枯れないブーケ

 澄み渡った麗らかな空が世界を祝福している。
 穏やかな晴天。ぽつりぽつりと浮かぶ綿毛雲はまるで、遠い異国の地に棲むメリープたちのように柔らかそうだ。
「ねぇ、トウコ……」
 そんな晴れ渡った空とは対象的に、室内の空気は少し重々しかった。「やっぱりやめようよ……」という今にも消え入りそうな声。沈鬱な面持ちのトウヤは口を尖らせながら、目の前に立つ姉を不服そうに見た。
「何言ってるの。あんたが言い出したことでしょ」
「そうだけど……んむっ」
「自分で決めたんならぐだぐだ言わない!」
 トウコの片手に携えられていた白粉が鼻先にやや乱暴に乗せられた。目の前が粉っぽくなり、慌てて目を閉じる。そうして大人しくなったのを見計らい、トウコは優しい手付きで肌を軽く叩き始めた。馴れないこそばゆさに思わず身動ぐと、すかさず「動かないの」と頭を固定されてしまった。
 正面には全身を映す大きな姿見がある。そこにしずしずと佇む人物と目を合わせると、なんとも形容詞がたい、不思議な想いに駆られるのだった。
 そこにいるのは一人の少女だ。
 年頃の女性ならば一度は憧れるであろうシルクのドレスに身を包み、不安げに眉を顰めている。肌は普段の健康的な色ではなく、ドレスに合わせた薄い色素に整えられていた。手入れなど滅多にしない筈の唇はつやつやと光を反射し、漏らす吐息をも薔薇色に染め上げてしまう。
 よくもまぁここまで仕上げたものである。
 今朝から――正確には数日前から気合を入れていたトウコに言質を取られてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
「何ブサイクな顔してるの。Nのためなら何でもできるって言ったのはトウヤでしょ」
 まるで心を読んだようなタイミングでトウコが口を開いた。「これくらい我慢しなさい」と言いながら、半歩ばかり後退する。上から下までじっくりその出来を観察し、やがて満足したのか「よし」と頷く。漸く解放される、とトウヤも安堵で肩を落とした。
「慥かにそう言ったけどここまでするなんて聞いてないよ」
「サプライズなんだから当たり前でしょ? それよりほら、立ってみて」
 促されるまま立ち上がると、スカートの裾が爪先をすっかり覆い隠してしまった。全容が見えてくる。
 オーバードレスから覗くアンダースカート。フリルは控えめだが、全体にボリューム感のあるシルエットを浮かび上がらせている。左腿から右の爪先にかけて斜めに走るオーバードレスのフラウンスは襞が幾重にも折り重なり、まるで浜辺に輝く貝殻の模様を思わせた。その襞を、右の腰骨の辺りにあしらわれた薔薇のコサージュが留めている。揃いのものが胸元にもあしらわれ、オーガンジーのレースが二の腕を覆う袖のような役割を果たし、性別による線の違いを幾分和らげていた。首元には、薔薇を模したパールのチョーカーが慎ましげに光沢を放っている。
「上出来ね。流石あたしのトウヤ」
 トウコは満足げに頬を染めていた。そこに邪気はなく、心からの賛辞であることが分かってしまう。だからこそトウヤは何も言えなくなるのだ。たとえ踏み出した足先でスカートの裾を踏んで転びそうになっても、馴れないヒールで脹脛の辺りがぴくぴくと痙攣を始めても。
 深々とした溜め息を気にした様子もなく、「後は頭のコサージュとヴェールね」と総仕上げの準備に取り掛かる。
 そのとき、扉を敲く音がした。
「はーい」
 応えたのはトウコだった。「開いてるのでどうぞー」とやや間延びした調子で声を張り上げながら、頭飾りを吟味する手は止めない。扉を開ける音がして漸く、視線をそちらに向けた。
「失礼するよ」
 白いスーツを卒なく着こなした若草色の美丈夫が、そろりと扉を開けて入ってきた。
 青白い肌と相俟って、まるで彼自身が光を放っているようにさえ見える。胸ポケットには白い薔薇が一輪咲いていて、清楚な華やぎを添えている。――しかし、その表情はトウヤと同様、どこか居心地悪そうに固かった。
「ここにトウヤがいると聞いて来たんだけど……」
 誰もが思わず見惚れてしまうほど美しい白スーツ姿の青年――Nは、姿見の前に立つドレス姿のトウヤに気が付くと青灰色の双眸を丸くし、動きを止めた。
 束の間の沈黙が空間を支配する。二人して、動くことも、声を上げることもできなかった。窓の外の庭を歩いていたマメパトたちが、羽を震わせながら穏やかな空へと飛び立っていった。
「ちょっといいかいお二人さん」
 その沈黙を破ったのは、一人蚊帳の外だったトウコだった。トウヤとNの間に割り込むように立った彼女は口角こそ上げているものの眉をびくぴくと痙攣させ、目を吊り上げながらNを睨み上げた。
「――ああ、すまない。トウヤがその……あまりに美しかったから」
 その視線にハッと吾に返ったNの口から発せられたのはそんな歯の浮くような台詞で、トウヤは落ち着かない様子で視線を逸した。
「当たり前でしょ。このあたしが、トウヤに一番似合う形で一から粧し込んだんだから」
「キミにそんな特技があったとは知らなかったよ。でもおかげで普段見ることのできないトウヤの姿を見ることができた」
「人生一度きりの晴れ舞台を譲ってやったあたしに随分な言い草ね。言っておくけど、これはあんたのためじゃなくトウヤのためだから」
「ああ、分かっているとも」
 そんな二人の火花散るやりとりを、トウヤはただ茫洋と見詰めていた。――否、実際にその琥珀の双眸に映るのは、真っ白なスーツの男ただ一人だった。
 白は彼を体現する色だ。かつて二人の女神が「純真無垢」と評した青年の象徴。彼を選んだ「理想」の竜とも同じその色が今は非道く眩しく、目に突き刺さる。それは、目まぐるしいほど数多の経験を経て人並みの感情を手に入れた彼が持つ輝きでもある。凛として隙がない。
 そんな彼と、ドレスに「着られた」着せ替え人形のような自分。比べるなという方が無理な話である。隣に並び立ったときの違和感は傍目にも明らかで、その圧倒的な質の違いに愕然としてしまう。何も考えず隣にいられた今までが不思議なくらい。
「大体、トウヤはまだ準備中なの。紳士なら普通は出ていくところよ」
「これでまだ準備中? これ以上着飾ってしまったら彼を誰の目にも触れないところに置きたくなってしまうよ」
 Nはそう言うなりトウヤに触れようと手を伸ばしかけたが、直前でトウコがその手を払い落としてしまった。「変態」という悪態がすかさず追撃する。
「ねぇトウヤ。本当にこいつでいいの?」
「……え?」
 長らく思考の海に沈んでいたトウヤは、唐突に顔を覗き込んできたトウコの声に引っ張り上げられる形で意識を現実に引き戻した。「非道い言われようだ」と肩を竦めたNの視線もまた、トウコからトウヤへと移される。――トウヤは慌ててトウコへと視線を戻した。
「ねぇ、喉乾いちゃった。この格好だと歩き難いからできれば買ってきてほしいんだけど」
「飲み物?」
 きょとん、と小首を傾げたトウコからはこれまで漂わせていた敵意や殺気といったものが瞬く間に霧散していく。
「うん。緊張したらつい、ね」
「でも、そんなことをしたらせっかくの口紅が取れちゃうんじゃないかい?」
「そしたらまたトウコが塗り直してくれるよ」
 だろ? と臆面もなく言ってのけたトウヤに虚を突かれた様子のトウコは、徐々に言葉の意味を理解するとうれしそうに頬を綻ばせ、「分かったわ」と勇んで部屋を出ていった。
 その背を見送り、閉じた扉にNがふっと笑った。
「キミのお姉さんは相変わらずだね」
「う、ごめん……」
「別に構わないよ」
 視線が再びぶつかる。先程はトウコに遮られてしまった手が、今度こそトウヤの頬に、そっと優しく触れた。冷たく、線の細い手だ。しかしトウヤはその手が好きだった。目を閉じ、チョロネコが甘えるときのように自ら擦り寄れば、微かな笑い声が頭上で震えた。
「普段通りのようで安心した」
「……そう?」
「マリッジブルーだっけ? 少し心配したけど、今はもう大丈夫そうだ」
「それは……」
 言葉は続かなかった。どう伝えるべきか分からなかったのだ。一般に言うマリッジブルーとも異なるこの揺らぎを。自分でもうまく掴み取ることができない感情の正体を。
 もしかしたらNのことを、深く傷付けてしまうかもしれない。いつもならそんなことは考えず、言いたいことを言い合えていた筈なのに。途端に後込みしてしまったのは、目の前に立ついつもと異なる様相の青年から、いつもは鳴りを潜めているかつての「王」という肩書きが背負い続けた気品や風格というものを感じてしまったからかもしれない。
 果たして本当に彼の隣に立っていていいものか。
 格好の問題以上に心意気の問題が、今のトウヤの心を苛んでいた。
 一方、俯いてぐるぐると沈思するトウヤをNは静かな眼差しで見詰めていた。その視線の温かさにトウヤは気付かず、人生初の口紅を塗った唇の下に指を添え、うんうんと唸っている。――その手を、Nが徐ろに引っ張った。
「え、N……?」
 馴れないヒールであっという間にバランスを崩してしまった身体をNは難なく抱き留める。腰に回る腕にこそばゆさを感じながらトウヤが見上げると、そこには子どものように屈託なく相好を崩した顔があった。「夢みたいだ」と、その整った顔に横たわる薄い唇が恍惚りと割り開かれる。
「ボクの周りには今日という日の体験を語って聞かせてくれるような人はいなかった。もっと言えば考えたことすらなかったんだ。トモダチと一緒に自分の世界に引きこもることしかできなかった以前のボクでは、ニンゲンと契ることに意味を見出すことすらできなかっただろう」  候補がいなかったわけではないのだと、Nは淡々と事実を告げた。
 当たり前だろう。仮初といえど彼は慥かに「王様」だったのだから。――しかしその候補たちでは彼の閉じた世界の殻を破ることはできなかった。
「知らなかった世界をボクに初めて見せてくれたのは紛れもなくキミだ、トウヤ。カラクサでキミたちの声を聞いてから、ボクの世界は慥かに広がった。契りを交わすこと、それが周囲に認められることでキミの隣を堂々と歩ける。そのことが、ボクには何よりうれしい」

 ――もう、随分と昔のことである。
 双子がまだ幼かった頃、いつまでも帰らない父に焦れたトウコが、どうして放って置かれてばかりなのに許せるのかと、母に向かって詰問したことがあった。
 父は腕の立つポケモントレーナーだと聞いている。同じくトレーナーだった母と意気投合し、一緒になったのだと。
 親族の中には難色を示す者もあった。旅暮らしで安定した収入があるわけではなく、興味の赴くままにあちこち飛び回る男に大事な娘を嫁がせるわけにはいかない。ごく当たり前の考えだ。
 しかし、豪気な母は譲らなかった。「未来を憂いてばかりでは前に進めない。どんな不安も困難も乗り越えてこそ母さんの人生がある。それを共に成し遂げられると思ったのが、あなたたちの父さんなの」――それを聞いた親族たちは渋々ながらも二人の関係を認めるしかなかった。割り込む隙がなかったからだ。その代わり一切の援助をしないと言ったそうだが、もともとそのつもりだと母は啖呵を切った。
 その話しを聞いた当時は意味を理解することができなかった。父親のいない寂しさをただ母にぶつけたかっただけだからかもしれない。
 どんな不安も困難も乗り越えられる、否、共に乗り越えたいと思える者こそが伴侶なのだ。そこにある想いは、隣で一緒に世界を見ていたいと言うNの願いにも通じる。
 先程から胸の内側でざわついていた得も言われぬ不安。これもきっと、彼と一緒なら。
「……僕も、同じだ」
「トウヤ?」
「Nと、これからは堂々と一緒にいられる。そのことがうれしいんだ」
 ドレスを着ることになったのは不本意だけど、と口を尖らせれば、きょとん、と目を丸くしたNはまたも破顔した。それがたまらなく愛しくて、痛む足も気にせずほんの少しだけ背伸びする。

 相変わらず麗らかな秋天が、僕らを静かに祝福していた。



(了)

あとがき

今だったら絶対書かない(書けない)ネタなので当時のパッションすご……と感心してしまいました。流れは変えていませんが結構大幅に加筆修正しています。
ドレスもいいけど白タキも着てみてほしいわね。

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