テーブルの上に並ぶ豪勢な食事――香草が仄かに香るこんがりと焼けたチキンに、トマトやクルトンを鏤めたシンプルなグリーンサラダ。大皿に盛り付けられた、クリームソースとの相性が抜群のタリアテッレ。一人ひとりの食卓の前に置かれた温かなコンソメスープの湯気が食欲を掻き立て、テーブルの真ん中では今日焼いたというパンがいい香りを放って籠に収まっている。
まるで飲食店かなにかのようにナプキンが敷かれた取り分け用のお皿の横では銀食器が三本、誇らしげな輝きを放ち、細長いシャンパングラスが出番を待ち侘びるように逆さまに置かれている。何かのパーティーのようなそのセッティングに、Nは感嘆と戸惑いの入り混じった溜め息を小さく漏らした。
「これでよし!」
エプロンを身に着けていたトウヤがテーブルの上を満足そうに見渡した。朝から仕込みを行っていたから疲れているだろうに、その表情はどこか楽しげだ。
「トウヤ、デザートは?」
「デザートは最後。食べる時まで冷蔵庫できんきんに冷やしておかないと」
「えー! 楽しみにしてたのにぃ」
「……ベル。一応君も大人なんだから聞き分けなきゃ駄目だよ」
「なによぉ、チェレンだってトウヤの作ったデザート気にしてたくせにー」
デザートを催促するベルの肩をぽん、と軽く叩いたチェレンに、ベルは唇を尖らせたままジト目を送った。その仕草は年端もいかぬ子どものようであった。
Nはそんな彼らを、どこか遠巻きに眺めていた。
トウヤとトウコが育ったカノコの家のリビングでは、そんなやり取りが過去に何度も繰り広げられていた。それを知るのは四人。Nにとっては殆ど初めてのことで、だからこそ、ここにいることがどこか場違いな気がしてならないのである。
なぜボクはここに呼ばれたのだろう。
視線の先にいるチェレンやベルは、トウヤと違い、片手で数えられるほどしか会話をした記憶がない。出会ってから一年近くが経つとはいえ、食事を共にするほど仲がいいのかと問われれば答えは間違いなく否。見えない糸でつながっている幼馴染たちの輪には、どうしたって入ることができない。
「なァに辛気くさい顔してんのよ!」
ばしん、とやや強めに背中を叩く手があった。鈍い痛みがジンジンと這い上がってくる。「わっ!?」と一瞬前のめりによろけた身体をなんとか立て直して後ろを振り返ると、そこには何かのボトルを持ったトウコが口を「へ」の字にして立っていた。
「こういうところじゃ何もなくたって笑ってるもんよ」
「そうなのかい?」
「そうなのよ」
呆れたように嘆息しながらテーブルに向かうと、逆さまになっていた五つのグラスを手際よく正立させ、そこにボトルの中身を注ぎだした。薄桃色の液体がしゅわしゅわと音を立てながらグラスを満たしていく。
「しかし一体何なんだい今日は。キミたちが集まって食事をするならボクを呼ぶ必要はなかったと思うのだけど」
「何言ってんの。あんたのための招宴だからでしょ」
「……ボクの?」
「そ。トウヤがどうしても、って言うから」
「と、トウコ!」
視線の先でパスタにブラックペッパーをかけていたトウヤが、手を止めると慌てた様子でトウコを詰った。どうやら会話が聞こえていたらしい。「キミが企画を?」と問うと、トウヤはバツが悪そうに視線をあちこち彷徨わせ、やがて観念したようにこくりと小さく頷いた。
「なぜ」
どうしてボクのために四人が集まって招宴を催すのか。
グラスにシャンパン(勿論ノンアルコールだ)を注ぎに戻ったトウコは答えなかった。トウヤも、配膳の最終段階でキッチンに戻ってしまっていた。答える者のない問いかけに、「今日はね、」と声がした。
「今日は、Nさんがあたしたちと友達になってからちょうど一年になるんだよ」
声のした方を見ると、そこにはうれしそうに両手を合わせ、ふわりと花が咲くような笑みを浮かべるベルがいた。「正確には“Nが僕たちと出会ってから一年”だ。僕はこの人と友達になったつもりはないよ」
そこにチェレンがすかさず口を挟む。
「でもチェレン、Nさんがトウヤと一緒にイッシュに戻ってきたとき、“よかった”って言ってたじゃない」
「え?」
「ちがッ、あれはトウヤに対して言ったことでNには別に」
「二人が帰ってきたときの様子、私ちょうど出かけてて知らないからちょっと詳しく教えてほしいんだけど。今後の参考までに」
「あー! もうメンドーだな! っていうか何! 今後の参考って!!」
ベルとトウコ、双方から受けた追撃にチェレンはたまらず声を張り上げるも、それは呆気なく二人の笑い声にかき消されてしまう。
Nは一歩引いたところからその様子を眺めていた。
分からなかったのだ。一年が経つということが、このような催しに至るほど重要なことなのかどうかが。
キッチンから戻ってきたトウヤが、「楽しい?」と下から顔を覗き込んできた。
「え?」
「顔が緩んでるみたいだったから。みんなでこうして何でもないことで騒いで笑い合ってるの、Nは、楽しくない?」
視線の先では未だにチェレンが苦戦していた。「もうヤだこの人たち……」と、額を押さえ、一回りも二周りも老け込んでしまったように疲れを露わにしている。それをまた、トウコが笑う。――トウヤとは双子だと聞いているが、二人の性格の違いに驚かされることも少なくない。
「――楽しいか楽しくないかで答えなければならないとしたら、楽しいんだと思う。……たぶん」
判然としないその答えをトウヤは諌めなかった。「そっか」と視線を三人に戻し、「よかった」と続ける。
トウヤとはイッシュの外で再会し、ほんの少しの間共に旅をした。決して長くはない時間の中で彼は様々な表情をNに見せたが、どれも年相応といえるものだった。しかし、今そこに浮かぶものを一言で表すとするなら「慈愛」というのが最も適しているように思われた。親が子に向ける眼差しに近いそれは、これまでのNには一切縁のないものであった。
「ほらほらみんな、早くしないと料理冷めちゃうよ」
未だじゃれ合っている三人にトウヤが声を張り上げて言う。「トウヤ、お母さんみたーい!」というベルの言葉とは対象的に、漸く解放されたチェレンは、
「ごめん、トウヤ。任せっきりにした」と心底申し訳無さそうに眼鏡の奥を曇らせて言った。
「いいよ、別に。こういうの嫌いじゃないし。――さ、早く乾杯しよう」
エプロンを外したトウヤがシャンパンを注がれたグラスを手に取ると、各々も近くのグラスを持った。最後にNがグラスを手にしたのを見ると、トウヤとトウコは目配せをして頷いた。
「さて! じゃあ、さっきも言ったけど今日はあたしたちとNが出会って一年、もっと言うと、あたしたちが初めて旅に出てから丸一年が経った、ってことね。トウヤが朝から一生懸命作ってくれた料理と一緒に、この日を盛大に祝うわよ!」
溌剌とした前口上と、それに続く賑やかな「乾杯!」の音頭。グラス同士がぶつかる涼やかな音色に、歩調を合わせる。
招宴の夜は賑やかに更けていく。
+ + +
「Nさん乾杯しよぉ」
最初の乾杯以降はみな自由だった。なぜか立食形式だったのでNは壁に背を預けながらグラスの中身をくるくると回し、未だ発泡を止めない液体を眺めていた。
そこに声をかけてきたのはベルだった。屈託ない笑顔に釣られるように頬を緩め、「ああ」と二つ返事で応えるとすぐさまグラス同士が軽くぶつかり合う。
「あたし、Nさんとはあまり話したことがなかったでしょ? だから正直最初は怖かったんだ」
Nの隣で同じように壁に寄りかかったベルは、中身の減っていないグラスを両手で大事そうに持っていた。
四人の幼馴染の中で最も身長が低いベルは、トレードマークのベレー帽がない所為かNにはいっそう小さく見えた。しかしその表情は先程のトウヤと同様、どこか達観した様子さえ見せている。
「ムンナを連れてった人たちの仲間なんだ、って思ったら怖くて、何されるか分からないんだ、って。でもトウヤは、“Nは悪いやつじゃないと思う”って旅の間もずっと言ってたの。チェレンがそんなわけない、って怒っても意見を変えなかった。あたしには、どっちが正解か分からなかった」
話したことがないんだから分からなくて当たり前だよね、と眉尻を下げる彼女に何と返すべきなのか、Nにはそれこそ分からなかった。
プラズマ団が彼女にした仕打ちを、Nはつい最近まで知らなかった。誰も教えてくれなかったからだ。それに当時は自分のことばかりで、周囲を顧みる余裕もなかった。
「……すまなかった」
グラスに視線を落とすと、そんな言葉もまた一緒にこぼれ落ちていった。「プラズマ団がキミにしたことは王であるボクにも責任がある。仮初めの玉座だったとはいえ彼らの動きを把握することも制御することも怠ってしまっていた。結果としてキミとキミのトモダチを傷付けることになってしまったことにはボクとしても胸が痛む」
「い、いいんだよ! もう過ぎたことだし! それこそ、結果としてあたしもムンナも無事だった。――ううん、あの一件で、あたしたちはもっと絆が深まった。そのことには感謝してるくらいなんだから」
ベルは慌てたように顔の前で手を振りながら訂正した。「しかし……」と言い淀むNにその大きな一対の翡翠を瞬かせると、くすりと笑みを浮かべ、頬を綻ばせる。
「トウヤの言った通りだ」
「え?」
「あなたは悪い人じゃない」
壁に預けていた背中を離し、その背中に片腕を回して、揚々とした足取りで目の前に立つ。「あたしたち、もう友達だよね」
確かめるようでありながら、そうだと信じて疑わない強い言葉が、下からNを射抜いていった。
――ともだち。
知っている言葉と同じものの筈なのに、彼女が言うと何か別のもののように聞こえてならない。じんわりと胸の奥に何かが沁みて、灯りを点したような温かさが少しずつ広がっていく。Nは噛み締めるように、馴れない響きを持つその馴れた言葉を舌の上で転がした。
「――ああ、友達だ。少なくともボクはそう思ってる」
笑みを深めたNに、ベルは花が咲いたようにパッと表情を輝かせた。「やったー!」と手放しで喜ぶ姿は微笑ましくもある。そんな彼女のマイペースなだけではない優しさや輝きが、四人を結ぶ支柱になっているのかもしれない。
「あんたでもそんな風に笑うんだな」
そのとき不意に声がした。見れば少し離れたところにチェレンが立っている。「次はチェレンの番だね!」と、ベルは謎の言葉を残してトウコたちの方へと行ってしまった。「なんだよ、僕の番って」と嘆息しているところを見ると、彼女の中には独特の決まり事があるらしかった。
「ベルは暢気なんだ。警戒心がいまいち足りない」
「それが彼女の良さでもあるのだろう。あの懐の深さには流石のボクも感心するよ」
「同感だね。――でも、その分こちらの気苦労が増えるのは事実だ」
旅の間もそうだった。
ほんの少しだけ棘を帯びたその言葉に視線を戻すと、チェレンは眼鏡の奥の黒瞳を尖らせながらNを見ていた。研磨した黒曜石――否、小刀くらいの鋭さはあるだろうか。
「旅先で度々僕らの前に現れていたNはまるで人形みたいだった。いつも気味の悪い薄笑いを貼り付けて、何を考えているのかさっぱり分からない。ベルもトウヤもそんなあんたに僕ほどの警戒心を懐いてはいなかった。おかげで常にひやひやさせられたんだ」
チェレンはこれまで溜め込んできた鬱屈を吐き出すように、言葉を選ぶこともなく棘だらけの言葉をNに向けた。しかしそれもほんの少しの間だけ。「ん、」と目の前に掲げられたグラスに意図が汲み取れず首を傾げると、「乾杯だよ」とやや語気を強めて補足した。
「ああ、」
グラスとグラスがぶつかる。「これで昔の恨みごとは全部流そう」とチェレンが肩を竦める頃には、先程まで慥かに感じていた険はすっかりなりを潜めてしまっていた。片足に体重を乗せるように身体を傾け、グラスを持っていない方の手をポケットに入れる。その仕草が、彼と初めて対峙したときより幾分大人びて見えた。
そういえば身長も伸びた気がする。ベルとは違い、然程視線を下げなくてもきちんと目が合う。トウヤとだって頭一つ分は違った筈だから、単純に考えれば彼をも上回っているということになる。たった一年でも、成長期にあたる彼らはこれからますます成長し、変わっていくのだろう。そうなったときに自分は変わっているのかいないのか、妙な感慨に胸の奥がざわついた。
「……あのさ、」
チェレンが躊躇いがちに口を開いたのはそのときだった。「頼みがあるんだけど」と言いつつ、視線は迷子のように彷徨っている。「キミが? ボクに?」という疑問は当然のものであったのだが、それは何もNだけではない。チェレン自身もそう思っていたからこそ、言葉を口にすることに躊躇いを感じていたのだ。
ひと度生まれた躊躇はチェレンの矜持と複雑に絡み合っている。「無理強いはしないし、嫌だったらきっぱり言ってくれていい」と、しっかり予防線まで張る始末。Nはそんな彼に一つ頷き、黙って続きを待った。
そして。
「……――たまにでいいから、バトルに付き合ってもらいたいんだ」
「バトルに?」
どんな爆弾が落とされるのかと思いきや、チェレンの言う頼み事は至極小さなものだった。本人からすれば一大決心なのかもしれないが、一般的なトレーナーであれば頼まれるまでもないこと。目と目が合ったらポケモン勝負、が基本の世の中においてはごく矮小な悩みである。
チェレンが最後まで口にすることを迷ったのは、相手がNだったからだ。
「Nがバトルを嫌っているのはトウヤから聞いて知ってる。けどNはかつて、チャンピオンのアデクさんを負かしたことがある。相手として不足がない」
「……“修行”か」
チェレンは黙ったまま首肯した。
彼がチャンピオンロードで修行しているという話はトウヤから聞いたものだ。旅をしている間、純粋な「強さ」――ただバトルに勝ち上がれるだけの「強さ」を追い求めていた彼に、N自身もまた危うさのようなものを感じていた。周囲を顧みず、自分の求めるものだけを追い求めるその姿は、今にして思えばかつての自分と重なるものだ。「強さ」を追い求めることに固執することこそが、彼自身の「弱さ」の裏返しでもあった。
「いいよ、協力しよう」
「本当か!」
「うん。たまにはゾロアークたちも身体を動かしたいだろうし」
チャンピオンに勝つ。――今の彼は、それがただの通過点でしかないことを知っている。同じように、今のNはポケモンバトルがただ互いを傷付け合うためのものでないことを知っている。
夢があることはいいことだ。できるならその夢を諦めることなく、最後まで叶えてほしい。トウヤだけではなく、夢を持つ全ての人に対して、Nは慥かにそう思っていた。
緊張が解れた様子のチェレンは薄く安堵の息を吐き出した。そして眼鏡の奥の黒を綻ばせ、「恩に着るよ」と感謝の言葉を口にする。
ポケモンバトルは人とポケモンだけじゃなく、人と人との絆を深めるものでもあるのだと。――Nはその気付きを噛み締めるように、笑みを返した。
+ + +
「N、ちょっと」
一通り乾杯を済ませてトウヤの手料理に舌鼓を打っていたNの元に、今度はトウコがやってきた。はい、と手渡されたのは先程から意識的に避けていたグリーンサラダ。憎らしい赤が「食べて」と言わんばかりに艶めいた存在感を主張している。思わず眉間に皺を寄せながら、それでも大人しく皿を受け取ると、その隙をついてすかさずトウコが腕を絡め、顔を寄せてきた。半ば腰を折る体勢が少し辛い。
「トウヤのためにここ暫くはふたり旅を許していたけど、これからはそうはいかないわよ」
内緒話をするように顰められた声。視線の先ではトウヤがチェレンたちと話している。
「あたしはあんたのこと、認めたわけじゃないから」
トウコはトウヤの双子の姉だ。性格は正反対だが芯の強いところなどは慥かに似ている。トウヤが彼女に大事にされているのだろうということもよく伝わってくる。だからこそ出てきた言葉に、Nは溜め息を一つ漏らしながらその細腕を優しく払った。
「トウヤはキミの所有物ではないだろう」
「……は?」
「気付いてないのか。――トウヤが誰とどこでどう過ごすのかを決める権限はキミには一つもないということさ。彼の考えや感情は彼自身のものであって外部から干渉を受けるべきものではない。キミはそうやって知らず知らずのうちに彼を縛り付けようとしているようだけど、ボクとしては関心しないな」
トウコはぐっと言葉を詰まらせた。図星だったからだ。薄々自覚もしていた。――けど。
「……家族なんだからしょうがないじゃない」
「家族?」
「そうよ。十五年間寝食を共にしてきた弟が旅先で危ない目に遭ってたら心配するのが普通でしょう? 旅に出ることを選んだのはトウヤだし、そこで起きた出来事にはきちんと責任も持てる、立派な大人になって帰ってきた。――でも、それを心配して待つのはいけないことなわけ? 何かあったんじゃないかとか、本当に大丈夫なのかとか、そういう純粋な心配はしちゃいけないの?」
言葉を切ったトウコは、視線をつい、と滑らせトウヤを見た。こちらに気が付いた様子はまだない。そのことに、トウコは少しばかり安堵していた。「慥かにトウヤがどこで誰と過ごそうが、何をしようが、あたしには関係ない。でもだからといってあたしとトウヤの縁が切れるわけじゃないの。危ない目に遭わないでほしい、幸せに生きてほしい。――あたしはそう願ってるだけ」
その願いを懐き続けるにあたって、Nの存在はトウコにとって認めがたいものであるのだと、トウコは付け足して言った。「これはあたしの感情よ。トウヤは関係ない」
家族とのつながりなど、Nはこれまで一度だって感じたことはない。かつていた森の中であの男の手を取ったときですら、家族ができたという考えには至らなかった。「どうやらボクにはまだ知らない人とのつながり方や感情論があるようだ」とひとりごちれば、トウコは呆れた様子で肩を竦めた。
「Nの境遇はトウヤから聞いて少しは知ってるの。同情するつもりはないけど、理解不足だったのは否めないわ。ごめんなさい」
「キミが謝る必要はないよ。寧ろボクの方こそ知った口を聞いてしまった」
「ふふ。じゃああたしたち、おあいこね」
そう言って悪戯っぽく笑う。一歩足を踏み出し、くるりと振り返ったときに見たその笑顔に、トウヤのそれが重なって見えた気がした。「Nと話せてよかった」
それだけを言い残して去っていく。
Nはその背を見送ってから、夜風に当たるためにそっと外へと踵を返した。
夜風は少し冷たかった。昼間は夏の残滓が纏わり付いているというのに、日差しがなくなると途端に空気は秋めいて感じられる。言葉よりも寧ろ季節が一巡したという体感こそ、一年という歳月をより強く実感させるようであった。空に瞬く星々が、街灯に遮られることなく冴え冴えとした青い光を放っている。
「具合悪いの?」
水面に落ちた雨雫のように、夜気をすり抜けて届いた声は優しかった。背後で開いた扉の向こうには、部屋の灯りを背負うトウヤがいる。手には水の入ったグラスが二つ。静かに扉を閉め、はい、と片方を手渡す。
「水。いるかなと思って」
にこりとした笑みは先程見たトウコのそれとやっぱりよく似ている。「ありがとう」と言ってグラスを受け取れば、トウヤの笑みはますます深くなる。Nもまた微笑を返し、庭先へと視線を戻した。双子の母親がいつも丹精込めて整備している庭だ。昼間は陽の光を浴びて色とりどりの季節の花が咲き誇るのだが、今は闇に沈んでしまい、色までは識別できない。それでも青白い月光が優しく降り注ぐので、昼間とは違った美しさに満たされているようにも思えるのだった。
「……先刻のキミの問いの意味を考えていた」その庭に、Nの声が凛と響く。
「問い?」
「楽しいか、と」
ああ、とトウヤが吐息を漏らすように相槌を打った。
「正直に言うとボクには分からなかったんだ。楽しいか楽しくないか。自分の感情がどこを向いているのか未だによく分からないことが多いから」
楽しいか楽しくないかの二択で答えなければならないのなら「楽しい」と思う。――ほんの数時間前までは慥かにそう思っていた。たぶん、楽しい。けれどそれはトウヤが求める答えにはなっていなかった。心が追いついていなかったのだ。
「でも今なら断言できる。“楽しい”と。先刻までと何が違うのかは自分でもまだよく分からないけれど、ベルやチェレン、トウコたちとの会話の中で、今までにないほどの感情の揺らぎのようなものを感じたんだ。知らなかったことを知ったときの興奮にも近いあれこそが、“楽しい”ということだったのだと思う」
誰かと話をし、意見を交わし、心を通わせること。それは、Nがこれまでに体験したことのないものだった。Nはポケモンたち(トモダチ)に対してすらどこか一方通行で独りよがりだったからだ。みんなの笑い声を、今は素直に受け入れることができる。
――「よかった」という声が、やにわに届いた。
「不安だったんだ。君に“無駄なことだ”と言われたらどうしようって。こういう騒がしい場はあまり得意じゃなさそうだったし、かえって嫌な気持ちになるんじゃないかって。でももしNが楽しいと思えたのだとしたら僕もうれしいし、一緒になって楽しめる。そうしたら楽しみは倍だ」
そうだろ? と小首を傾げてはにかむトウヤに、Nもまた一つ頷いて見せた。「トウヤの手料理も食べられたことだし」と言うと、夜闇にも分かるほど頬に赤みが差していく。「料理は嫌いじゃないから」という言葉とともに外方を向かれてしまうが、そう長くは続かなかった。
「……みんな、Nのことが好きなんだよ」
ぽつり、と足元に落ちた声。唇を水で湿らせたトウヤは、その声を引き上げるように上を見上げた。何万、何億光年と先にある星々の煌めきはこの数分では変わることがなく、それをただ眩しそうに眺めている。「みんな、どうやったらNと仲良くなれるか真剣に考えてたんだ。ずっと。Nは放っておくと自分から輪の外にいっちゃうけど、みんなはそれを必死に追いかける。それって、好きじゃないと絶対できないことだと思うんだ」
だから今日、みんなはここに集まった。そしてその「好き」という感情がNにも伝わったからこそ、N自身も「楽しい」と思えたのだと、トウヤは静かに続けた。
「最初に感じた“楽しい”との違いが分からないというけど、僕はそれで構わないと思う。誰かとの触れ合いを通してNがそこに何かを感じ、より強く“楽しい”と思えたのだとしたら、それ以上素敵なことはない」
「トウコには嫌われていると思うのだけど」
「そんなことないよ。トウコはチェレンと同じで、見かけによらず心配性なだけだから。僕がNのために何かしたい、って相談したときもすごく親身に話を聞いてくれたし」
この招宴を最初に提案したのもトウコなんだ、と。トウヤはどこか誇らしげだ。
「ねぇ、N。また一緒に旅をしようよ。宛のない旅でも構わない。Nが何を楽しいと思うのか、何を美しいと思うのか、一緒に見て、共感したいんだ」
月光りの下で黒々としている双眸は、それでも爛々とした、一等星に負けない輝きを放っているように思えてならなかった。「一緒に“楽しい”を見付けに行こう」という言葉に、胸の奥を鷲掴みにされたような心地がしてならない。その弾みで押し出されそうになっているのは涙だろうか。
「――勿論だとも」
そう、やっとのこと応えたNに、トウヤは今日一番の笑顔を向けたのだった。
星を眺めながら他愛ない話で盛り上がっていた二人の元に、「トウヤ、デザートは?」とトウコが割り込んできたのはそれから暫くしてからのことだった。「せっかくの招宴に主賓がいなくてどうするの」とややむすっとした様子のトウコの言葉に、トウヤが「ごめん」と後ろ頭を掻き混ぜながら苦笑を返す。「あんたじゃなくてNのことよ」と、矛先はすぐにこちらを向いた。
「言ったでしょ。あたしは認めてない、って」
チェレンー、手伝ってー、というトウヤの声が家の中へと戻っていく。その声を背景に仁王立ちするトウコに、どうやら会話は聞かれていたらしいと知る。
「……まぁいいわ。あんたの言ったことも尤もだし、トウヤが行きたいというのならあたしは止めない」
「いいのかい?」
「何よ。止めていいなら全力で止めるけど」
冗談か本気かも分からないようなことを言い置き、トウコも家の中へと戻っていってしまった。扉が閉まる直前、「あんたも早くしなさいよ」という気のない声が投げかけられたが、そこには慥かに、トウヤが言う彼女の優しさのようなものを感じた。
「……不思議だ」
トウヤもトウコも、ベルも、チェレンも。皆が皆、当たり前のようにNを受け入れている。過去の過ちや確執を完全に消し去ることはできないけれど、彼らはそれを飛び越えて目の前にいる。過去にがんじがらめにされた自分という存在にそっと手を伸ばし、道を指し示してくれる。かつて「親」だと言った男と違うのは、楽しさや喜びを分かち合おうとする心意気の問題。
一緒なら楽しみは倍だ、とトウヤは言った。その根源がどこからくるのかなどということは、彼の言う通り分からなくてもいいことなのかもしれない。
日常という名の数式に解はない。
Nは漸く腑に落ちた様子で口元に弧を描き、皆が待つ家の中へと戻っていった。
(了)