冷たい空気がきん、と肌を刺す。痛みを伴うそれは呼吸する度に肺腑を凍てつかせ、吐く息は空高くに浮かぶ雲のように白く濁った。かつて一度だけ目にした細氷の煌めきにも似た氷の粒が、淡雪となって凍った地面へと落ちていく。数年に一度の寒波だという。
本当なら、この時間はまだ、寝台の上で丸くなっている筈だった。わざわざ寝間着の上から普段の上衣と厚手の外套を着込み、毛糸の襟巻をぐるぐる巻にしてまで出歩くような時間帯ではない。頭上高くに散りばめられた星々、我が主役とばかりに瞬いていた。
「……ねぇ」
トウヤは寒さに躰を丸めながら、黙ったまま前を行く青年の背中に声をかけた。欠伸を噛み殺し、衣囊に突っ込んだ手を時折吐息で温める。「どこ行くの?」
新年の始まりを祝う盛大な花火をみんなと一緒に広場で見上げたのが数刻前。あけましておめでとうの掛け声と熱気が寒空に響き渡り、深更だというのに昼間のような賑やかさだった。明日は何やら朝からライヤーが企画しているという。早めに起きなくてはならなかったから、宿に戻った後、「新年早々から早起きかー」と肩を落としてぼやくトウコをみんなで笑った。
それ以上の早起きを提案したのが意外にもNだった。しかも、トウヤにだけ。
――五時四十分。宿、一階大広間にて。
声をかけても「もうすぐだから」と言うばかりで振り返らないNに、トウヤは溜め息を吐きながら衣囊に入れっぱなしだった紙片を取り出した。夜、部屋に戻ろうとしていたトウヤを呼び止めたNが手渡したものだ。やや癖のある几帳面な文字の羅列を見ながら、そういえばNの字を見るのは初めてだ、と見当違いの感想がふと頭を掠めた。
「少し明るくなってきたね」
宿から三十分以上は歩いただろうか。
やっとNが口を開いたときには、周囲には何もない草原が広がっていた。昼間はこの広大な敷地で多くのバディーズたちがバトルや特訓に明け暮れているけれど、流石にこの時間、これだけ寒いと誰もいない。冬の夜風がさらりと下草を撫で、その鋭い冷たさに思わず身震いした。
「あ」
先程までは慥かに星空が広がっていた筈なのに、Nの言う通りいつの間にか空は薄ぼんやりと明るくなっていた。その中を、宵闇に混じって異質な黒が近付いてくるのが見える。空を裂き、雷を纏ってこちらに向かってくる。彼がもたらしたものなのか、いたるところからゴロゴロと音が聞こえる気がした。
「やぁ、おはようゼクロム」
Nは微笑を浮かべると、轟音とともに着地した相棒に手を伸ばした。帯電しているかと思いきやそんなことはなく、まるで主人に傅く家臣のように首を垂れる。その竜の頭を労るようにひと撫でするNに、トウヤは首を傾げながら近付いた。
「どうしてここに?」
「ボクが呼んだんだ。せっかくだと思って」
そう言うなり、Nは振り向きざまにすっとトウヤの前に手を差し伸べた。「初めて見る初日の出はやはりキミと一緒がいいからね」
イッシュ地方には残念ながら、「初日の出」という概念がない。せいぜい日付変更と同時に花火を打ち上げ、一年の始まりをみんなで祝うくらいだ。
けれど地方によっては「元旦」と言って、年明けした日の朝は特別なものであるという。慥かに、花火が終わった後の宿への道すがら、初日の出を見に行こうと話している人の姿を何人か見かけた。そのときは、寒いのにすごいな、と思う程度だったのだけれど。
「見たかったんだ?」
Nの手を取るとうれしそうに頬がほころぶ。寒さの所為か頬も鼻も赤くなっていて、普段涼し気な表情を崩さない彼のその人間的な変化が可笑しかった。背に乗りやすいよう身を屈めたゼクロムに断りを入れながら、トウヤは一旦Nから手を離し、軽い身のこなしでその背に飛び乗った。続けざまにNが後ろにぴたりとくっつく。
「あったか〜」
思わずこぼれた溜め息。広い胸に背中を預けるとちょうどいい風除けになる。一般的な成人男性と比べればNもまだまだ細い方だけれど、未成熟なトウヤの躰を包み込んでしまえるくらいには大きい。耳元をくすりと忍笑が掠め、どきりとしているうちにNが前のめりになった。
「ゼクロム、お願い」
どうやら指示を出すためだったらしい。阿吽で応えた黒竜が厳つい翼を一、二度羽ばたかせると、まるで電動機の駆動音のように尾が青白く発光し、下草を巻き上げながらふわりと宙に浮いた。二人を振り落とさないようにするためか、いつもの迸るような烈しさはなかった。
「それにしてもよく初日の出なんて知ってたね」
冷たい風が正面から吹き付ける。
トウヤは声が風邪に攫われてしまわないよう、やや張り上げ気味に言った。
「これでも各地方を巡った身だからね。それにここにはカントーやジョウトの人間も多く集まっているから話を聞く機会はそれなりにあったんだ」
なるほど。――上空から眺めていると、初日の出を見るため山の方に向かって歩いている人たちの姿が見えた。この人工島の中でも特に高い山だ。山頂付近には、既に到着し、日の出を待ち詫ている人たちもいる。
「下りるかい?」
下ばかり見ていたからだろう。気遣わしげに問うNにトウヤは僅かに逡巡し、首を横に振った。
「いい。空からの方が静かに見られそうだし」
――それに二人きりで景色を独占しているというこの特別感も悪くない。
間違っても口にできないあまりに自分本意な感情を胸の奥に押し込め、徐々に輪郭を取り戻してく黒々とした海の方へと視線を戻す。水平線の向こうは仄かに明るく、黎明の空は美しかった。
山頂から見ている人たちの邪魔にならないところ。山より高く、人々の視線の背後に回ったゼクロムが、まるで重力を無視するかのようにその場に留まり、東の空を見た。黄金色に輝く日輪が水平線を縁取り、少しずつ顔を覗かせ始める。不思議と眩しくはなく、「うわぁ!」と、思わず感嘆の声が漏れた。
ゆっくり、ゆっくり昇っていく太陽を目にするのは、トウヤ自身初めてだった。
太陽を特別視したことはないので、こんな寒い中カントーやジョウトの人たちが早朝から山を上ってまで見たがる理由が分からなかった。一年に一度の最初の夜明けと言っても、太陽の動きは一年中変わらないわけで、昨日の日の出とも明日の日の出とも特に違いはない筈だからだ。
けれど実際に目にしてしまうと、何にも例えることのできないその美しさに思わず呆けてしまう。「気に入った?」と、背後のNが腹に回していた腕に僅かに力を込めるので、トウヤは慌てて「うん!」と振り返った。――あまりの顔の近さに、思わず心臓が跳ねた。
「よかった。正直半信半疑だったんだ。一年に一度、しかも最初の日の出と聞けば慥かに特別なもののように思えるけれど所詮は日々繰り返される普遍的な惑星運動の一端でしかなく、見たところで特に何も感じないのではないかと思っていたから」
掠れた声が静かに鼓膜を叩く。トウヤは徐々に姿を表す太陽を視界の端に収めながら、目を眇め、正面を見詰めるNの顔をそっと見上げた。「――でもキミとこうして同じ時間を共有し同じものを見ていると、その事実に感謝したくなる気持ちは分かる気がするんだ」
そして視線を合わせ、にこりと微笑む。これまでに見たことのないような、胸の奥を柔らかな羽で撫でられたような心持ちのする笑顔。こんな顔もできたのかと、トウヤはNのその顔から目が離せなかった。
二人一緒だったから。だから一層、特別なものに見えるのかもしれない。――そんなことを思ってしまった。
「……なんか僕、口説かれてる人みたいなんだけど」
トウヤは全身がむず痒くなるのを感じ、誤魔化すように視線を逸した。けれどNにその周知は伝わらなかったようで、「キミの好きなように受け取ってもらって構わないよ」とあっけらかんとした言葉を返してくるものだから堪ったものではなかった。グッと声を詰まらせる。
「ッ、だから勘違いされるようなことは言わな――」
「トウヤ」
流石にこれ以上変なことを言われる前に釘を刺しておかなければ。トウヤが口を開きかけたところで、まるで態と言葉をかぶせるようにやや強く名前を呼ばれた。憮然として見上げれば青灰色の視線がぱちりとぶつかる。
「今年もヨロシク、トウヤ」
何の他意も含みもない、単調な新年の挨拶。きっとそれは「普通」のことなのだろう。けれどそれが許される関係になったのだと思うと、途端に肩の力が抜けていく。沸々と湧き上がるのは嬉しさか、戸惑いか。
「……こちらこそ、」
孰れにせよ、これからもこうして二人で「初めて」を積み重ねていくのだろう。
「今年もよろしくね」
そんなどっちつかずな二人の行末を案じて微かに身を震わせたゼクロムは、水平線上にぽっかり浮かぶ日輪に向かった呆れを発散するように、控えめに咆哮するのだった。
了