台所から徳利数本と猪口二つを持ち出して、黒鋼は白鷺城内の長い回廊を歩いていた。慣れ親しんだ造りの城の中を歩いていると本当に帰ってきたのだということを実感するのだが、一方あれだけ帰ることを切望していたというのにまるで人の家に上がり込んだときのような落ち着きのなさを覚えて居心地が悪かった。違うと、自分の中の何かが頻りに訴えてくるのだ。
それは本当の意味での旅がまだ終わっていないからだということを黒鋼は理解していた。目的がいつの間にかすり変わっていてもそのことに違和感を覚えることはないし、自分のやるべきことに疑問を覚えることもない。その所為かここ数日、城主姉妹には「かつてなら考えられなかった」と揶揄われてばかりだ。
城の中には、客人が宿泊する際に使う部屋が並ぶ一角がある。
城の忍軍の一員として知世に仕えていた黒鋼には専用の部屋が元々与えられており、帰ってきた今回も自分の部屋で寝起きしていた。だが客人である小狼やファイはそうはいかず、客人として、今黒鋼が歩いているこの回廊の先にある部屋で寝泊まりすることになっていた。
長い廊下だ。左手には欄干、その向こうには小庭があり、中央の桜が花をつけ、月夜に枝葉を伸ばして凛とした佇まいで聳立している。城の中心にあるあの神木ほどではないにしろ、慎ましく立派な桜だ。
ひらり、足元に花びらが散った。
回廊はちょうど「コ」の字形になっており、回廊を歩けばどこからでもその姿が伺えた。部屋に向かうまでの間客人の目を楽しませる仕様になっているのだ。
右手側にはそれぞれ部屋がある。襖が並び、部屋の大きさは中の仕切りで自由に変えることができる。
その中で、現在使われているのは二間のみ。今は他に賓客もなく、この辺りは静寂に包まれていた。小庭から僅かに射し込む月明かりは仄青く、桜の花びらと相俟って幻想的に足元を照らした。
やがて視界の先に、月明かりとは異なる橙色の光が見えてくる。客がいることを示すと同時に、客が部屋を出ても暗がりを歩くことのないようにと行灯に火が灯されているのだ。手前の部屋にひとつと、奥に二間ほど進んだところにある部屋にひとつ。黒鋼は手前の部屋を素通りし、奥の部屋の前で足を止めた。
「――入るぞ」
中の人間の返事を待つこともなく襖を開ける。本来なら咎められるところだが部屋の主は大して気にした様子もなく、開け放した障子に寄り掛かりながら欄干の方まではみ出て夜空に浮かぶ弓月を見上げていた。
「いらっしゃい、黒様」
そろそろ来る頃だと思っていたよ、と言って振り向きざまに細められた隻眼は、数日前のやり取りのために今は黄金色に輝いていた。
よく磨かれた蒼玉のように美しく澄んだ青は、今はもうどこにもない。そこにあるのは金。誰だか――城に仕える女中だっただろうか――が、その眼窩に月を閉じ込めたような美しさだと言っていた。黒鋼は後ろ手に襖を閉め、ファイに近付いた。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「いい加減寝飽きた」
「あはは、黒りんらしいね」
人ひとり入れるほどの間を空けて隣にどっかと腰をおろし、畳の上に持ってきた徳利と猪口を置く。黒鋼と肩を並べるほど酒豪のこの男ならば喜んで飛びついてくるのではないかと思っていたのだが、意外にもその金色の瞳は咎めるように眇められた。
「飲むと傷に響くよ」
「問題ねぇよ。とっくに塞がってる」
「塞がってても、血の流れがよくなったら簡単に鬱血すると思うけど」
ファイの視線が、徳利から左肩へと移る。そうなったらお前がそこに歯を立て溢れた分を飲み干せばいい――黒鋼は思ったが、口には出さなかった。
「ん」
その代わりに猪口を渡し、そこに酒を注ぐ。「ありがとう」と言ったファイが次に徳利を手にし、同じように黒鋼の猪口に酒を注いだ。反対しても意味が無いと分かっているのだろう。動きはどこか渋々だった。
二人揃ったところで一気に酒を煽る。酒精が喉を、食道を焼いた。
「相変わらずいい飲みっぷりしてるね、おとーさん」
「ちまちま飲むのが苦手なんだよ」
ファイが笑いながらまた徳利を傾けた。二人で酒を酌み交わすのは久し振りのことだった。
何とはなしに隣を見遣り、黒鋼と同様一気に酒を煽る魔術師の、月明かりに照らされた瞳を見てふと思う。失った青。左腕を対価に魔術師の命を得、魔術師は魔力を対価に黒鋼の義手を得た。一巡して、理屈の上では等価交換、どちらも責を負う必要はないが、失われたものが戻るわけではないことを思うとあの青をもう一度見たいと思ってしまう。
もう戻らないものを求めることがどれだけ愚かで危険なことかは誰しもが無意識に知っていることだ。それでも今目の前で酒を飲んでいる魔術師は求めたし、自分たちが過去にわたった世界にも、同じように失くしたものを求める者たちが数多くいた。父母を失くしたあの日、幼かった自分もまた、心のどこかで求めていたのかもしれない。
それは確かに愚かなことかもしれないけれど、その願いを責めることは誰にもできないのだ。そして憐れむことも。だから自分で気付くしかない。
黒鋼の視線に気付いたファイが振り向く。「どうかした?」と首を傾げるとさらりと伸びた金糸がその細い肩を撫ぜた。手を伸ばし、左頬に触れる。
「……ないんだな」
すっと下瞼をなぞる。何が、とは言わない。それでも聡明な魔術師には伝わるようで、「黒様もね」と言って畳の上に置いた猪口をわきに避け、身を乗り出して左肩に触れた。
「痛くない?」
「ああ」
ファイの細い指先が、着物越しに義手と生身のつなぎ目を伝う。皮膚が薄くなり、神経が幾分過敏になっているらしいそこはほんの少し触れられるだけでもむず痒さを覚えるが、黒鋼は何でもない風を装ってファイの好きなようにさせた。
だがファイが先に言っていた通り、酒が入ったことで痛みともつかない疼きが加わり出す。しばらくして黒鋼は、胡坐をかいていた膝に手を載せて体重をかけてきていたファイを無造作に抱き上げ、向き合うように膝の上に乗せた。「わッ」と驚いたように声を上げたファイは、慌てた様子で咄嗟に黒鋼の首に腕を回し、バランスをとった。
「ッびっ、くりしたー……もう、何するんだよ黒ろん」
非難の声が上がる。ファイとて決して小柄というわけではないし、身体つきも見た目の印象に反ししっかりしている。けれど黒鋼にとってはまだまだ細い。そんな男を持ち上げることなど造作もないことだった。
膝に乗せたファイを改めて見遣ると、あの金がより一層輝きを増したように見えた。角度が変わり、月の光を受けやすくなったからかもしれない。その金が視線の下にある紅い双眸を非難がましく見つめるが、やがてふっと肩の力を抜き、困ったような、諦めたような微笑を浮かべた。
――ないんだな。
同じことを、もう随分と前に一度、思ったことがあった。
漆黒の瞳がこちらを見つめ、訳の分らない言葉を繰る。顔は確かに知っている人間のものなのに、まるで別の人間を相手にしているかのような錯覚に陥った。王の計らいで二人同じ部屋で半年を過ごしたが、慣れることは最後までなかった。
日本国と同じ畳敷の一室に通された直後、振り返ったその瞳に瞠目する。「お前、その目……」言いかけて、言葉が伝わらないことを思い出してすぐに口を噤んだが、どうやら己の身にも同じことが起こっていたらしかった。それまでちゃんと「喋れない人」を演じていた魔術師はその漆黒の瞳を丸くして、自分の目元を指差しながら何かを言った。当然、黒鋼にはそのときどんな言葉がかけられていたのか分らない。それでも言いたいことは伝わった。
小狼たちと再会する一か月ほど前のことだ。普段はべらべらとよく喋る魔術師もその国にいる間ばかりは口数が少なく、一緒に酒を飲んでいるときも部屋の中は沈黙に満たされることの方が多かった。今になって思えば、セレスで見せられたあの過去のように、そちらの方が素の彼だったのかもしれない。
何にしてもそれは、いつもなら喜ばしい状況のはずだった。変な呼称もふざけたやりとりもないから当然相手にする必要もなく、自分の時間をゆっくりと過ごすことができる。だがそれもひと月、ふた月と経つごとに違和感は増していき、そしてその日、とうとう黒鋼は自ら口を開いた。
――ないんだな。
言葉がない。青い瞳がない。
そのときはまだ嘘で周りを固めていた魔術師が、より一層遠くに感じた気がしたのだ。ファイは首を傾げ、そしてへらりと、あの中身のない笑みを返しただけだった。
「……出発はいつ、つった」
「明後日。もうすぐだよ」
「そうか」
長い金色の髪が、俯いた拍子にさらりと頬を撫でていく。それを耳にかけてやると顔の半分を覆う黒い眼帯が露になった。左手を腰に回し、空いた右手で眼帯の縁をなぞる。くすぐったそうに微笑ったファイはその笑みのままそっと顔を近付けてきた。
あの頃に比べると、お互い随分と素直になったものだと思う。嘘の殻を破った魔術師は、おそらく心の奥底では過去を引きずりつつも、今直面している問題をひたと見据えて立ち上がろうと必死になっている。
失くしたくなかったものを失くした過去を克服するには、以前のファイのような弱い心のままでは無理だ。それは同じように大切なものを失くした過去を持つからこそ分かる。――今度はそれを守ると決めた。何者からも奪わせないと決めた。
小鳥が餌をついばむような控えめな口吻けを数度交わし、さらに濃密なつながりを求めて互いに舌を絡め合う。漏れ聞こえてくる濡れた音、濡れた声にいよいよ歯止めが効かなくなってくるのを感じ、黒鋼はゆっくりと口唇を離した。
「黒様ってキス上手だよね」
上に乗ったままのファイが言った。唾液に濡れた薄い唇が月明かりにきらりと光る。
「ああ?」
「慣れてるっていうか、女の子なら腰砕けになっちゃう感じ」
「……ふん。言ってろ」
テメェはどうなんだ、という言葉を呑み込みそっぽを向く。テメェは腰砕けになんかなんねぇんだろ。――と、そのとき微かに襖の向こう側から人の動く気配を感じ、ハッとして顔を上げた。ファイも気付いたのか襖の方を向いて視線を逸らさない。
しん……、とした沈黙が続く。中庭にある池で、鯉か何かが跳ねるような水を打つ音が聞こえるばかりで聞こえる音は他にない。
「チッ…………おい、そんなとこでこそこそ何やってやがる」
気配は一向になくなる様子を見せず、黒鋼は痺れを切らしひと声を投じた。その間にファイは膝から下り、やや乱れた着物を直しながら向かいに改めて腰を下ろした。衣擦れの音がする。
「もう少し続けてくださってもよろしかったのに」
「せっかくの余興が台無しですわね」
「ほんとほんと! 黒鋼とファイ、とーってもラブラブだったから、モコナすごく楽しみにしてたんだよ」
「と、知世……ッ」
「それにモコナと天照様?」
先ほど黒鋼が閉めたはずの襖はいつの間にか少しだけ開いていて、そこから黒鋼が主として仕える少女とその姉、そしてモコナがひょっこり顔を出した。その後ろでは天帝に引っ張られてきたらしい蘇摩が「やってしまった……」とばかりに手で顔を覆っていた。黒鋼とファイ、二人の口から頓狂な声が上がる。
「テメェら、いつの間に……ッ」
「結構前の辺りから。月読は、黒鋼ならすぐ気付いてしまうと言っていたけれど」
「大事な奥方様との逢瀬となると話は別のようですわね」
ほほほ。姉妹が声を揃えて笑う。
「えっと……黒るんの奥方ってもしかしてオレ……?」
「あなた以外に誰かいまして?」
天照がいたずらな笑みを浮かべながらファイを見遣った。ぴょんぴょん、と音を立ててモコナが近付いてくる。
「だって黒鋼はおとーさん、ファイはおかーさんだもんね!」
黒鋼は訂正ついでに怒鳴ろうとして、止めた。「ふん」と鼻を鳴らし、立ち上がる。この姉妹がいるのにいつもの調子で相手にすればどんな揚げ足をとられるか分かったものではなかったし、何も病み上がりで自ら疲れを呼び込む必要もない。
「俺は部屋に帰るぞ」
「えー。黒りんもう少しここにいればいいのにー」
「そうですよ。せっかく知世が、気を張っているあなたたちのために盤上遊戯でもと提案してここに来たというのに」
「んなもんやってられるか」
「黒鋼! 天照様になんて口の聞き方をッ」
さっきまでは静かすぎるほどだった室内がにわかに騒がしくなる。盤上遊戯(というかどう見ても双六)と聞いて興味を持ったファイが笑いながら呼び止めたが黒鋼は応えなかった。するとすかさず知世が、
「夫婦の睦み事を邪魔してしまったことは本当に申し訳ないと思っていますわ」
と、さも楽しげに目を眇め、着物の袖口で口元を隠しながらまた笑った。
「な……ッ」
「あ、黒鋼赤くなってるー」
「うっせぇぞ白饅頭!」
「きゃー! 黒鋼が怒ったー!」
モコナは逃げ、ファイの肩に乗る。「あんまり黒様のこと怒らせないようにね」とファイが言うと「はぁい」と手を挙げて応える。黒鋼は溜め息をついた。もはや疲れていた。
「あまり張り詰めすぎもよくないと思ったのですが、心配はいらなかったようですね」
「うるせぇよ」
知世がファイとモコナに双六を教えている様子を見ながら天照が言った。ここに小狼を加えなかったのは、張り詰めすぎているが故だという。一番心配で不安なのはあの少年なのだ。――それこそ、遊んでいる暇などないほどに。今は封真が話し相手になっているらしい。
「あなたが成長して帰ってきた理由が分かった気がします」
「……」
試しに賽を振るファイの横顔を見る。口元には嘘ではない笑みが浮かんでいて、本人が楽しんでいるらしいことがよく分かる。黒鋼もふっ、と笑った。
守りたいと思ったのだ。いつの間にか芽生えていた仲間意識が、子供たちやこの魔術師を守りたいと。
ちなみにかつて失くした大事なものに代わる大事なもの――それが何かなど、わざわざ言葉にするまでもないだろう。
(了)