本丸御殿は小高い山の上にあった。広大な敷地を擁す郭には天守を頂いた本城がある。その中の一室を、和泉守兼定は主より下賜されていた。つい数日前のことだ。
部屋は入り組んだ城内の階段を二つほど上がったところにあるため、朱塗りの欄干の向こう側に城下を見下ろすことができた。本丸の外側に広がる二の丸、その外側の三の丸が小さく見える。さらに向こうは川べりとなって、城と町とを僅かばかり隔てていた。対岸とこちら側とをつなぐ石橋を、遠征部隊が早朝帰還してくるのが見えることもある。随分と良い部屋を与えられたものだ。
障子戸を開け放って見えた明けの空は藤のように淡く色付き、東側から昇る橙色と相まってなんとも雅な風情を醸し出していた。川が陽の光を反射して煌めく。ゆらゆらと、その流れさえ遠目にも確認できるようであった。風は穏やかで、室内に戯れに入り込んできては兼定の長い髪をさらりと揺らす。
しかしそのような風情を「よきかな」と頷いて堪能することが、兼定にはできなかった。それより彼にとって重要だったのは、風に揺れるその長い髪を如何にして結い上げ機動率を上げるか、であった。時間がなかった。
寅の刻を回ったばかりの時分を遅いか否かと捉えるのはその人次第であろう。兼定にとって、本来それは遅くもなく、早くもなく、いわば中途半端な時間であった。どちらかといえば、年寄りでないのだからやはりもう少し寝ていたいかもしれない。
しかし今日ばかりはそうも言ってられなかった。初めての内番である。そしてそのためには、この長い髪が邪魔だった。
だったら頭頂部にほど近いところで一結びにしてしまおうと思ったのだがこれがなかなかうまくいかない。自分が不器用だと思ったことは特になかったが、結び終えて鏡を覗きこんでみるとどうも不格好で、気に入らずに解いてしまう、ということを何度か繰り返していた。
前主が丁寧に手入れをしてくれた自慢の頭髪。お洒落に気を遣う加州清光すらも時折羨ましがることがある。
梳いていい?
結んでいい?
ここに来てから何度その言葉を投げかけられたか分からない。今の主がこの本丸を宛てがわれてからずっと近侍を務めている彼にしてみれば、その行為そのものは一種の娯楽のようなものかもしれない。
今ここに加州がいてくれれば、結ってくれと頼むのもやぶさかではなかった(普段はもちろん御免だ。どんな風にされたものか分かったものじゃない)。しかし彼は今、近侍を下りて第二部隊隊長として遠征に出掛けている。本丸内で最も練度が高くなったためにお役御免だ、と先日笑って言っていた。代わりの近侍は、最近来たばかりの脇差だ。こちらも旧知だった。が、仕事内容が違う上に、部屋がある区画が違うためにほとんど会うことはない。昔はあんなに一緒にいたのに、と、もどかしく思うことがしばしばあった。
さて。ともかくも今はこの髪をどうにかしなくては。
兼定はもう一度鏡の前に向き合い、髪を束ね始めた。何度か繰り返していたために少しばかりもつれてしまっている。それを直し、うんうん唸りながらまとめていると、「兼さん」という声が聞こえた。ハッとして、振り返る。
「……国広」
「こんばんは」
空気を入れ替えるために開いていた障子戸の向こう側で、いつの間に来たのか堀川国広が正座をしていた。この時間なのにきちんと身なりを整えている。上着も襯衣も首紐も、乱れたところ一つない。
「どうした、こんな時間に」
身体をそちらに向ける。国広は改まったまま敷居を跨ごうとはしなかった。が、どことなくそわそわしている。たぶん、入っていいものかどうか迷っているのだろう。先日鍛刀されたばかりのこの相棒は、なぜだかこうして時折、遠慮がちな姿勢を見せる。
「うん。今日、兼さんが畑当番だって、主さんに教えてもらったから」
「お前もか?」
「ううん。僕はしばらく練度を上げることに集中するようにって」
「だったらなんで……いいや。とりあえずこっちに来い」
空は既に白み始めていて、藤を思わせる薄紫を溶かしたようで美しかった。その空を背に立ち上がった相棒は、中に入ってくるなり兼定の手元にある化粧箱に目を留めた。乱雑に置かれた櫛や髪紐を見て何を思ったか、なんとなくではあるものの理解ってしまった。
「……頼めるか?」
そのせいかそう言ってやると、国広の表情はみるみる明るくなった。「うん」と頷くなり膝をつき、櫛を手に持つ。兼定はそんな相棒に、背中を向けた。
「相変わらずさらさらだねぇ」
間延びした声が耳に心地よく響く。兼定はされるがまま、ふっと瞼を下ろした。つげ櫛で毛先を優しくほぐし、その後で全体を整えていく。その手は常に優しかった。
「懐かしいな。前の主がオレの髪を梳いてて、見よう見まねでお前がそれをし始めた」
「そうそう。手入れはちゃんとしないとって、言ってたのにいつからか僕が一任されて」
「その分、お前の方があの人に髪を梳いてもらってたな」
「覚えてる? 兼さん、それで一回機嫌悪くして、三日間ぐらい僕たちと話さなくなったの」
かわいかったなぁ、あのときの兼さん。
国広はかつてに想いを馳せるようにひとりごちた。「あ、あれは別にッ」と振り返りかけると、「はいはい、じっとしててね」と頭を固定される。束ねた髪が、どんどん整えられていく。
「……なぁ」
「なぁに?」
鏡の中には見覚えがあるようなないような、そんな男がいた。頭の上の方でひとまとめにしている。後ろに見える国広を睨むように見ていると、彼はふっと笑った。
「トシさんにそっくり」
「ッ!」
前の主が兼定や国広の髪をその武骨な手で丁寧に扱ってくれたのと同じように、国広は彼の髪を結っていた。昔から器用で、その手腕は自分をきれいに見せたい加州のお墨付きもある。仕方がないのかも知れないが、少し、ムッとした。
「この短時間で随分遠慮がなくなったじゃねえか」
腹いせに言ったつもりだったけど、国広はそう言われて初めて気が付いたように、慌てて「ごめん」と言った。前の主にそっくりな頭は、今日はもうこのままにしよう。もちろん、今後は控えてもらうつもりだが。
「別にいいけどよ。つか、よそよそしすぎてオレも距離感つかみにくかったし」
「そ、そんなに?」
「ああ。思い出話できるくらいがちょうどいいんじゃねぇの、オレたちは」
丸くて小さな頭に手を置いて、くしゃくしゃと掻き混ぜる。「やめてよ兼さん!」と抗議する国広は、しかし笑っていた。まるで犬猫とじゃれ合っているような心持ちだ。
「お前があれからどんな扱いされてきたのかとかオレには分かんねえけど、オレの相棒であることには変わりねえんだ。その辺は胸張っとけ」
ぽんぽん、と頭を撫でてやる。
「……ふふ、強引だなぁ、兼さんは」
そう言った彼の頬に、笑みとともに伝ったものには気付かぬふりをして、地平線の向こうに見える白い朝陽に目を細める。
夜が明けた。
(了)