レモン・フレーバー

 不意に足が止まった。
 周囲を錦の木々が囲う森の中。下草を踏みしめる一人分の足音がなくなれば、辺りはしん、と静まり返る。野生のポケモンが存在しない島だ。森の奥まった場所ともなれば、生命の気配が途端に潰えるのは道理と言えた。
 そんな中、ある一点を見詰めるNの豊かな若草の髪がふわりと不自然に揺れた。続いて響く黒竜の、重々しい着地音。何かいたのかと、その視線が怪訝に問いかける。
「……ああ。人間がね」
 視線の先には遠ざかっていく二人分の背中があった。男と女。どちらも歳若く、どこにでもいる普通のホープトレーナーといった風情。しかし、近くに彼らのポケモンの姿はない。
「ボクが見ていることに気付いた途端に顔色を変えて行ってしまったんだ」
 重なる影。他者の存在に気が付いた男の驚愕に染まった顔と、それを不審がって振り返った女のチェリンボのように熟れきった顔。慌てた様子で男が女の手首を掴み、足並みを揃えて走り去る。悪事を企んでいるようにも、問題が起きているようにも見えなかったと、Nは首を傾げた。
「……逢引?」
 ゼクロムの言葉に、灰色に烟る双眸がふっと視線を上げた。「逢引くらいボクも知ってるさ。旅の中で何度か見かけたし、ポケモンと人に限らず睦まじいのはいいことだと思うよ」
 普段はポケモンと人との関係にばかり目がいくので、人間同士の関係について深く考えることは滅多にない。けれど人間社会を旅することで分かってくることもあるのだと、Nは静かに独白した。
パシオここには古今東西多くのトレーナーが集まっている。ポケモンと人だけではなく、初めて言葉を交わした人間同士が意気投合しこれまで存在し得なかった調和を紡ぐという点でとても魅力的な場所だ」
 彼らもまた、そうだったのかもしれない。
 意気投合して二人きりになれる場所を探し、見付けたのが誰もいないこの森の中。野生のポケモンに襲われる心配もなく、ゆっくり話をするにはお誂え向きだったのだろう。
 先程の二人は既に姿も見えないほど遠くに行ってしまい、森は再び静けさを取り戻していた。
 さて、ボクもそろそろ戻らなければ。――そう思った矢先。

「やっぱりNだ」

 草葉の影から声がした。耳に心地いいアルトボイスはよく聞き慣れたもの。がさがさと藪を掻き分け、赤い帽子がひょっこり姿を現した。
「トウヤ?」
「なんとなく人の声が聞こえてさ。近くまで来たらゼクロムの黒が見えたからもしかして、って思ったんだ」
 服に付いた葉や埃を叩き落としながら目の前までやってきたトウヤは、そう告げるなりNの背後に立つ黒竜を振り仰ぎ、「いい目印だったよ」とにこやかにその足をぽんぽんと軽く叩いた。ゼクロムが頭を垂れるように顔を彼に近づけるので、その手は自然と竜の鼻先を撫で始める。相変わらず慈愛に満ちた手付きだ。
「こんなところまでどうしたんだい?」
 Nが問うと、「あ!」と何かを思い出した様子でトウヤは声を張り上げ、勢いよく振り返った。
「それはこっちの台詞! バトルの約束してたのに時間になってもNが来ない、ってトウコが怒ってたよ」
「もうそんなに時間が経っていたのか」
「まったく。”すっぽかしたお詫びにヒウンアイス奢らせてやる”って息巻いてたよ、トウコ。今度から出かけるときは時計くらい持ちなよ」
 呆れた様子で腕を組むトウヤに、Nは苦笑を返した。
 忘れていたわけではないのだ。約束の時間まで暇を持て余すのが勿体ないように思えて、入ったことのない森の中に足を踏み入れてみた。いくら歩いても生きたものの気配を感じられず、違和感を覚えるうちにすっかり奥地に入り込んでしまっていたにすぎない。そう伝えれば、「ようは迷ったってことだね?」という鋭い指摘が容赦なく追撃する。
「迷ったのならゼクロムに乗せてもらえばよかったのに」
「そう思ったのだけどちょうどそのとき気になるものを見付けてね」
「気になるもの?」
「トレーナーだよ。二人、ボクに気付いたら逃げていってしまった」
 再び彼らが去っていった方角に視線を向けると、ゼクロムが咎めるように身じろいだ。
「それって、もしかしてブレイク団ってやつらじゃ」
「どうかな。見たところあの特徴的な仮面マスクはしていなかったようだし、寧ろ逢引してたという方が正しい気がする」
「あい……ッ」
 トウヤの表情が一気に羞恥と困惑に染まった。同時にゼクロムの呆れたような掠れた咆哮。勝手にしろ、とでも言いたげに青白い光を尾に纏わせ、草木を巻き上げながら飛び去って行った。「先に行く」と素っ気なく言い置いて。
「……Nって、たまに突拍子もないこと言うよね」
「そうかな」
「大体、逢引の意味分かって言ってる?」
 仄かに赤らんだ頬。ちらちらと不自然に視線が逸らされる。
 旅を経て達観した思考を持つようになったと言われるトウヤも、蓋を開けてみれば少年と青年の狭間を生きる多感な年頃なのだ。類稀なるバトルセンスや人の心の機微を汲み取る力を持ち合わせていようと、色を匂わせる行為に耐性などあるはずもない。
 しかし、彼が何やら恥ずかしがっているということは分かっても、Nにはその原因が分からなかった。「同じことをゼクロムにも訊かれたよ。男女が密かに会うことだろう?」と、先の問いに真っ当に答えて見せるも、トウヤはもの言いたげに、しかし言葉を選びあぐねるばかりで何も口にできず、どこか挙動不審だ。――もしここにゼクロムがいたならば十中八九「お前の所為だ」と呆れられているところである。
「そういえば、」
 Nは言葉を不自然に切ると、グッとトウヤに顔を近付けた。
「えっ」
「さっき見かけた二人のことだがキミがゼクロムの鼻先を撫でていたときの距離感と似てたんだ。――そう、ちょうどこれくらい」
 帽子と帽子のツバがぶつかった。少しだけ上に持ち上がり、普段は影に隠れがちの鳶色の双眸が顕になる。大きく見開かれた瞳は驚愕を映し、動揺で半歩ばかり後ずさった。
「……ふむ。同じことをしてみて気付いたがこれではあまりに近すぎて相手の輪郭を掴むことが難しい」
「そ、れは……」
「話をするにも非効率的だ。そもそもここまで近付く必要がどこにもない」
 再び姿勢を正し、人差し指を下唇に添えながら、Nは先程の光景を脳裡で反芻した。
 誰もいない筈だと完全に油断しきっていた彼らが他者の存在に気付いたときの驚愕はNには推し量ることができない。けれど相手が人であってもポケモンであっても隔てなく心を通わせることのできるトウヤなら、逃げ去った二人の感情に明確な解を導き出すことができるのだろう。
 ちらりと視線を向けると、案の定トウヤは何かに気が付いたように目を丸くしており、深く吸い込んだ息をゆっくり吐き出しながら、ズレてしまった帽子のツバをグッと引き下ろした。
「…………キス、ってやつじゃないの。たぶん」
「キス?」
 答えた後、すぐにトウヤは背中を向けてしまった。
「キスとは寝る前にするものだろう? 世話係だった二人の女神が昔よく頬にしてくれたんだ。あれをするとよく眠れたのを覚えているよ」
「……あの、まだこの話続ける?」
「すまない。気になってしまって」
 勿論トウヤが続けたくないなら無理強いはしない。そう続けると、「こういう話苦手なんだけど」と小さくぼやく声が溜め息とともに聞こえた。
「好きな人にするキスっていうのがあるんだよ」
「……へぇ?」
「頬や額にするのが親愛とか友愛とかいうものだとしたら、それは口にする特別なものなんだ。だから人によっては、やっぱり見られたくないものなんじゃないかな」
 ぱちぱち、と目を瞬かせること三回。
 スキな人にする特別なキス。女神たちがしてくれたものと、一体何が違うというのだろう。
「トウヤも見られたくないものなのかい?」
「まぁ……できれば」
 今になって思えば、女神たちのそれは慈愛と憐憫に満ちたものだった。それが悪いわけではない。傷付いたポケモンたちを相手にするうちに心を閉ざしていく幼い子どもを目の前で見ていることしかできなかった彼女たちは、自分たちには何もできない、してあげられないという懊悩を長く抱えていた。おやすみのキスは彼女たちにとって、贖罪でもあったのだろう。
 なるほど、確かにそう思えば違いも分かる。
「では、ボクとトウヤでも彼らと同じキスができるということかい?」
「――ッ!? ばッ、できるわけ……ッ」
 耳元に顔を近付けて静かに問うNに、トウヤが弾かれたように勢いよく振り返った。先程の女性トレーナーもかくやというほどすっかりチェリンボ色に染まった顔がおもしろい。あまりの近さに息を呑んだトウヤに、「でもスキな相手にするものなのだろう?」と容赦なく畳み掛ける。
「ボクはトウヤのことがスキだ。つまり、キミの言う”キスをする条件”を満たしている。――違うかい?」
「ちっ、違う違う! 全然違う!」
「なぜ」
「だ、だってN、トウコたちのことだって好きだろ? 僕への好きだって同じだ。種類が違うんだよ。だから……」
「確かにトウコたちにしようとは思わない。スキだけどね。だがキミとならできそうな気がするんだ」
「だからなんでそうなるんだよ!?」
 飴玉みたいな瞳が泣きそうに歪んだ。まるで人間に虐められて泣いていたかつてのトモダチを相手にしているようで心が痛かったけれど、当時と違うのは今の彼の様子に微かな高揚を感じてしまっている点。ありていに言えば昂奮している。もっと、いろんな彼を見てみたい。
「え、N……まっ――、」
 慌てた様子で両手を前に出したトウヤだったが、その手を逆に掴んで引き寄せてしまえば抵抗は瞬く間に意味を成さなくなる。あとはそのまま口を塞いでしまえばいい。彼に教えられた通りに。
 傍目には、背の高い男が小柄な少年に覆いかぶさっているようにも見えただろう。けれどここは野生のポケモンすらいない森の中。他人の目のない、お誂え向きの場所・・・・・・・・だ。
 重力に逆らえず、赤い帽子がふわりと落ちた。
(――ああ、そうか)
 トウヤの言った通り、確かに彼らも同じことをしていたのだろう。そして同じことをしてみて思った。――見られたくないというより、見せたくない。誰にも。この、拒みながらも必死に襯衣を掴んでくる手も、固く閉ざされた瞼の下の仄かに赤らんだ頬も。
 ほんの僅かばかり触れただけの唇を離すと、これ以上ないほど顔を真っ赤にしたトウヤと視線が交わった。まるでコイキングのように力なく口を開閉させながら見上げてくる様子に、得も言われぬ感情がふつふつと湧き上がる。その感情に名前を付けることはまだできそうにないけれど。
「ねぇ。どうしたらボクのキミへの”スキ”が他とは違うのだと証明できるのだろう」
「……知らないよ、そんなの」
 外方を向いて袖口で口元を拭ったトウヤは、帽子を拾い上げると今度こそ踵を返して行ってしまった。けれど足音が続かないことに気付いたのか数歩先で立ち止まり、首だけをそろりと巡らせる。視線が交わった。
「……早く来ないと置いてくよ」
 相変わらず、彼は優しい。
 ふとトウヤの腰元に目がいった。
 ボールがない。おそらく、ここに来る前に会ったというトウコに預けてきたのだろう。
 バトルでは獲物に狙いを定める猛禽のような鋭さを垣間見せる彼が意外と怖がりだと知ったのはごく最近のことだ。その彼が、何が起こるかも分からない森の中に身一つで飛び込むなど普通は考えられない。いや、喩え怖がりでなくともトレーナーであれば、不測の事態に備え常にポケモンと行動をともにするはず。
 もしその理由が、彼らと同じだったなら――。
 Nはそんな詮無い仮定を振り払うように首を横に振り、羞恥で丸まったトウヤの小さな背中を足早に追いかけた。


(了)

あとがき
人とポケモンの関係性については見えてきたNでも、人と人との関係性にはまだ少し疎いところがありそう、というNトヤ鉄板ネタでした。パシオのNはコミュ力高めなのでどちらが確信犯か分からないな、書きながら思ったりしました。

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