夢見ることは罪ですか

 かしましい蝉の声が鳴り響く。気怠げな教師の声はかき消され、大半の生徒は顔を俯向け、意識を散漫にしていた。友だちと回し読みしている漫画の続きが待ちきれない者、小さな紙切れで隣の席の人と会話する者、あるいは堂々と眠りに就く者、さまざまだ。本来ならそうした問題行動を諫める立場にある教師がこの暑さに閉口し、やる気を削いでいるのだから仕方がないのかもしれない。
 じりじりと大地を焦がす太陽の熱で、グラウンドには陽炎が揺らめいて見える。シンジは頬杖をついて窓の外を眺めた。肌の上に滲んだ汗がべたついて気持ち悪く、授業どころではなかった。
 黒板の上にある古びた放送機が微かなざわめきを発した。チャイムが鳴る前の合図だ。数秒と経たず聞き慣れたチャイムが電子的な機械音となって校内中に定刻を知らせる。
「えー、では今日はここまでにする」
 先程まで教室に充満していた気怠げな空気が瞬く間に霧散した。分厚い眼鏡の老教師の言葉にも、やっと授業から解放されたという気持ちが滲んでいるように思えてならなかった。
 教師が出ていくのを待つこともなく、放課後はカラオケに行こう、アイスを食べに行こう、と級友たちが話している。借りてた漫画読み終わっちゃった、と近くの席の生徒が漫画の持ち主に渡している。それを横目に、シンジもまた帰り支度を始めた。
「シンジ!」
 後ろからぽん、と肩を叩く手。いつもは黒いジャージに覆われている健康的に焼けた浅黒い腕も、この日ばかりは白い半袖シャツでほんの少しばかり涼しげだ。「これからケンスケたちとゲーセン行く予定なんや。シンジ、お前も来い」
 トウジはそう言って親指で背後を指した。カメラを趣味とするケンスケが、撮ったものを嬉々とした様子で級友に見せている。こちらに気付くとひらりと手を振るので、シンジもまた手を振ってそれに応えた。
「うん、行くよ」
「そうこなくっちゃ」
 黒板の前で誰かが甲高く叫んだ。よく見れば委員長だ。掃除をサボって帰ろうとした男子に箒を突きつけている。「アンタたちほんとお子様ね。決められたこともろくにこなせないなんて」と、委員長の横で腕組みをして凄むアスカに、矛先を向けられた男子たちはたじたじだ。
「おー、こわ。あいつらが委員長たちの気を引いてる間に行くで」
 ケンスケたちは既にいなくなっていた。トウジに促されるまま静かに席を立ったシンジはこっそり教室を抜け出した。
「家に帰ったらアスカにこっぴどく言われるんだろうなぁ」
 親戚の都合で居候している幼馴染の姿に一瞬げんなりしてしまったが、「そんときはトウジたちに連れ出されたって言えばええ」と前を行くトウジが笑うので、ほんの少しばかり気持ちが軽くなった。
 シンジたちが通う学校には東館と西館があり、下駄箱もそれぞれ設けられている。二年生の下駄箱は東側にあった。増築した際に入り組んだ造りになってしまったためだ。西にある教室からは少し遠く、どうにかならないものかと生徒会が度々議論しているという話を、生徒会役員も務める委員長から聞いたことがあった。
「はよせんと置いてくで!」
 一足早く下駄箱に辿り着いていたトウジに慌てて追いつこうと歩を早めたそのとき、微かな旋律が耳に届いた。
 緩やかに流れる小川のせせらぎのように穏やかな音色。集中しないと聞き流してしまいそうな、けれど一度耳に入れると離れがたく思うような、そんな音が足元に絡み付いてくる。「シンジ?」と、靴を履いていたトウジは待ちきれない様子で顔を覗かせた。
「ごめん、トウジ。僕急用思い出しちゃって」
「急用ぅ?」
「後で向かうから。ケンスケたちと先行ってて」
 顔の前で手を合わせ「ごめん」のポーズを取るシンジに、怪訝そうに眉を顰めていたトウジは溜め息をつき、「しゃあない」と後頭部を乱暴に掻き混ぜた。
「いつもんとこにおるから。用事済んだらさっさと来いよ」
「うん」
 トウジとのそんなやりとりの間も、旋律が鳴り止むことはなかった。
 音の正体がピアノであることはすぐに分かった。ピアノは音楽室と音楽準備室にそれぞれ一台ずつある。走り去るトウジの背中を見送った後、シンジは踵を返して迷わず音楽室に向かった。
 東館は主に三年生の教室と特別教室がある。受験生が受験勉強に集中できるよう、一・二年の教室と分けたのだ。特別教室は各階の両端の広い教室にあてがわれており、音楽室は中でも最上階にあった。普段は吹奏楽部が使っているが、今日は練習がないらしくしん、と静まり返っている。その静寂を裂いて響くのは唯一つ。
 そっと扉を開けると、窓から吹き込む夏の風が向きを変え、薄いカーテンを一際大きく揺らめかせた。溶けるほどの暑さだった西館とは違い、陽光が直接差さない放課後の音楽室はほんの少しひんやりと感じられる。
 その部屋の隅に置かれた黒光りするグランドピアノが、鍵盤を叩く者につられて楽しげに音を踊らせていた。先程からずっと聞こえていた音の正体。誰も彼も目に留めないというのが不思議でならないほど、完璧な音の流れがその場の空気を支配している。圧倒される演奏というのはきっとこういうものを言うのだろう。シンジは扉を閉めると、その場でひたすら演奏に耳を傾けた。
「そんなところに突っ立ってないでこちらにおいでよ。碇シンジくん」
 音の合間から聞き知った声がシンジを呼んだ。
 入口付近からでは演奏者の姿は大きなピアノに秘匿されて見えないのだけれど、想像していた人物と相違がなかったことに安堵し、シンジは口元を綻ばせながら近付いた。
「邪魔しちゃいけないかと思ったんだ」
「邪魔? 僕が君を邪険にする筈ないじゃないか」
「うん。でも、カヲルくんがあんまり愉しそうに弾いてたから」
 意識を乱されている筈なのに演奏は尚も止むことがなく、見えない楽譜に綴られた知らない旋律を紡ぎ続ける。音を操る真っ白な指先が鍵盤を叩く度、振動が足先から伝わり、全身が震えるのを確かに感じた。
「一人より二人の方が愉しいよ。演奏だけでなく、何事においても。況して君とならね」
 カヲルは臆面もなくそう言ってのける。
 中学生とは思えない達観した思考を持つ彼に、誰かが巫山戯て「仙人」と渾名を付けていたことを思い出す。初対面は、今日と同じようにシンジがピアノの音色に釣られてこの音楽室にやってきたときだった。思えばその頃から彼は、恥ずかしげもなくシンジに対する好意を露わにしていた。
 そんなカヲルにシンジが自分でそう思っているのかは分からなかった。トウジなどは「気持ち悪いやっちゃなぁ」とあからさまに嫌悪していたけれど、彼のピアノを聞いているのは好きだし、一緒にいて苦ではない。寧ろ、心地いい。――ただ、それを彼が見せる好意と同等のものかと問われれば、答えは途端に迷宮入りしてしまうのだ。
 一曲が終わる。唐突に、何の前触れもなく、ただ重さのある余韻だけが残され、息を呑む。まだ続きがあるのではないかと観客に思わせるひとときの沈黙を破るのは、本来なら喝采であるべきなのだろう。けれど、このときはカヲルの方がほんの少しばかり早かった。
「一緒に弾こう」
 目の前に差し伸べられた手。実に莫迦げた提案に目を白黒させたシンジは、たじろぎならやっと口を開いた。
「む、無理だよ! ピアノなんか弾いたことないし、カヲルくんみたいに上手く弾けない」
「上手く弾く必要なんてないさ。君は弾きたいように指を動かせばいい」
 おいで、と目元が綻ぶ。紅玉ルビィを埋め込んだような双眸は優しげでありながらもどこか強引で、断ることがあまり得意ではないシンジにとってそこから放たれる視線は少し、怖くもあった。「あんまり下手だからって笑わないでよ」と言いながら、差し伸べられた手を取り、隣に腰掛けた。
「初めはゆっくりでいいよ。肩の力を抜いて」
 言われるがまま深呼吸して肩の力を抜き、カヲルの動きに合わせて鍵盤に指を滑らせる。
 生まれてこの方、ピアノなど触ったことすらなかった。両親が音楽好きなのでよくテレビで見ていたが、男性ピアニストが奏でるクラシックに圧倒されることはあっても、弾いてみようと思ったことはない。それくらい縁遠いものだったのだ。
 それなのに、シンジの拙い指遣いに合わせてカヲルが演奏を付けると、不思議と耳に違和感のない、美しい音階がグランドピアノを唸らせるではないか。音が生きて、弾み、心から楽しんでいるのが分かる。その心地よさに夢中になる。
 どれくらいそうしていただろう。始まりがあれば終わりがある。演奏もやがて終わりを迎え、微かな余韻を残して消えていった。張り詰めていた息をほう、っと吐き出すと、隣でくすりと笑う声がした。
「ほらね? やっぱり一人より二人の方が愉しい」
 いつの間にか音楽室は、西陽がもたらす橙色と落ちた黒い影のコントラストが強まっていた。教室を出ると北側に面した廊下は薄暗く、ひんやりと肌寒い。昼間の暑さが嘘のようだ。郷愁を誘う蜩の声が、練習に励む運動部員たちの声に混じって窓越しにくぐもって聞こえた。
「今日はありがとう。ピアノ弾かせてくれて」
「こちらこそ。久し振りに楽しめたから、気が向いたらいつでもおいで」
 下駄箱には誰もいなかった。トウジたちとゲーセンに行くという約束をしていたが、この時間ではもう帰ってしまっているだろう。明日登校したら謝らないと、と思いながら靴を履き替えていると、折よく腹の虫が切なげに存在を主張した。
「ピアノで頭使ったからかお腹空いちゃった。ねぇ、帰りにハンバーガー屋さんに寄っていかない?」
「いいね。行こう」
 東の空がほんの少しずつ紺碧に染まり始めている。
 夏休みが終わってからというもの、日に日に日暮れが早まっていくのを肌で感じる。
 もうすぐで、夏が終わる。

+ + +

 季節は巡り、世界は回る。
 人々は小さな日常の中で笑い、ときに涙して、日々の小さな幸せを募らせていく。
 頭上で瞬く満天の星々を見ていると、自分というちっぽけな存在について考えを巡らせてしまうことがある。自然という不条理な世界の中で懸命に生きようとする人々は、日常の中で得た小さな幸せを愛しながら生きている。級友と笑い、互いに想い合う存在を持ち、つかず離れず歩む日常の些細な幸せを噛み締めていたいだけなのに。
 世界を作り直すことができたなら、そんな小さな日常、小さな幸せが訪れるのだろうと、信じて疑わなかった。それは結局、子どもの浅薄な考えでしかなかったのだろうか。
「カヲルくん! カヲルくんッ!」
 透明な壁が緋色に染まる。手を伸ばしても、拳を振り上げても、見えない壁に阻まれてしまう。頽れる身体にはどうしたって触れることができない。触れたところでどうすることもできないと分かっているのに、頭が事実を受け止めない。
「カヲルくん――ッ!!」
 嗚咽が喉に絡まって息ができない。現実を直視したくない筈なのに、血の温かみすら伝えてくれない緋色の壁が心底憎らしくてたまらなかった。縋るように額を擦りつけても、それが消えることはない。

 僕はただ、君となんでもない日々を過ごしてみたかった。世界を作り直すことができたなら、それも可能になるのではないかと夢を見ていたんだ。
 カヲルくん。僕は君が、好きだったんだよ。



(了)

あとがき
旧題「ifの可能性」。TV版でもむごい死に方だったけどQはそれに輪をかけて上げて落とすのがうますぎて初見後暫く具合悪くなった記憶があります。文章があまりに稚拙だったので大幅にリライトしました。

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