全ては偶然だったのだ。故郷に戻ってその道路を歩いていたことも、そこを棲処にするトモダチと会ったことも、そのトモダチが直前に落とし物を拾っていたことも――だけど後になって思えばそれは、何か見えない力が引き寄せた必然、或いは運命というものだったのかもしれない。
ヒトが落としたそれを「読めないからあげる」と言い置いて去っていったトモダチの背を見送り、手の中に残されたそれに視線を落とす。――標準サイズより少し小さいノート。表紙を守るために皮のカバーがかかっているが、古ぼけた紙は表面が変色し、草臥れて柔らかくなっていた。頁を捲ると丸みを帯びた文字の羅列。――日記だ。
本来なら中を見てはいけないのかもしれないけれど、最初の頁に書かれた内容に興味を唆られてしまった。誰のものかが一瞬で分かってしまったのだ。果たしてこんなことがありうるのだろうか。
――4月7日 晴れ
旅立ち。みんなとのはじめの一歩は、声を合わせたのに僕だけ少し遅れてしまった。ベルは笑って済ませてくれたけど、チェレンは少し呆れ気味。ごめん。嬉しくて気が散漫になってしまっていたのかもしれない。
緑の髪の変な男の人に声をかけられた。旅先にはいろんな人がいる。また会えるかな。
[出会ったポケモン]
ツタージャ(僕の新しい相棒。よろしく!)
ミネズミ(警戒心強め。驚かせてごめんね)
マメパト(なぜかついてくる。ごはんもらえると思ったのかな?)
Nは辺りを見回した。道端に突っ立ったままというのはどうにも具合が悪かったのだ。幸い、近くに誰も使っていないベンチがあった。そこに腰を落ち着け、再び頁を捲る。
――4月10日 晴れ
サンヨウシティに到着。思ったより遠い。
明日はいよいよジム戦。ゆめのあとちでの特訓の成果、みんなで見せてあげよう!
――4月11日 晴れ
ジム戦に勝てたお祝いにみんなで小さなパーティー。デントさんたちが美味しいシチューとケーキを作ってくれた。カノコを出てから初めて誰かの料理を食べた気がする。ツタージャたちも満足そう。
――4月17日 曇
旅立ちから十日。昔ママと一緒に来たシッポウシティの博物館前でまたあの緑髪の人に会った。相変わらず僕には難しい話ばかりだ。他のこと――例えばポケモンのこととか、もっと聞いてみたいのに。
今度会ったときはがんばってみよう。
そこでNは一度顔を上げた。
どこまでも青く、高い空が頭上に広がっている。目を細め、風に乗って流れる雲を惘乎と眺めた。
記憶にあるあの少年は、会う度怪訝な表情をNに見せていた。笑ったところなど見たことがなかった。旅立ちの昂揚と期待に目を輝かせていた顔を一度だけ遠目に捉えたくらいで、あとは困惑と恐怖、或いは不安、そして怒りと悲しみが、彼に対する記憶の全て。――だからここに記された彼の豊かな表情には少なからず驚いたし、自分のことを彼がどのように見ていたのかが知れて、足が浮き上がるような感覚を覚えた。こそばゆくて全身がざわざわする。
その後も、出会ったポケモンやバトルの記録、購入品リスト、ポケモンたちの好きな食べ物、嫌いな食べ物などのログと一緒に一言日記は続いた。ツタージャがジャノビーに進化した日には、澄まし顔のジャノビーらしきものの絵が描かれていた。
――5月2日 晴れ
Nと観覧車に乗った。
観覧車なんて久し振りだ。小さい頃、ママたちに見送られながらチェレンやベルと一緒に乗ったのが最後だった気がする。あのときは途中でベルが怖がって泣き始めて大変だったっけ。
Nはもちろん泣くなんてことはしなかったけど、子どもみたいにはしゃいでいるのは伝わった。円運動とかなんとか言われても僕にはさっぱり分からないのにそんなのは一切お構いなし。外の景色にうっとりしながら目を細めたその横顔は少し寂しそうで、Nのこと、そんなに多くを知っているわけではないけれど、きっと大変な幼少期を過ごしたのだろうと容易に想像できた。――そう思っていたら「プラズマ団の王様だ」なんて言うものだから、僕はどう反応するのが正解だったのか、ますます分からなくなってしまった。今も各地で悪さをしている「プラズマ団」の王様。でも僕は、悪さをする彼を知らない。彼が悪さをするとも思えない。
そう思ってしまうのは、いけないことなのだろうか。
実直に綴られた文字の羅列。直向きに友と向き合い、純粋に友を思うその心のゆらぎが垣間見えるようで、あの頃の記憶がふっと脳裏に蘇る。
Nの世界は閉塞的だった。
人間がポケモンを傷付ける世界。人間が人間を傷付ける世界。全てが計算で成り立つ自然界において、人間という変数は完璧な世界に混ざり込む異物であり、「悪」だった。
人間という「悪」とポケモンを切り離し、ポケモンにとっての完璧な世界を作ること。それがNの夢であり、理想であり、正義だった。――だけど開けた広い世界では、ポケモンを当たり前のように傷付け消費する人間も、無益な争いをする人間も、ほんの一握りでしかない。Nはそのことを知らなかった。
彼はNと世間、どちらの主張もよく理解していた。
――6月18日 曇/雨
フキヨセシティでNと再会。一昨日電気石の洞穴で会ったばかりだから近くにはいるだろうと思っていたけど……。
Nは、トレーナーがポケモンを戦わせることを「利用している」と言う。勝敗のあるポケモン勝負で「勝ち」を求めるのは慥かに人間の自己満足なのかもしれない。勝ちに拘りすぎて、勝てないポケモンを捨ててしまうという話も聞いたことがあるし、話を聞いたときは僕も胸が痛んだ。ポケモンの声を聞くことができるNにはそのときの彼らの悲痛な叫びも聞こえているのだろう。だからあんなにも頑なになる。
だけどそればかりでないことも、Nはもう、分かっているはずなんだ。僕とジャローダのことを認めてくれたみたいに、N自身が自己矛盾と戦っている。ゲーチスの目論見を教えてくれたのもきっと。
日記はその前後からプラズマ団に関する記述が増えていた。中にはNの知らない彼らの横暴さまでが綴られていて、「本当にこいつらはNと同じ組織の人間なのか?」と殴り書きで怒りを顕にしていた。団員たちの行いが、Nの掲げる夢や理想とかけ離れたものであったことは明白だった。
「……ボクの知らないことばかりだな」
ふっとこぼれる自嘲の笑み。名ばかりの王であったことに今更何の感慨もないけれど、こうして形骸化の事実が目の前に提示されるとなんとも形容し難い感情が沸き起こる。これが虚しさというものなのかもしれない。
そんなことを思いながらもう一度初めからぱらぱらと頁を捲っていたとき、ある言葉が目に留まった。
――ベルに「好きな人でもできた?」と聞かれた。考え事をする僕のボーっとした様子が、まるで恋をしたてのように見えたらしい。Nのことを考えていただけなのだけど。そう言ったらベルは眉根を寄せ困ったように笑った。「応援してるよ!」脈絡もないその言葉。一体何を応援するというのか。
――この前のベルの言葉を思い出した。意識してみると、Nのことを考えている時間が増えた気がする。いつからだろう。思い出そうとするけど、こればっかりは分からない。
乾いた風がさらりと頬を撫でていく。先週までの纏わりつくような暑さはいつの間にか消えてなくなり、その心地よさに季節の移ろいを感じた。
知り合いと言えど人の日記を勝手に読み耽るなど倫理に反するだろうか。――そう思う心とは裏腹に、彼が一連の旅を通して何を見、何を感じたのかを知りたいという欲求に駆られ、文字を追う視線が止まらなくなる。
だから、近付いてくる人影にも気付かなかった。
「……N?」
いつの間にか聞き慣れた、けれどどこか懐かしい声に顔を上げると、目を丸くして立つ赤い帽子の少年と目が合った。記憶にある彼と寸分違わぬ姿――強いて言えば顔立ちからは幼さが消え、顎のラインがシャープになった。背も記憶より幾分伸びたようだ。線が細く、「青年」と言うにはまだ少し子どもっぽさを残している。間違いなく「彼」だと分かる。
「トウヤ」と、その懐かしい名前を呼んだ。
「イッシュに戻ってたんだ……?」
久し振り、と弱々しい微笑を浮かべたトウヤは小走りに駆け寄ってくるも、どこか戸惑いがちに一メートルほどの距離のところで立ち止まった。「もう、帰ってこないんだと思った」
「イッシュ地方を“故郷”と呼ぶのであれば帰る道理はある。生まれが分からず、育った場所がなくなった今となっては果たしてどうか、ボクにも分からないけれど」
「それは、」
「キミを責めている心算はない。寧ろ感謝しているくらいなんだ」
「感謝?」
にこりとぎこちなく頬を緩めたNに、トウヤはまたも目を丸くした。――それは、彼の表情が日記の中でくるくると万華鏡のように変化したことに驚いたNと同じ心持になったからだ。Nにもそれは、惘乎とではあるものの感じ取ることができた。
「イッシュを帰る場所だと思えるのは、キミと出会い、新しく生まれ変わることができたと実感できる場所だからだよ。生まれを証明するものはボクには何もないけれど、過去から脱却してこうして新たな一歩を踏み出すことができた」
キミのおかげだ、と畳み掛けるNに対し、面映ゆい様子で頬を掻いたトウヤは視線をつと外して「そう」と返すのみ。その素っ気なさに、Nは申し訳無さそうに眉尻を下げ、小首を傾げた。
「すまない、気に触ることを言ったかな」
「う、ううん。ただなんというか、その……」
そうして漸く、トウヤはNの膝の上に置かれたノートに目を留めた。三度目の瞠目。「それ……」と震える声に、Nは「ああ」と漸く気付いたとばかりにノートを顔の横に掲げ持った。
「トモダチが拾ってボクにくれたんだ」
「中見た!?!?」
先程まで近付くことを躊躇っている様子だったトウヤが大股で近付き、やや乱暴にそのノートを取り上げた。ものすごい剣幕だ。「誰のものか分からなかったから」と正直に応えると、植物が萎れていくように頭を抱え、地面にしゃがみこんでしまう。「あ〜……」とか「う〜……」とか言う声が、くぐもって怨嗟のように低く響く。
「さいあく」
「ボクは嬉しかったよ。キミのいろんな表情を知ることができて」
恨みがましい視線が下から突き刺さる。「そうじゃない」という言葉は力なく、溜め息を吐きながら立ち上がった。
「――ああ。あとスキだと書いてくれていたのも嬉しかった」
「〜〜ッ! しっかり読んでるじゃん!!」
うっすら涙を浮かべた目元と朱に染まった頬。「莫迦!!」と吐き捨てたトウヤはそのままモンスターボールからウォーグルを呼び出し、飛び去ってしまった。Nが呆気に取られている間にその姿はどんどん小さくなっていく。
「……理由を問い質す権利はボクにもあるよね?」
誰にともなく呟くNに応えたのは、離れたところで休んでいたレシラム。片割れの気配を追って来てみればその姿は疾うになく、代わりに、気配の消えた方を熱い眼差しで見詰めるNがいた。
「逃がさないよ、トウヤ」
あの日、逃げ出したも同然のNをトウヤは追いかけなかった。あらゆる柵が彼の両足に絡み付き、躊躇させていたからだ。捜しに行きたい。でも、自分が捜してはいけないのではないか。――先程の一メートルの距離は、彼の躊躇いが生んだ距離に相違なかった。
けれどもNにはそれがない。怒った理由を、日記に書き留めてあった溢れた感情のひと欠片のことを、ただただ純粋に聞きたかった。
仮令悪戯な運命に翻弄された結果だったとしても、せっかくトモダチが作ってくれたきっかけを無駄にしたくないのだ。
(ボクはキミに会いたかった。キミもそうなのだろう?)
鬼ごっこ二回戦。勝敗は、未来を先見するまでもない。
了