誰にも気付かれずにカードの山から二、三枚多く抜き取る。
視線を彷徨わせてはいけない。
極度の緊張、警戒、罪悪感。それらはみな、笑顔という名の仮面の下に隠している内にいつの間にか消え失せてしまった。手札を確認したら自然な流れで袖口にしまい込む。正直なところ観客は邪魔だが、彼らの視線をいっぺんに手元から外す口術を、アレンは随分と前から心得ていた。
自分の容姿と相手の懐に潜り込むのに適した笑顔を見ると、大抵の人間はこう思う。「こんな腑抜けた餓鬼に負けるわけがない」。
認識は無意識に思考を支配する。
人とは単純なもので、嘗めてかかった途端に動かしている心算のない表情筋が微かに動くのだ。アレンは観察も怠らない。人より多い自分の手札を数えながら、最も良い時機で上がりを告げる。
「これに関しちゃ、あんたは道化というよりペテン師だね」
久し振りに会ったマザーに再戦した際には、呆れがちな声で不名誉なレッテルを貼られてしまった。
マザー以外に負けたことは今までで一度もない。だからといって傲ったこともなかった。自信はあっても油断はせず、ただいつもの通り自然体で遊戯に興じるようにしていた。相手によってはイカサマされているということに気付かない者もあったくらいだ。
今日の相手はイタリア系で彫りの深い顔立ちの、ガタイのいい男だった。
食事に訪れた安酒場で大酒を食らっていたその男は、カウンターで品書きを見ながら悩むアレンを目にするとすかさず隣に移動し、云った。「ポーカーをしよう。お前が勝てばここの飯代は俺が持つ」
その申し出はアレンにとってありがたいものだった。
食欲は常人の倍以上。どうせなら品書きの上から下まで全て頼みたいところだが、侘しい懐事情がそれを許さなかった。黒の教団と人型イノセンスの両方から逃げる身のために目立つ行動はなるべく慎まなければならず、どこか一つ所に留まって日銭を稼ぐということがなかなかできないでいたのだ。
「この店に初めて来たやつに勝負を挑むのが俺の細やかな楽しみってわけ」
安酒特有の具合悪くなるような匂いを振り撒きながら、男は上機嫌にカードを切る。素行が最悪を極める師匠もまた大酒食らいであったが、高級酒ばかりを好んでいたためか悪酔いとは無縁だった。アレンは男の手元を見ながら、意識を極力遠くに飛ばした。
それが一刻ほど前のこと。
今、卓の上にはクローバーの「10」から「A」が美しい扇形を描いて並べられている。弧を向けられているのはアレン。そろそろ泳がせるのは止めよう、と間合いを測っている間に、男の上機嫌な声が上がりを告げたのだった。
マザーに勝てないのは、マザーにイカサマが通用しないからだ。彼女はアレン以上の鋭さでイカサマを見抜き、手癖の悪さを指摘する。そのくせ自分はしっかりイカサマをして勝ち上がるのだから一層タチが悪かった。
「悪ィな、坊主」
赤ら顔の男が嫌な笑みを浮かべた。
周りでやんやと囃し立て、二人の勝負の行末を肴に酒を飲んでいた客たちの空気が、一瞬にしてがらりと変わった。察したときには既に遅く、背後にいた男がアレンの両手を掴んで背中で捻じり上げ、ガンッ、と勢いよく顔を卓に押し付けた。持っていたカードも袖口に隠していたカードも、全てが足元に散らばっていく。
「……何の真似です」
「そりゃこっちの台詞だ、坊主。ここらで最近、白髪で目の上に傷がある流れ者の餓鬼がイカサマポーカーで金を巻き上げてる、って噂になってんだよ。俺らにも規則ってもんがある。その規則を守れねぇような粋がった餓鬼には仕置きが必要だろう?」
男が空になった酒器を乱暴に置くと、振動が肌に直接伝わってきた。背後で腕を拘束した男が体重をかけてくるので身動きがとれず、視線だけで周囲を探る。カウンターで洗った酒器を拭いていた店主はちらりと一瞥しただけで、何も見てないかのようにさっさと奥に引っ込んでしまった。他の客もおもしろそうににやにやしながら眺めるばかりで一向に助けの手を差し伸べようとはしない。――どうやら店全体が共犯のようだった。
「……へェ? 規則なんてあるんだ。知らなかった」
「偶にいるんだよ、そういうやつ。それでおイタが過ぎて、俺みたいなのが呼ばれンだ」
無骨な手が白い髪を鷲掴んだ。結わえていた髪紐が衝撃ではらりと落ち、伸びた襟足が肩をさらりと撫でていく。「いいぞ」「もっと痛い目に遭わせろ」「オヤジの仇」「いっそヤっちまえ」客たちが口々に喚き立てる。喧しいまでの恨み言が、漣のようにアレンに向かって押し寄せてきた。
「どうする坊主? 俺は雇われの身だからお前をカードで負かせられればそれでいいが、ここらの連中の中にはお前にさんざ泣かされたってやつも大勢いる。そいつらの鬱憤晴らしにでも付き合うか?」
下卑た笑み。「これだけエゲツない手を純朴な表情でこなしてんだ。そのお綺麗な面を効果的に使う方法だって知ってんだろ」と、男の硬い指先がアレンの頤をむんずと掴む。
アレンは歯を食い縛り、挑むように睨み上げた。
相手はただの人間だ。これまで幾度となくアクマとの戦いに身を窶してきたアレンにとって、体格差こそあれ、男たちから逃げるのは造作もないことの筈だった。それなのに、自分の中の何かが抑制してくるように躰が動かない。ここで生まれる怒りや憎しみといった感情が、いつ引き金となってアレンを〈ノア〉に変えてしまうか分からなかったからだ。況してアクマではない彼らに左腕を使うこともできない。――しかしこのままでは。
(――ころす?)
アレンはハッとして、自身の思考に身震いした。
自分ではない何かが語りかけてくるようであり、自分の思考と手足がばらばらに引き離されてしまったかのようでもある。奇妙な感覚。
自分に危害を加えようとしている人間たちなど排除してしまえばいい。この手を抜き取って、代わりに首を掴んでその骨を捻じり上げてしまえば、男は簡単に血を吐いて斃れるのだから。それは呆気なく、至極簡単に。
絶対にやってはいけない所業だ。
眼前に差し迫った安っぽい酩酊の香が、奇しくもアレンの意識を現実に繋ぎ止めていた。
ここまで来たら、男のこの不快な顔に一発頭突きをかましてやろう。怯んだ隙に抜け出して、さっさとこの店からお暇しよう。
勿体振って近付く男を催促する、外野の色めき立つような声が非道く耳障りだった。
「はい、そこまで」
視界の端を浅黒い肌が過ぎったのは、アレンが頭突きしようと心に決めていたラインよりほんの少し手前まで男がきたときだった。頤を捉えて離さなかった男の右手を、白い手套に覆われた手がやんわり掴んでいる。その手は仕立ての良い紳士服へとつながっており、袖口からは褐色の肌が覗いていた。
一瞬の沈黙。そして湧き上がるどよめき。「こいつ、どこから入ってきやがったんだ?」誰かが動揺に声を震わせた。
「おい! 店の扉は完全に閉めてたんじゃねぇのか!」
アレンをポーカーで負かした男が店の奥に向かって叫ぶ。そこにいる筈の店主からの返答はなく、男は盛大に舌を打った。アレンの腕を抑えていた男は突然の闖入者に気を取られたようで、僅かに力が緩んだ隙にアレンはするりと抜け出し立ち上がった。関節を圧迫するように抑え付けられていたため、節々に痛みが奔る。
「……なんで貴方が此処にいるんです」
顔を上げたアレンの目に留まったのは、よく見知った男の顔。長く伸ばした青みがかった黒髪を一つに束ねている格好は未だ慣れないが、人を食ったような笑みは相変わらずだ。
――ティキ・ミック。なるほど、彼なら鍵の掛けられた店内にも難なく入り込める筈である。
ティキはアレンと視線を合わせるなり、芝居がかった微笑で目元を綻ばせた。そして、
「捜しましたよ、アレン様」
「………………は?」
着ていた黒外套をアレンの肩に恭しくかけ、そのまま右手を掴み、頭を垂れる。その流れるような所作はアレンのよく知る彼のものではなく、彼とは縁遠い、どこかの貴族か何かを思わせた。
「お父様が心配されていました。厳しく当たりすぎたのやも、と」
「あ、の……ティキ、さん?」
お父様とは誰だ。否、アレン様とは何だ。
状況についていけず目を白黒させるアレンと同様、何やら住む世界の違う人物の登場に店の客たちも困惑を露わにする。「お前さんは?」と努めて冷静を装って訊ねたのは、イカサマ師の男だった。
「ああ、失礼。私はティキ・ミック。キャメロット公の密命で彼を迎えに上がりました」
「キャメロ、ット……? あの、外務大臣のか」
「ええ。彼は公のご子息なもので」
「「はッ!?」」
にこり、という音が聞こえた気がした。
アレンは信じられないという面持ちで隣に立つ男を見上げた。
まるで嘘など知らぬと云わんばかりのその整った顔。貴族令嬢から引く手数多であろうことは想像に難くない。初対面のときは浮浪児だった筈なのに、一体全体どういうことなのか。
そんなアレンの困惑など他所に、彼は表情一つ変えることなく、あれよあれよと言葉を紡いでいった。「お父様と大喧嘩をして家出をされたときは我々もどうしたものかと途方に暮れましたが、親切な街の方がこちらの店にアレン様らしき人物が入っていくのを見かけたと教えてくださいまして。いや、実にいい店です。人情と娯楽が往年の中で染み付き、まるでブルゴーニュの農村で醸される葡萄酒のような味わい深さとともに客人を包み込んでくれる。――こちらでは随分楽しまれていたみたいですね?」
最後の問いかけはアレンに対するものだったが、その答えをアレン自身は持ち合わせていない。塞がらないままでいた口をどうにかこうにか閉じるので精一杯だった。
分かるのは、彼が今日此処にいるのはアレンに危害を加えるためではなく、どうやら助けにきてくれたらしい、ということくらい。しかもシェリル・キャメロットといえば、ヨーロッパ諸国において知らぬ者はないほどの超有名人だ。外務大臣としての手腕は歴代大臣のそれを凌ぎ、首相の覚えもめでたいという。
アレンにとっては〈ノア〉の一人であることに相違ないのだが、酒場に集う者たちにとってはそうではない。明日の我が身を憂い、誰も彼もが顔を青褪めさせ、揃って奥歯を鳴らした。
「さて、我々はこれで。事の顛末はキャメロット公にもしっかり報告させていただきますね」
「ちょっ、待て! 待ってくだせェって、旦那!」
「店主には貴方方のことを証言していただく予定ですので」
それでは、とティキは慇懃な態度で有無も云わせぬ笑みを返すと、アレンの手を引き悠然と店を出ていってしまった。後に残されたのは絶望感と悲壮感にまみれた男たち。――そしてもう一つ、アレン本人にも大きな戸惑いを残していた。
「どういうことですか」
店から十分離れたところで足を止めたアレンは、自身の手を掴んで離さなかった手をパシリ、と容赦なくはたき落とした。「僕はキャメロット大臣の息子になった覚えなんてまったくないんですけど」
背中で猫の尾のように揺れていた髪がゆっくり止まった。「相変わらずツレナイねぇ、少年は」と肩を竦めて振り返る男の声も喋り方も、アレンがよく知る浮浪児の粗野なものに戻っていた。
「せっかく助けてやったってのに。助け甲斐のねぇヤツ」
「助けてほしいなんてひと言も云ってません」
「だが助けなかったらお前、あの場で人に話せねぇような目に遭ってたぞ?」
「……その前に逃げ出します」
「ふ、どうだか」
慥かに連中は、強かに酒に酔っていた。響く下品な笑いもまとわりつく下卑た視線もアレンには覚えのあるもので、決して気分の好いものではない。蓋をした筈の記憶が呼び起こされ、腹の奥底深くからこの身を震わせた。彼らが手を出すのが早いか、それとも自分がこの手を血に汚すのが早いかの瀬戸際にあったことは疑いようのない事実であり、ティキはそれを見抜いた上で、憐れむような視線を投げて寄越した。
「……貴方には関係ありません」
精一杯の悪態のなんと力ないことか。誰もいない路地を冬のからっ風が吹き抜け、瞬く間に声を攫っていく。「関係ないことはねぇだろ」と、ティキの語調が少しだけ強まった。
「オレはお前に一度負けてんだ。そのお前がイカサマで負けてたらオレの立つ瀬がねぇだろ」
不機嫌そうに口を尖らせるその表情は、先程の酒場での名演技をすっかり霞ませていた。
ああ、ここにいるのは自分の知るティキ・ミックだ。
アレンは無意識に安堵し、「なんだよ、それ」と苦笑した。
「……宿まで送る。こっちでいいんだよな」
「別にいいですよ。一人で戻れます」
「この街の夜の路地裏は迷路だぞ? お前、無事辿り着けんの?」
「ぅ、」
ぐうの音も出なかった。
方向音痴は自覚している。既に宿への道を失念しかけていたくらいで、戻れる自信は慥かにない。
なぜ今日のアレンの宿泊処をティキが知っているのか、などというのは愚問だろう。思考を読む魔眼の〈ノア〉とともに行動しているのを、この逃亡生活の中で何度か見かけた。特に何か仕掛けてくるわけではないので放置していたが、今回はそれに、二重の意味で助けられた形だ。「ありがとうございます」と、アレンはくぐもった声で礼を云った。
「オレもシェリルの名を勝手に騙ったってことが暴露たらちょっと厄介なんだ。お互い、今日のことはなかったこととして水に流そうぜ」
「勝手に、とは云っても無関係ではないでしょう。知ってますよ。シェリル・キャメロットが〈ノア〉だってことくらい」
歩き出したティキは、懐から煙草を取り出すと無造作に咥え、燐寸の火を先端に灯した。後ろを歩くアレンは風下にいたため、直に煙害を受けてしまった。不本意だったが、煙を避けるため咳き込みながらティキの隣に並んだ。
「そ。ただ彼奴、ロードをべったべたに溺愛してるからさ。ロードが少年を気に入ってるのが心底気に食わないんだ」
めちゃくちゃ嫌われてるぞ、お前。
何が楽しいのか口角を上げて報告する。
アレンからすれば、北米支部で初めて〈ノア〉としての名と顔を知った、殆ど接点のない男だ。人間社会での肩書については最早雲の上の存在。手を伸ばすべくもない相手である。そんな人物に嫌われているからといって、どうということもない。否、仲間を傷付けたという意味では恨んですらいる。
「で、なんで少年は今日に限って傲っちゃったわけ?」
革靴が石畳を規則的に叩く音が夜の闇を迷いなく裂いていく。彼の確信を突く真っ直ぐな問いは、その音と同じくらい鋭かった。
「……別に。傲った心算はありませんよ」
「実際お前は負けただろ。酒に酔ってふらっふらのやつ相手に。自分の力を過信した結果だ。相手は本物のイカサマ野郎で、あそこにいた連中は全員、お前がイカサマをしていることを知っていた。随分やりにくかったんじゃねぇの」
アレンは押し黙った。
慥かにティキの云う通りだった。
普段は何気ない会話の流れで場を操作し、些細な仕種や目の動きで相手のカードを予測しながら立ち回れるのに、今日はそれが難しかった。振り返ってみれば、今日ほど観客が煩わしいと思ったこともない。「この子どもはイカサマしている」という前提のもとで彼らは勝負を見ていたのだから、ある意味では当然の結果だったのだろう。
酔っぱらいに負けるわけがないと、高を括ってしまったばかりに。
「はァ……やっぱり同じ街でそう何度もやるもんじゃないな。昔師匠と旅をしてたときにも似たようなことはあったけど、そのときは勝てたからまだよかった」
「とある街じゃお前、マフィアに目を付けられてるらしいじゃねぇか」
「ゲ、そうなんですか?」
カード遊戯は好きだ。最初は動かない左手を動かすための訓練として始めたお遊びで、いつからか金子を得るための手段となっていったが、カードを通じて様々な人と出会い、カードを通じてその人の内面を知ることができるのは純粋におもしろかった。自分の中の世界が一緒に広がっていくような気がしたのだ。それは、紛れもない事実である。
そういえば、ティキ・ミックとの出会いもカードだった。
「僕からも一つ質問いいですか」
アレンが口を開いたのは、宿まであと少しというところまで来たときだった。「オレに答えられることなら何でもどうぞ」と気の抜けた調子で応えたティキは、そのままぷかり、と輪っか状の煙を夜の冷えた空気に溶かす。
「――なぜ、貴方は僕を助けるんですか」
先程からずっと気になっていたことだ。
一度目は教団本部の地下牢だった。あのときはアポクリフォスが姿を現したことが主な要因だったが、彼らが来なければまず間違いなく、今の自分は存在しなかった。しかもその後の道を指し示したのは他でもない、目の前のこの男。――そして二度目の今日。
「相手はただの人間で、アポクリフォスじゃない。本来ならティキ(ノア)が僕に手を貸す理由も利点もない筈なんだ。なのに貴方はわざわざ店に来た。どうせ、僕が勝負するところもどこからか見ていたんでしょう」
なぜですか、とさらに畳み掛け、隣を見上げた。
「……ティキ?」
アレンが目にしたのは、質問の内容に目を丸くして固まる呆けた顔。せっかくの美丈夫が台無しだ。ぽろり、と咥えていた煙草が石畳に虚しく転がった。
「え、何。そこから? そういう感じなの? 少年。オレ、けっこー分かりやすくアピールしてた心算なんだけど」
流石にそれはちょっと傷付くわー、と間延びした声で顔を覆ったティキだったが、アレンは未だに意図を掴みかねていた。まるで莫迦にされたような気がしてムッと口を尖らせる。
「分かり難いというより、云ってることもやってることもいちいち胡散臭すぎて真に受けてらんないんですよ、貴方の場合」
「……はは、そりゃどーも」
とうとう項垂れてしまった。
こぢんまりとした宿の目の前。外出している宿泊客が戻ってくるのを待ち侘びるように、建物の一階からは橙色の暖かな光が静かに店先の路地を照らしていた。
アレンはずっとかけられたままだった黒外套を肩からするりと落とした。温かかったそれが一枚なくなるだけで、寒風が骨身に染みる。ということは、外套を貸し出してしまっていた青年はどれだけ寒かったことだろう。〈ノア〉の強靭な肉体であれば、そんなのは瑣末事にすぎないのだろうか。「これ、ありがとうございました」と、外套を差し出しながら不意にそんなことを思う。
「あ? ああ」
外套を受け取る手は手套で覆われているため、その冷たさも温かさも窺い知ることはできなかった。
「――なぁ、少年」
助けてくれる明確な理由についてはこのまま待っても教えてくれないのだろう。――そう判断したアレンが「それじゃあ」と背を向けかけたとき、青年の呼び止める声が後ろから追いかけてきた。
「まだ何か、――」
振り返るべきではなかった。
そう後悔したのは随分後になってからだ。それこそ、一人で冷えきった宿の部屋に戻り、今日の出来事を振り返ってから。
すっかり嗅ぎ慣れてしまった煙草の匂いが鼻先を掠め、柔らかく温かい、けれど少しばかりかさついた感触がいつまでも口許に残り続けている。
離れ際に触れ合う吐息の感覚。何をされたのかは明白だが、脳が事実として認識することを拒んでいた。
「……ここまでやれば然しものお前でも認めざるをえないだろ」
「ッ、は?」
「一つ答え合わせしておくとすれば、」
瞬きをしても目の前の男は消えてなくならない。覗き込んでくる金色の瞳は宿の灯りに照らされていて、きらきらと妖しく輝くそのさらに奥には、事態を処理しきれず呆然と瞠目したままの少年が一人、囚われている。「オレは自分のおもちゃを他人に汚されるのが嫌いなんだよ」
それだけを云うとティキは満足した様子で笑みを深め、屈めていた上体を起こした。アレンの頭をぽんぽんと数度軽く叩くと、まるでそれが魔法を解く合図ででもあったかのように、全身から力が抜けていく。
「な、にを」
急に何するんだとか、人をおもちゃ扱いするなとか、云いたいことは山程あった。しかしどれも言葉にはならず、口を開閉させるばかりのアレンを見たティキは「コイみてぇだな」と子どもっぽく笑った。
「またな、少年」
ひらひらと手を振り、今度こそ暗闇に立ち去るその背中。それを見送るアレンの顔は、人類の母が楽園で最初に食べた果実のように赤く熟れきったものになっていた。
(了)