま開いた膝の上に肘を置いた。あまり行儀が良いとは云えない格好だ。が、均衡を保ちやすいのだろう。
文句を云おうと口を開きかけた太宰より先に、中也が口火を切った。
「……厭だったんだよ。俺ばっかりがこんな、どうしようもねぇ感情を持て余し続けてることが」
僅かな逡巡と、羞恥と、諦念――或いは観念が滲む、掠れた低い声。自尊心の強い男のものとは思えない、抑揚のない静かな独白だった。「どうしようもない感情、ねぇ」という太宰の鸚鵡返しに、ふっと忍笑する気配が重なった。
「手前は覚えてねぇかもしれねえが、昔『眠り姫』の話を俺に振ってきたことがあっただろ」
「……あったねぇ、そんなこと」
――忘れるわけがない。
太宰はそこで、捻くれていた自分の気持ちを遠回しに中也に告げた心算なのだから。
伝わらなくてもいい。そう思いながら。
「あンとき俺は目が醒めちまった。気付いちまったんだよ。こんなに長い間持て余すことになるなんて思いもしなかった感情に」
上げられた中也の顔は、普段は吊り気味の双眸が困ったようにその眦を下げている。どこか皮肉気な微笑。続く言葉に、太宰は目を瞠った。
「俺に嫌がらせをするその瞬間だけは、死にたがりの手前も”死”を忘れて生きている。その事実がたまらなくむず痒くて、気持ち悪くて、心地よかった。――もっと俺に縛られればいい、そう思ったことだって、一度や二度じゃねえ。そしてその気持ちがどこからくるものなのか、そのときやっと分かった」
「……中也、それは」
「だが今は違う」
きっぱりと。まるで長く伸びる刀身でひと断ちにするように、太宰の言葉を鋭く遮る。「今は、その役目は俺じゃなくてもいい」
「……」
「手前が何に失望し何に絶望していたのか俺には分からねぇし知りたいとも思わねぇが、あれだけ世界に退屈してた手前が、俺がいなくてもなんだかんだこうして生きている。今の手前に昔ほどの執着は感じない。だから」
自覚はあった。かつての幼い執着はいつの間にか変質し、もっと別の、形容し難い何かが胸の奥で渦を巻くのだ。それは特に情事の最中やその後、あの心地よい気怠さの中でこそ顕著なものだったけれど、中也はそれをまったく別の見方で捉えていたらしい。
「――……だから、私を試したというのかい」
持て余してきた感情が膨らみ続けていることに戸惑い、太宰に対する中也の役目が既に終えていることに絶望した。その板挟みから解放されるために、中也は「忘れる」ことを選んだのだ。太宰が無効化することを、心のどこかで願いながら。
中也がふっと微笑った。
「手前には報告してなかったが。五年前、俺は姐さんに連れられて一回だけあの女の尋問に立ち合ったことがある」
「……」
「とっ捕まえた本人だから相当恨んでいただろうが、女はそんな態度をおくびにも出さなかった。動けない脚でぼろぼろになるまで折檻されて、その日の尋問が終わり姐さんたちが引き揚げた後、奴は俺を呼び止めた」
――中也の記憶だ。
五年前、女性は地下牢の中から中也を呼び止めると、痛みに苦悶する様子も見せず勝ち気な瞳で「取り引きをしよう」と云った。
「……取り引き?」
「貴方、好きな人がいるんでしょ」
「ッ」
剥がされた爪の痕は雑な消毒と包帯で治療されただけで、暫く歩くことはできないだろうと思われた。下手をすれば破傷風になる可能性もある。
マフィアに下れば痛みからは解放される。それでも彼女の矜持がそうさせなかった。
「――ふふ。図星ね」
「……だったらなんだってんだ」
無視すればいいのにそれができなかったのは、当時中也は気付いてしまった気持ちとどう向き合うべきか、考えあぐねていたからだ。冷静な判断力に欠けていた。
「図星だけど、でも貴方自身はどこか諦めている。私の異能力はこんなだから、恋をしている人の心にはとても敏感なの」
「……そりゃあ便利な異能力だな」
「でしょう? ――そして私は、貴方からその叶わない恋心を消してあげることができる」
「……」
中也は、鉄格子の向こう側で光る黒目を凝と睨んだ。それでも女性は怯まなかった。「その代わり俺に脱走を手引きしろってか」
鼻で笑い、背中を向ける。
自分の中にあるこれは、恋心などという甘ったるい代物ではない。
耳を貸す必要はない、ただの戯言だ。
「――太宰治」
女性の口から突然飛び出した名前に息を呑んだ。
「何回か会った、とても冷たくて恐ろしい子。まだ十七歳なんだってね」
中也は答えなかった。だが言葉がねっとりと足に絡み付き、まるで縫い留められたように動かすことができない。
「人を人と思っているのかどうかも分からない悪魔の子。歴代最年少幹部でもあり、貴方にとっては無二の存在」
「……な、んで」
「此処にいるととても退屈だから、見張りが来たときにいろいろ会話をするの。寡黙な人ばかりかと思ったけれどそういうわけでもないみたいね」
舌打ちする中也に女性の笑い声が応える。「貴方が諦めている理由はなんとなく分かる。きっと辛くなるときがくる。逃げ出したいと思うときが――必ずね」
「……それも異能力か」
「女の勘よ」
中也は逡巡した。その通りだろう、と直感が告げていたからだ。持て余すべきではないものをいつまでも大事に持っておくわけにはいかない。
女性は、揺らぎ出した中也の心に即座に気付いた。そして優しく、語り掛けるように云った。
「――別に今じゃなく、貴方が辛いと感じたときでもいい。私なら手扶けしてあげられる」
「……そう云ってとんずらする気だろう。此処から出ちまえば誰もあんたを拘束できなくなるんだからな」
「だったら貴方が匿ってくれればいい」
「なっ」
目を剥いて慌てて振り返る。肩を竦めた女性は、自分のぼろぼろになった脚をするりと撫でていた。長い睫毛が、伏し目がちの双眸に影を落としている。
「どのみちこの脚じゃもうどこにも行けないし、此処にいたって私の命はそう永くない。私が死んだら、誰も貴方を苦しみから解放することはできなくなる」
「……欺瞞だな」
「欺瞞で結構。――私は」
息を吐き出し、そして上げられた顔はどこか寂し気で。
「私は、哀しい恋に悩む人たちを手扶けすることしかできないから」
「……そして絆されて逃がしたわけか」
呆れたように息を吐く太宰に、中也はバツが悪そうに口を尖らせた。
「どうせ手前だって気付いてたんだろ」
「ああ、気付いていたさ。君の下手な芝居のお陰でね。だから尻拭いが大変だった」
肩を竦め、再び手に持っていた花弁に視線を落とした。
女性が口吻したときに生じる異能力で生み出された、この世のものではないそのひとひら。
「……この花は約一か月で対象者と同化し、以降はどんな手段を以てしても異能を解くことはできなくなる。それが、私に与えられた猶予期間だったわけだ」
くしゃり、と握り潰す。
もしも太宰がこれからも中也との関係を望むのなら、太宰は是が非でも異能の解除方法を探る。それはなかなか本心を言葉に出さない太宰の、何よりはっきりした気持ちの顕れだと、中也は考えた。マフィアにいた頃の太宰ならば、思惑通りに動いただろう。
そしてもし今の太宰にそこまでの執着がなく、このまま関係が終わることになったとしても、既に異能によって太宰への気持ちを失くした中也は何の影響も受けない。ただ太宰の記憶の片隅に、短い時間の黒歴史として残り続けるだけ。
如何にも脳筋の中也らしい考えだ。
「それで? 五年もの間組織に勘付かれることなく一体どこに彼女を匿っていたんだい?」
「匿うほどのことはしてねぇよ。西方の廃村近くの小屋でわりと自由に暮らしてたし。改名するときと住民票移すときにちょっとした小細工したくらいで、あとは定期的な電話連絡程度の接点しかなかった」
しゃがんだまま膝の上で頬杖をついた中也が、「だから手前が心配するようなことは何もない」とほくそ笑む。
「……中也の癖に。なんか腹立つ」
「お互い様だ」
太宰は腕を伸ばし、その矮躯を引き寄せた。突然のことに中也は均衡を崩し、呆気なく腕の中に収まった。
「そんな君にいいことを教えてあげよう」
「いいこと?」
「そう。私はね、実は諦めようとしていたのだよ。君の考えが分からなくて。君がなぜこんなことをしたのか、私はどうしたいのか、全然見えてこなかったから。もしかしたら手を離すことが私たちにとって最適解なのかもしれないとすら思ったんだ」
「……へぇ? あの太宰治でも分かんねえことなんてあるんだな」
耳元を低い声が掠めていく。くすくすと笑うその穏やかな振動が心地いい。
「ふふ、おかげで敦君と芥川君に怒られてしまった」
「そりゃあいい。もっと怒られてこいよ。ついでに姐さんにもな」
――恋は人を強くもし、そして弱くもする。
紅葉の言葉が蘇る。
慥かにそうなのかもしれない。ポートマフィアが誇る「力」の権化でさえ、こうして迷いを顕にしてしまうほどに。
「……それにしても、中也は忘れるからいいとして残された私が傷つくとは思わなかったのかい」
湿っぽい空気を払拭するように努めて戯けた調子でぽんぽんと頭を叩く。あー、と視線を彷徨わせて唸る中也の様子から察するに、考えてはいなかったのだろう。「結構堪えたのだよ。この私が仕事に熱心に打ち込んでしまうくらいには」
「いや、それは普通だろ」
呆れたように顔を上げる男の躰を少しだけ離し、太宰はずっと衣嚢に入れていた首飾を取り出した。
一度は棄てられたそれ。今は何もないその首に手ずから付けてやる。やっとで持ち主の元に戻ったそれは収まりよく白い膚の上に横たわり、太宰はそれを満足げに見詰めた。
「どうせ君のことだ。これだって異能にかかる前に執務室の屑籠に入れたんだろ。時間を指定して呼び出しておいた芥川君に見付けてもらうために」
太宰の手が離れ、指先で触れる慣れ親しんだ革の感触に口許を緩めていた中也はその言葉に「まぁな」と呆気なく応えた。取り繕ったってしょうがないということを、彼は分かっている。
「――俺の我儘で迷惑かけちまったし、あの二人には今度菓子折りでも持っていってやるか」
「え、私にはないの? 非道くない?」
吐息が触れるほど近くで交わされる言葉。中也はきょとん、と目を丸くし、口角を上げた。そして太宰のループタイを引っ張るなり、耳元で囁く。
「手前への詫びは、”俺”で十分だろ」
太宰は一瞬言葉を詰まらせ、やがてつられるように口許が歪んだ。
「……上等だね」
それでこそ中原中也だ。
決して太宰の思い通りにはならないそのじゃじゃ馬さと、ただでは転ばぬ強かさ。初めて彼が戦う姿を目にしたときの高揚。そして「生」の輝き。
どうして手放すなどできようか。
(……正直、こんなにのめり込むことになるとは思わなかったのだよね)
太宰は心裡で嘆息しながら、余裕を気取るその薄い口唇に噛み付くような口吻をした。
(了)