まず初めに闇があった。
その後すぐ、光を感じた。
淡く白い光は瞼ごしに闇を照らし、あたたかく、柔らかく、この身を包む。
手のひらに触れるぬくもり。みっつめに感じたものに、意識はほんの少し考える。
これはなにかな。なんの感触かな。
持ち上げようとしても瞼はなかなか開かない。それでも開けようとして、手のひらに触れるそれをきゅっと握る。
「国広……!」
聞いたことのない声のはずなのに、もうずっと前から知っている声が、口に馴染んだその名前を力強く呼んだ。
そうっと開く瞼。
見えたのは真っ黒で艶のある長い髪。赤い紐がちらりとよぎる。
浅葱の瞳が、僕を捉えて離さない。
その光に、その輝きに、僕はよっつめの世界を見出したのだった。
「この部屋が手入れ部屋だ。一番世話になるから覚えとけよ」
和泉守兼定はそう言って、今しがた見せたばかりの部屋の障子戸を静かに閉めた。中はだだっ広い畳の間で、使うときは襖で仕切って奥から使うという。
前を歩く相棒の足取りは軽い。それを見ていると、よく分からないけれど頬が緩む。ダメだなぁ。僕は、僕らは、目的のために呼び出されたにすぎないのに。
引き締めないと、と両手で頬をパシリと挟み込むようにして叩くと、その音に振り向いた相棒は「何してんだ」と訝るように目を細めて言った。
僕の世界は瞬く間に広がった。本丸と呼ばれる屋敷の中を案内してもらいながら、その背中を見て思う。見たことのあるだんだら模様。「陣羽織じゃないんだ?」と問うと彼はわざわざ足を止めて振り返った。僕の視線が肩から羽織っているものに向いていることに気が付くと、片手でそれを広げて見せる。
「まんと、っていうだと。こっちの方がかっこいいだろ」
ばさぁ、と、そのまんととやらを翻す。その姿はまるで幼い稚児のようにかわらしく目に映る。
「うん、かっこいい」
かわいいとかっこいい。認識には、どうやらそれぞれ差があるらしい。
本丸は広かった。手入れ部屋や刀装製作所、鍛刀部屋(僕が目を覚ました部屋だ)、道場に畑に厩舎まで。さらには厨や厠、湯殿が揃って、まるで人間みたいだ。すると相棒は「オレたち自身が人間みたいなもんだからな」と言った。
「付喪神、つったってこの身体は人間と同じようにできてんだ。だから疲れれば眠くなるし、動けば腹も空く」
「兼さんは寝たり食べたり、歳さんが昔してたみたいなことを一人でしてきたの」
「一人じゃねえよ。この本丸には十数振り、同じようなやつらがいるんだ」
中には馴染みもいるという。後で紹介すると言った相棒はどことなく憮然としていた。
庭には大きな池があった。灯籠があり、橋があり、築山がある。ここからじゃ見えないけれども東屋まであるという。行ってみたい、と言うと何もねぇぞ、と返された。
「行ってみたい」
「……しょうがねえな」
溜め息には呆れが含まれていた。でもそれが「呆れ」というものだということは僕にはまだ分からなかった。不機嫌、いや、近寄りがたい。軽かったはずの足取りが急に重くなったような、そんな気がした。
僕には分からないことがたくさんあった。物の名前すら至極断片的で、分からないことにぶつかるとすぐ、「あれは何」と指を差し、何度も聞いては彼を困らせた。そのときと同じ顔をしていたから、東屋に行ってみたいと言ったときも同様に困ってしまったのだろう。
庭は思った以上に広かった。
僕が知っているのは、沓脱石を下りて十数歩歩いたらすぐ生け垣にぶつかるようなそんな小さな庭。名前も知らない木々が生い茂って、夏は鬱蒼としている。記憶にある、前の主と最初に過ごした場所はそんなところだった。とても狭く、細々していた。
けれど本丸の庭は、石を下りたって先なんか見えやしない。おそらく林を抜けると突き当たりにぶつかるのだろう。ここが一番でかい庭だ、と教えてもらった。敷地には他にもいくつか小庭があるらしい。
「すごい。いろんな植物があるんだね」
「おう。あの人が好きだった梅もあるぜ」
「あれがそう?」
指差した先には白い、小さな花を咲かせた木があった。記憶が正しければ梅は赤と白の小さな花を咲かせる。あれは白梅かもしれない。
「ちげーよ。あれは桜。この時期に梅は咲かねえ」
「さくら……」
兼さんは僕を気遣ってか、東屋に向かう前に桜の木まで連れて行ってくれた。白い花びらが風に乗って舞っている。近くに飛んできた花びらを取ろうと手をサッと前に差し出すと、花びらは急に方向を変えて、手のひらを避けるように行ってしまった。
「へたくそ」
隣で吹き出す声に顔が熱くなる。
「近くで手なんか動かしたら空気が動いて飛んでっちまうだろ」
「兼さんは取れるの」
「おう」
見とけよぉ? と得意げになって笑った彼は上を見上げて、落ちてきた花びらの下にゆっくりと両手のひらを差し向けた。胸の前で、それが落ちてくるのを待っている。やがてゆっくり、風に吹かれることもなく花びらは手に収まり、それをそっと指先で摘んだ。
「どーよ」
ふふん、と笑う。なんだか少し悔しかった。
ひとしきり桜の木の下で遊んで、僕らは東屋に向かった。東屋は庭の真ん中あたりにある大きな池に浮かんだ小島に設えられていた。その屋根の下には、庭をゆっくり楽しむための縁台がある。緋毛氈が敷いてあり、日よけの傘が、そこに誰かが座るのを待っている。
橋を渡る。池の水面を見ると、桜の白い花びらがたくさん浮かんでいた。
「ねぇ、あの大きな葉っぱは何?」
池の隅の方には大きな葉っぱ。桜の花びらをまばらに散らし、受け皿のように水を湛えながら浮いている。
「ああ。蓮っていうらしい。夏になると花が咲くんだと」
「見たことないの?」
「オレだってこの春にここに喚ばれたばっかだぜ? 見たことねえもんだって山ほどあるに決まってんだろ」
「そっか」
誤って池に落ちてしまわぬようにと腰の高さほどの柵がある。そこに手をついて屋敷を見ると、やはりなかなかに大きかった。傘の下でどっかと腰を下した兼さんが、「楽しいか」と聞いた。
「楽しいよ。……たぶん」
「たぶんってなんだ、たぶんって」
振り返ると彼は苦笑していた。困ってるんだ。「ごめん」と言いながら近付くと、伸びてきた手が僕の手首をそっと掴んだ。
それは眠っているときにも感じたあのあたたかさの正体だった。僕のみっつめの世界。安堵。目を閉じて、吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、言葉を探す。
「分からないんだ。何が楽しくて、何が楽しくないのか」
「ふぅん? ま、その感覚は分からねえでもねえな」
「兼さんも?」
「ああ」
優しく手を引かれる。その手にされるがまま、僕は気付くと兼さんの膝の上に載せられていた。重心を保つのが難しくてぐらぐらと揺れる。彼が腰を支えてくれなかったら、倒れて地面に頭を打ち付けていたかもしれない。
相棒よりほんの少しだけ高くなった目線になんとなく居心地の悪さを感じてもぞもぞと身じろぐと、支えてくれる腕に力がこもった。
「自我、ってやつが、まだお前の中で育ちきっていないんだろうな」
「自我くらいは分かるよ」
「そうじゃねえ。喜怒哀楽だ」
「?」
首を傾げる。よく分からなかった。
前の主があまり喜楽を表に出さなかったから自分たちにもそれが分からないのだろう、と兼さんは言った。中には最初から情緒が豊かな刀もいるという。僕たちにはそれが欠けていた。
「オレも目覚めたばかりの頃はそうだった。けどそういうのは徐々に身に付けていきゃあいい。ここで生活してりゃ、嫌でも身に付く」
僕が来るまでに彼がどんな生活をしていたのかは分からないけれど、情緒とやらを彼は既に体得していたらしかった。「心配しなくてもオレが教えてやるからな」と言って僕の頭の上に大きな手をぽん、と載せる。細くて長い指は、剣を持つ者らしく節くれだっているようでもあった。薬指と小指の付け根あたりにできた胼胝が雄々しさを際立たせていて、まだこの身体で刀を握ったことのない僕の小さな手とはまるで違っていた。その手を取り、きれいだなぁと目を細める。
「大丈夫だよ、そんなものがなくても」
情緒がなくても、貴方を守ることさえできるなら。
僕がそう言うと、兼さんは困ったように眉根を寄せた。「困ってるのはなんとなく分かる」と指先をいじりながら付け加えると、兼さんは「ふん」と鼻を鳴らした。
「ああ、困ってる。感情が欠落してる上に人の心の機微に気付かねえ相棒にほとほと困り果ててんだよ、オレは」
「心の機微?」
むっすとしている相棒は僕の手から手を奪い取ると、その指で額を突いてきた。ピンッ、と弾いた指先がぶつかって、痛い。
「困ってんのはいい。オレがそこで何を感じているのか分かるようになったら合格だな」
「困ってる以外にも何かあるってこと?」
「微妙に違ェが、まぁそういうことだ」
「なにそれ」
その答えは教えてくれそうになかったけれど、「焦る必要はない」と言ってまた笑う。
彼は表情が豊かだ。ころころと変わるその表情から伝わってくる何かに名前をつけることができるようになれば、僕も彼に認められるのだろうか。
「……」
そのままじっと見詰め合っていると、どんどんと顔が近付いてくるような気がした。すっと通った鼻だとか、きりりとした涼しい目元、そこに収まった浅葱色の瞳はよく手入れされた池の畔のようにきらめいて美しく、引き締まった顔の輪郭に強調されて輝きを増している。こういうのを「整った顔立ち」というのかもしれない。
そんな風に一人相棒の顔を分析していたら、近付いてきていると思った顔がもうすぐ目の前まできていることに気が付いた。どうやら気のせいではなかったようだ。鼻先がぶつかって、匂いを感じる。
これが、兼さんの匂い。
着物に焚き染めた香の馥郁とした匂いと混じり合ったそれを感じると、心臓がどきどきして止まらなかった。引くことはおろか動くことすらできない。まるで時が止まってしまったかのように動けないままくちびるが触れ合うのを許してしまう。それはすぐに離れていった。
何も言わない静かな時が二人の間にしずしずと蹲る。随分と近い位置にある顔を分析しようなどという気はもはや一切起きず、徐々に火照ってくる身体を冷ます方法ばかり探してしまう。けれど先に視線を逸らしたのは、兼さんの方。
「……お前は着飾らなすぎていけねぇな! あとでオレの部屋に来いよ。オレが使ってる耳飾りくれてやる」
「は、はいっ」
真っ赤になった頬。彼はそれを隠すように僕を膝から下ろすと、慌ただしい様子ですっくと立ち上がり、目を合わせることなく早口でそう言った。勢いに気圧されて僕も大声で返事をしてしまう。おかげで驚いた鳥たちが羽音荒く飛び立っていった。名前も分からない小鳥たち。あの桜の木に巣を作っているらしい、と先ほど教えてもらった。
ずんずんと先に行ってしまった大きな背中を慌てて追いかける。途中橋の上でぴたりと足を止め、指先でくちびるに触れてみた。
あたたかくて柔らかな感触の残るそこはカサカサと乾いていたけれど、触れたところだけ、まだほんの少しの湿り気を感じる。指先から心臓に伝わっていく、何か。ちりちりとして、どこか切ない。
「……兼さん」
もうずっと前を歩いている相棒はきっと、僕を置いていってしまっていることに気が付いてはいない。あの真っ赤な顔のまま、自分の行動を恥じているのだろう。それくらいは分かる。
僕は鳴り止まぬ鼓動を持て余していた。どうしたら止まってくれるだろう。いや、そもそもどうしてこんなに暴れているのだろう。接吻ひとつでこんなにも、――こんなにも。
(……分からない)
この心の向く先にある感情。それに付ける名前を僕は未だ知らない。
もし、……もしもだ。これに名前があるとして、その名前を、僕が知ったとしたら、彼はどんな言葉をくれるだろう。もう一度、くちびるに触れてくれるだろうか。
そんなどうしようもないことを思いながら俯き、橋の下へと視線を滑らせる。
散花が浮かぶ水面。
そこに映る自分の顔は夕陽に照らされ、ますます赤く、色付いていた。
(了)