Act.1
寒さが少しずつ和らいで、足元も俄かに春を感じられるようになってきた。吹く風は陽の光に温められ、どこか懐かしい匂いを纏って戯れに髪の毛先を揺らす。
穏やかな平日の午后。時折耳を掠める子どもたちの笑い声。噴水から飛び散る水飛沫。陽光。こんな日は仕事などせず惘乎と日光浴でもしながら、新しい自殺法の算段を立てるに限る。それこそ、健全な若者の正しい過ごし方というのではないだろうか。
「……それは太宰さんだけだと思います」
目を閉じ、微睡に沈みそうになる意識を掬い上げる声は、たっぷり呆れを含んだ重たいものだった。公園の長椅子に腰掛け、上を向いていた太宰の視界に、声の主がにゅっと影を落とす。「やぁ、敦君。いつの間に読心術なんて覚えたんだい?」
太宰に悪びれた様子はなかったが、それもいつものことだ。敦の心労は絶えない。「さっきから駄々洩れでしたよ」と溜め息を吐きながら腰に手を当てる。「こんなところでまたサボりですか」
「サボりだなんてとんでもない。健全な若者がこの麗らかな日をどう過ごすべきか観察と検証を行っていたのさ」
「それを世間一般にはサボりって云うんですよ」
敦君が最近冷たい……と、しくしく泣き真似をする先輩社員に、敦はその言葉の通り冷ややかな視線を向けた。月光を閉じ込めたような不可思議な虹彩を持つ視線が鋭い小刀のように突き刺さる。太宰は泣き真似を止め、肩を竦めて立ち上がった。
「やれやれ――それで? 敦君は私に用件があって此処まで捜しに来たんじゃなかったのかい?」
「え? あ、そうでした」
「君のその鼻と脚があればさしもの私も逃げ切れない。国木田君辺りの差し金かな」
探偵社の社屋は公園からそう遠くない。燈台下暗しとはよく云ったもので、深読みしすぎるきらいのある同僚の目を欺くには十分だった。ただ、その同僚も今は此処にいない。
「はい。国木田さんは来客があって、現在対応中です」
「来客?」
そんな予定があったかな、と普段使わない業務用抽斗を頭の中で開けてみる。随分と埃をかぶったその抽斗に、残念ながら該当するものは見付からなかった。
「太宰さんに用があるということだったので、急いで連れ戻せ、と」
「……私に?」
太宰はますます首を傾げた。
探偵社に来る客の類型はいくつかある。
まずは一般的な依頼者。何か問題事を抱えていて、どこに相談したらいいのか分からない、という人が訪れる。特に警察に相談しても取り合ってもらえなかった、と藁にも縋る想いで来る事例が多い。
その警察も、探偵社の扉を叩く常連だ。市警は勿論、厄介事に対処しきれなくなった軍警が、異能力目当てに相談にやってくる。危険度は高いが、その分報酬も弾む。電子書面でのやり取りが殆どだ。
そして探偵社に私怨を持つ組織、または個人による報復も、場合によってはありえた。武装した男たちが勇んで襲撃しに来ることもあるし、発狂した女性が太宰を相手に刃物を振り回すこともある――後者については、敦は話でこそ聞いたことがあったものの実際に見たり、巻き込まれたりしたことはない。せいぜい女性を心中に誘う程度(十分問題ありだが)で、不貞に走ることもなくなったというから、いよいよ身を固める兆しでは、という噂が社内でまことしやかに囁かれていた。太宰はそれを否定も肯定もせず、ただのらりくらりと躱している。それを捕らえて吐かせるなどということは、熟達したマフィアの拷問官でも不可能だろう。今や太宰の前職に代わる、新たな探偵社七不思議の一つにもなっている。
太宰に用があると云った来客は、すらりと背の高い女性だった。つば広の帽子は俗に云う女優帽というやつで、赤みがかった黒のマーメイドスカァトがその柳腰を強調している。同色のジャケットに同色の大きな遮光眼鏡。黒の長革靴。まるで雑誌モデルが紙面から飛び出してきたかのような凛とした佇まいは、草臥れた雰囲気が染み付いた探偵社にはどこか不釣り合いだった。
「ただいま戻りました」
「戻ったか敦、太宰」
敦が帰還を告げると、奥にいた国木田がそれに気付いて立ち上がった。
「却ァ説、私に逢いに来たという美しいご麗人はー?」
太宰は足取り軽く事務所内に足を踏み入れた。
入り口からは応接間の様子が少しだけ見えるが、入り口に背を向ける形で座っている女性の姿は死角になっていて見えない。女性は立ち上がることもなく、出された茶に優雅に口を付けている。どこか緊張した面持ちで傍観している国木田に、敦は不思議そうに首を傾げた。
だが、その理由はすぐに分かった。
「――久しいのう、太宰。息災かえ?」
容赦なく吹き荒れる弾丸の嵐の只中でも顔色一つ変えそうにない太宰の眸が、応接間を前にした瞬間、驚愕で丸くなった。その様子に気分を佳くしたらしい女性は紅を引いた口唇できれいな弧を描くと、やがて眼鏡を外し、帽子を傍らに置いた。帽子の中に収まっていた長い丹色の御髪がふわりと舞う。その顔には、普段とは印象が異なるブラウンのシャドウに縁取られた紅玉が妖しい影を落としていた。
「……姐さん」
ポートマフィア五大幹部が一柱――尾崎紅葉。普段の着物とは異なる洋装は、完璧に彼女の本来の姿を覆い隠していた。知っている者が擦れ違ったとしても、誰も彼女とは気付くまい。
「生憎鏡花は遣いで留守だと聞かされてな。せっかくの休暇にこんなところまで足を運んだというに太宰はおらぬし、私もいよいよ焼きが回ったかと思うておったところじゃ」
「……かもしれないですね。なんなら今よりもっと良い職場をご紹介しましょうか?」
「ほほ。その話はまた孰れ、機会があったときにでも聞くとしよう」
そして茶卓に置かれた紅茶に手を伸ばした。
決して上質とは云えない事務所用の長椅子も、彼女が座れば忽ち骨董品のように往年の気風を纏い、そこだけがまるで、切り取られた絵画の一場面となる。一つ一つの仕種が気品に溢れている。
「一体何の用ですか」と息を吐き出しながら、太宰は紅葉の向かいに腰掛けた。事務所内にいた社員の耳が、全て二人の会話に向けられていた。
「ふむ。――まずは、これじゃ」
紅葉の嫋やかな指が傍らの鞄から取り出したのは、黒い帯状の何かだった。「これに見覚えはあるな?」と、確信めいて云う。茶卓に置かれたそれを、太宰は慎重に手に取った。
「……あれの首輪ですね」
「云い方は少々気になるが……まぁ、正解じゃな」
再び紅茶を含んだ紅葉は、ピンと背筋を伸ばしたまま太宰の手元にあるそれをちらりと見遣った。
長年使い古されたそれは、持ち主の性格を表すようによく手入れがなされ、古さを感じさせない。寧ろ味が出ていると云い換えることもできる。あの細い首に馴染んだそれが、今、手元にある。
「これが何か?」
太宰は見慣れた首飾を小卓に置き、紅葉に視線を戻した。持ち主である中也に何かがあったと考えるのが妥当だったからだ。紅葉の探るような視線が太宰を射る。
「――心当たりはないのじゃな?」
「あるわけないでしょう。中也と会ったのは一週間前が最後だし、それからは連絡だってとってないのに」
「なるほどな。――ではその一週間の間に中也がお主の”何か”を見た可能性は?」
話が見えず、太宰は眉間に皺を寄せた。
しかし紅葉にはその反応だけで十分だった。昂りかけた気を鎮めるように深く息を吐き出し、云った。「これは、芥川が幹部執務室の屑籠に入っているのを見付けて回収したものじゃ」
「……は?」
頓狂な、間の抜けた声しか出せない太宰を一瞥した紅葉によれば、それは四、五日前のことだという。
「所用で中也の部屋を訪れた芥川はいくつか言葉を交わしたそうじゃ。特段変わった様子もなかったのじゃが、ふと首元がすっきりしていることに気が付いた」
言葉を切り、カップを受け皿とともに卓に置く。伏し目がちの双眸は、はっきり首飾に向けられていた。
首飾は、昔からどんな服にも合わせてきた中也の自己表現の一つだった。譲り受けた帽子と同様、常に身に着けていたもの。トレードマーク。それが失くなったとなれば、芥川だけでなく、彼の部下の殆どが気付くだろう。
芥川はそのことを指摘しようと口を開きかけ、そしてふと、視界に入った屑籠にそれが無造作に棄てられているのを見た。
「お主が昔、中也に贈ったものだというのは芥川も知っておったようじゃな。ぞんざいに扱われたのが気に入らなかったようじゃ」
モテる男は辛いのう、と手套を嵌めた手の甲で口元を隠しながら茶化すように楚々と笑う。太宰は険しい顔で続きを促した。紅葉の表情が目に見えて曇った。
「あの坊主は中也の目を盗み、黒衣で首飾を回収した。部屋を辞したところで、ある違和感に襲われた」
「違和感?」
こくり、と紅葉が首肯く。「中也があれで仲間想い、部下想いであるのは、マフィアの人間なら誰もが知っておる。そして同様に、物も大切に扱う。人から貰ったり、譲り受けたりしたのであれば尚のこと」
その中也がこのように物を粗末にするとは考えられず、芥川は紅葉の下に相談に訪れた。
「姐さんは、その原因が私にあると考えたわけか」
「お主らの今の関係に口を挟むような野暮なことをする心算はないがな。これまでの遍歴や、過去あの子にしでかした仕打ちの数々を思い返せば文句は云えまい」
身から出た錆じゃ、と吐き捨てるように云われてしまえば、太宰も云い返すことはできなかった。苦笑を漏らし、持ち主の手を離れた首飾に視線を落とした。
「――森さんは、この件についてはなんて?」
「仕事に支障が出ていないのであれば気にする必要はない、と。首飾以外には特に変わった様子もないし、慥かにいつも通り――いや、いつも以上に仕事をよく熟しておる」
紅葉は憂いを帯びた溜め息を吐いた。
「この件について私が探偵社に依頼をする道理はどこにもない。首領の云うように仕事にも、況してや私らにも、取り立てて影響はないのだからのう。――じゃが私は、あれがどういう子かを知っておる。なればこそ、放っておくこともできなんだ」
「……だから、休暇を取ってまで探偵社を訪れた、というわけですね」
ポートマフィアの幹部としてではなく、尾崎紅葉個人として依頼をするために。
「勿論それだけではない。太宰めが本当に浮気をして中也を哀しませたとなれば、私はお主を斬らねばならぬ。協定を破るような真似は、幹部にはできん」
「……もしかして私が浮気したから中也が怒って首飾を棄てたとか思ってます? 万が一、私が囮捜査で女性と逢引紛いのことをしたとして、それを見たくらいじゃあれはへこみませんよ」
「それくらい知っておる。あくまで喩えじゃ」
じゃが、と言葉を切った紅葉の双眸が瞼に閉ざされた。
少しの沈黙。しかし、それは長くは続かず。
「――恋は人を強くもするが、同時に弱くもする」
鈴鳴りの声が歌うように言葉を紡ぐ。
落ちた楓の葉が、凛とした静けさの中で水面に綾を描いて広がっていく。そんな声。
「どんなに心が強い者でも、恋による心の変化までは予測ができぬ。それに心が強いとは云え、まったく傷付かぬわけでもない。傷を抱えたまま、痛みを堪え、呑み込み、それでも真っ直ぐ立っていられるからこそ強く見えるものなんじゃ。当然、傷を抱え込みすぎれば膿み、やがては腐り落ちていくだろう。どんなに強度の高い強化硝子も、衝撃を与え続ければ罅割れ朽ちていくようにな」
それを努々忘れるな。――紅葉はそれだけを云い置き、やがて探偵社を去っていった。出口まで見送りに出たナオミに「ほんに美味い茶じゃった」と笑みを向ける姿には、とても人を殺し慣れたマフィアの女傑とは思えない気品と人当たりの良さが滲み出ている。
太宰は紅葉が置いていった中也の首飾を持ち上げ、蛍光灯に翳しながら、かつての同僚の言葉を口の中で転がした。
中也がこれを捨てたのは、太宰が知らないうちに何かをし、彼の心を傷付けたからだと紅葉は云う。太宰がいくら心当たりがないと云っても、全てを信じたわけではないだろう。これまでの行ないを考えれば致し方ない話だ。
「……あの、太宰さん」
聞き耳を立てていた――立てる心算がなくとも聞こえてしまうのだろうが――敦が、おそるおそるといった様子で応接間に顔を覗かせた。太宰の鳶色が、敦を捉える。
「どうかしたかい? 敦君」
「いえ、その……」
「おい太宰」
云い淀む少年の後ろから、今度は般若の如き険しい表情を貼り付けた国木田が低い声で太宰の名を呼ぶ。紅葉の来訪で気を張り詰めていたのが嘘のような変わり身だ。地の底から湧き上がってくるかのようなその声に、敦は「ひっ」と喉を引き攣らせ後退った。
「先刻の話はどういうことだ」
だが敦もそのことを聞こうとしたのだろう。表情を改めて頷き、答えを求めるように太宰を見た。
「どうもこうも、私の昔の飼い犬の様子が怪訝しいという話しかしてなかったと思うけど?」
「そういうことではない!」窓硝子が震えるほどの大音声。「止めなよ国木田」と、若気けた与謝野が自分の机で頬杖をつきながら嗜める。「痴話喧嘩なんて犬も食わないよ。外野は黙って事態を見守ろうじゃないか」
「でもまさか、こんなところで太宰さんの意中の方が分かってしまうなんて! なんだかすっきりしましたわっ」
紅葉を見送ったナオミが声を弾ませて戻ってきた。表情は完全に夢見る乙女のそれだ。両手を顔の前で組み、ほうっと頬を赤らめて溜め息を吐く。
「女性からの苦情が激減したのもそういえばマフィアに捕まってからだったけ」と与謝野が問う。否、それは最早問いの体をなしてはいなかった。
太宰自身、特に隠していた心算もなければ隠さなければならない理由もなかった。ただ体面を気にする中也からすれば、知られたくなかったのは事実である。太宰はそれを尊重したに過ぎない。
何にしてもまずは状況を確認する必要がある。
未だ太宰と中也の関係性について盛り上がる女性社員たちの声を意識の外に放り出した太宰は、衣嚢にしまっていた携帯端末を取り出した。
+ + +
「好き」という感情があったのかなかったのか。
それは重ねた月日の中に置いてきてしまって、細部まではもう思い出せない。
覚えているのは「欲しい」という鮮烈なまでの渇望。絶対的な強さと暴力を武器に生き生きと輝くそれは、灰色の世界の中でひときわ美しく色付いて見えた。獣のように咆哮し、蛮族のように嗤い、ただ生きるために自らが弾丸となって跳躍し臓腑を抉る。呼吸を忘れる程の圧倒的な力。
「傘下に入れという言葉は撤回しよう」
彼の強さをあてにしていた大人は呆気なくその手を離した。
そのときは何も思わなかった。
しかし圧倒的な暴力で「生」を見せつけられた後には、前の大人の判断に感謝すら覚えた。
貴方は差し出した手を引っ込めた。なら、僕が代わりに手を差し出そう。
仮令それが、狡猾な大人による巨大な謀略の手の内で踊らされた結果に過ぎなかったとしても。
「君は一生、僕の犬だ」
「好き」という感情があったのかなかったのか。それは分からないけれども慥かに云えることが一つだけある。
あのときから、僕は君に「恋」をしていたのだ。
+ + +
すっかり日が落ちた公園に、太宰はいた。
探偵社から近いところにあるような、都市計画の一環で造られるきれいな公園ではない。かつて空いた敷地に埋め草的に造られた、錆びれた小さな公共公園。子どもが落ちて危険だからと、昔ながらの背の高いジャングルジムは黄色いテープがぐるぐる巻きにされている。近く撤去されるだろう。
その公園の長椅子は、座ることを躊躇してしまうほど砂埃と錆で汚れていた。そこに座って膝に両の肘をつき躰を丸めていると、まるで社会に置き去りにされた放浪者が項垂れているようにも見える。敷地の外を通りがかる人は気付いた様子もなく、また気付いても関心を抱くことなく、足早に通り過ぎていった。
太宰は力の抜けた左手に端末を握っていた。いつまで経っても鳴ることのないそれを開くこともなく、ただ凝と空を睨み付ける。
春と雖も夜は冷える。況して風が強く、太宰の体温を徐々に奪っていく。端末を握る手の感覚は既になく、刻々と過ぎる時間を、文字通り躰を張って耐え忍んでいた。
――斜陽の影にて待つ。
斜陽の影とは、昔二人で取り決めた暗号の一つだ。夕方五時頃になると鬱蒼とした木々の影がこの公園内を埋め尽くすので名前を付けた。暗号というより、最早言葉遊びに近い。
任務の集合場所を連絡するとき、太宰が囮となって無線集音器越しに場所を指示するとき、いろんな場所に付けた勝手な名前は即座に中也の頭の中で正確な像を結んだ。作戦内容にしてもそうだ。四年やそこらで暗号を忘れるなどということはない。だから使った。
太宰にはある予感があった。それは、胸にできた小さなしこりのように微かな違和感。だけど放っておけばやがて大きな障りとなって躰を蝕む。そんな得体の知れない嫌忌を内包した予感は、紅葉から話を聞いているときからずっと、ひたひたと忍び寄ってきていた。
連絡をして、来るなら構わない。「中途半端な時間に呼び出すんじゃねぇ」と悪態でもつきながら、まだ仕事が残っていると云って自宅の鍵を投げ渡す。それを太宰は当たり前に受け取る。それだけで済む。あとは、どうして首飾を捨てたのか、じっくり時間をかけて聞き出せばいい。
問題は来なかったときだ。だが、おそらく来ないのだろう。
太宰が抱いていた予感。それは約束の時間を過ぎ、さらに一時間、二時間、と経つにつれて確信に変わった。
仕事で来ることができないのならば一言くらいは連絡する。中原中也はそういう男だ。それがないということは、意図的に無視しているということになる。
なぜ?
それは本人にしか分からない。何かしただろうかと考えてみるが、過去に散々嫌がらせをしすぎてきたので最早どれが原因かを探り当てるのも困難だ。もしかしたら積み重なった鬱憤が何かの拍子に爆発したのかもしれない。
三時間が経った。太宰はゆらりと立ち上がり、端末を開いた。返信も電話も、特になかった。
中也が自宅として使っているマンションは、流石はマフィア幹部、といった体の高級感のあるタワーマンションだ。殆ど寝に帰るためだけのような場所だが、昔と比べて室内は随分と生活感がある。
何度も通った道程。何度も打ち込んだ暗証番号。振動を一切感じさせない最新鋭の昇降機。太宰は一定の間隔で明滅する文字盤を見るともなしに眺めた。
緊張。
今の太宰の気持ちのありようを表現するなら、それが一番ぴったりくる言葉だった。そしてそんな己に失笑する。
中也相手に緊張? そんなもの、相棒だった頃も恋人という枠に落ち着いた今も一度として感じたことはなかった。ただ無駄に回る頭が、これから起こりうる未来を幾通りも脳内再現する。
それは、碁盤の上で繰り広げられる黒と白の攻防に近い。此処に石を置けば相手はどのように打つか、それに対し自分はどのように返すか。何十、何百通りとある可能性を、演算機に頼ることなく弾き出す。得意な筈の盤上遊戯。見慣れた扉の前に立っても、勝てる未来は未だ見えなかった。
眼下に横浜の街を臨める玄関前の共用空間は高層故に風が強く、太宰の外套の裾を忙しなく揺らす。
「……まったく、なんでこうなっちゃったのかなぁ」
いつかと同じ呟きが夜に溶ける。太宰は嘆息しながら鍵が掛かっていることを確認し、久し振りにピンを取り出して、扉を難なく開けた。
ヒュンッ
空を切る音が耳横を駆け抜けていった。右目を狙った正確な軌道。首を横に傾けなければ確実に眼球が抉り取られていた。重力操作で弾丸より鋭く飛び出した小刀は、そのまま夜の闇を切り裂き、通り向かいのビルの壁に蜘蛛の巣状の亀裂を奔らせ、止まった。
「危ないなぁ」太宰は飄々とした口調で家主を見遣った。
「いきなり何するのさ」
「ピッキングしてまで堂々と入り込んでくる奴なんざ、野盗だろうが暗殺屋だろうが返り討ちにしてやんのが基本だろ」
中也は何の感慨も浮かばぬ表情で言い放った。既に部屋着に着替えている。珍しく帰りが早かったのだろう。
「おっかないねぇ」
「裏切り者の探偵社が何の用だ」
肩を竦めておちょくるように云う太宰に、無駄な会話はしない、という気迫で中也は云った。太宰は両手を収めた衣嚢の中で首飾を握り、悟られないよう深呼吸した。
「いいや? ただ連絡したのに返事がなかったものだから。どうしたのかと見に来ただけさ」
「そうか。そりゃあご苦労だったな。特に何もねぇからとっとと帰ンな」
そして扉を閉めようと一歩を踏み出す。その行動を予測していた太宰は、それより先に痩躯を扉の隙間に滑り込ませ、代わりに扉を閉めた。
怪訝と警戒。把手に手を伸ばしかけた中也の瞳に浮かぶそれらは、七年前の出会った頃に向けられていたものにほど近い。
「恋人に向かってツレナイじゃないか」
「俺はあんたと恋人になった覚えはないんだが」
「……だから待ち合わせの連絡を無視したの?」
「行く必要がないと判断した。それだけだ」
まったく温度を感じさせない声。それはどこまでも無機的で、事務的だ。待っているかもしれない人に対して悪びれた様子もないのは、彼が本当に「悪い」と思っていないから。だがそれは、太宰の知る中也ではなかった。
「――ちょっと失礼」太宰はすぐさま中也の腕に手を伸ばした。
棄てられた首飾。急変した態度。彼らしからぬ行動。
もし紅葉の云うように何か思うところがあって太宰に愛想を尽かしたのだとしても、説明し難いことが幾つもあった。
それは、中原中也という男のことを知っていれば尚のこと、疑念となって胸の奥に蟠る。況して今の太宰には心当たりがなさすぎた。かつての所業の数々は棚に上げるにしても。
考えられる可能性は一つ。――異能力による精神操作の影響だ。
「……いつまで触ってンだよ」
しかし中也は胡乱げに睨み上げるばかりで、異能無効化時特有の青白い閃光はいつまでも現れなかった。パシン、と振り払われた手を太宰は呆然と見詰め、そして顔を上げた。中也は掴まれた腕を擦っている。その感触を消し去ろうとでもするかのように。
「用がねぇんならとっとと帰れ。明日も早ェのに探偵社の相手なんかしてらんねぇんだよ、俺は」
太宰の突発的な行動に対し、嫌悪も困惑もない。完全なる無表情。好きとか嫌いとか、恨んでるとか怒っているとかそういった次元の話ではなかった。
太宰はこれを知っている。
鮮やかな色彩に魅せられるあの瞬間まで傍らに当たり前にあったもの。淀のように滞留する、何の希望も期待もない、退屈な世界に対する果てのない無関心。
中也の眸は太宰を映しているようでその実、何も映し出してはいなかった。