学園を四方向に割った南地区には本科生のための寄宿舎がある。男子棟と女子棟に分けられていて、夜時間中の互いの建物の行き来は原則禁止。つまり夜十時以降、男子が女子棟に入ることはできないし、女子は男子棟に入ることができない。学園内での恋愛が禁止されているのではなく、不純異性交遊をできるだけなくそうという、学園の威信をかけた決まりごとだった。
しかしそれ以外の規則は非常に緩く、夜時間前はそれぞれの棟を行き来することができる。建物のフロアは学年によって分けられているが、下級生が上級生のいる階に行ってはいけないというような決まりも特にない。だから七十八期生の、しかも男子である苗木誠が、同じ男子棟の七十七期生の部屋が集まる階を歩いていたところで、誰も見咎めることはないのだ。
時刻は午後の五時を少し回ったところだった。早い人は食堂で夕食を摂っているだろう。そのせいかどのフロアも普段より人の行き来が見られたが、苗木は迷わず目的の部屋に向かった。途中、知り合って間もない左右田に声をかけられ言葉を交わしたが、目的の部屋が近付くにつれ不思議と人の気配がしなくなっていった。
(留守、かな)
扉の前に立ち、持ってきたショルダーバッグをよいしょと持ち直す。中には教科書とノートが詰め込まれている。今日出された課題は、苗木がちょうど苦手とする範囲だった。
プレートを見て部屋に間違いがないことを確認し、苗木はインターホンを押した。普段ならすぐに出てくるところなのだが、なかなか返事がなかったのでもう一度押してみた。これで反応がなければ帰ろう。そう思って待ってみると、中から「はい」と、やや不機嫌そうな声が返ってきた。
「あ、苗木です。用事があって来たんだけど……」
今いいかな、と問うてから、再度返答があるまでやはり時間がかかった。「苗木クン!?」という大袈裟なまでに驚きに満ちた声が返ってきて、「ちょちょちょっと待って!」と言ったかと思えば、ドタンバタンと激しい音が中から響いてきた。まるで漫画のような展開だ。パリンッ、と明らかに何かを割ったような音がして、「大丈夫なの!?」と思わず口をついて叫びそうになったところで、漸く扉が開かれた。
「お待たせ」
普段のTシャツ姿で出てきた狛枝凪斗は、にっこりと爽やかすぎる笑みを貼り付けて出迎えてくれた。けれどその背後から、慌てて片付けたのであろう本が数冊バタバタと落ちてくる音が続けざまに響く。二人はそちらを見やったあとすぐ顔を見合わせ、「ぷッ」と揃って、それこそ漫画のように吹き出してしまった。
「もしかして寝てるとこ起こしちゃったかな」
部屋に招き入れてもらったあと、苗木は結局部屋の片付けを手伝うことになった。掃除が好きと自ら言うだけあって元々の部屋は綺麗なのだが、本棚に詰め込まれた大量の本は明らかに許容量を越えてしまっていて、そこに慌てて更なる量の本を詰め込んでいたものだから、ほんの少しの整理を要した。棚に置かれた用途不明のオブジェも、先程の慌ただしさのせいで倒れてしまっている。そこに置いてあったらしい硝子の破片が床に無残にも散らばっていて、案の定というか片付けの途中に狛枝はそれを踏んでしまった。足裏がぱっくりと割れ、緋色の鮮血が絨毯に丸い染みを作った。
「少しね。でもボクみたいなごみ虫の部屋を苗木クンの方からわざわざ訪ねて来てくれるなんてこれ以上の幸運はないよ。寝起きに硝子を踏むくらいの不運は甘んじて受け入れなくちゃね」
「そんなの甘んじなくていいからちゃんと消毒して!」
片付けの手を止め急いで消毒をする。ベッドに座らせ両膝をつき、片足を持ち上げて傷の具合を確かめていると、「これはこれでいいね」と恍惚りとした表情で狛枝は言った。意味が分からない。苗木はその言葉を聞き流すことにし、慣れない手付きで足に包帯を巻いていった。
(そういえば、あのとき手当てしたのもボクだったんだっけ……)
最初はまったく接点のない二人だった。
「超高校級の幸運」は毎年一人が抽選で選ばれるため、お互い名前くらいは聞いたことがある、程度の認識だった。もちろん見たこともなければ言葉を交わしたこともない。自分以外にどんな人が「幸運」に選ばれるのか気になったことはあるけれど、わざわざ物見遊山に出かけるほどでもなかった。
その「超高校級の幸運」と初めて出会ったのは、ひと気のなくなった夜時間直前の中庭だった。しかも最悪なことに、暴行現場という日常とはあまりにかけ離れた展開の中での邂逅だ。自分の「幸運」を真っ先に疑った。
ちょうどその日は学園祭の準備で夜遅くまで校舎に残っていて、終わったのが九時を過ぎたあたりだった。夜時間は中庭が閉鎖されてしまうから、寄宿舎までの近道を使うためにも急いでそこを通る必要があったのだ。
やけに凝った電飾がぽつぽつと灯り、暗い中庭をぼんやりと照らす。おかげで視界に困ることはないのだが、人の気配のまるで感じられない空間に灯る橙色の光はどことなく不気味だった。何か見てはいけないものを見てしまいそうな気がして、ただ無心に寄宿舎を目指した。
そこにふと、何か言い争うような声が聞こえてきた。
「――が、……で」
それは複数の声で、時おり何かを打つような鈍い音も聞こえた。
関わるな、というもう一人の自分の声を聞いた気がした。関わったってろくなことにならない。分かっていたはずなのに、もしそこに怪我人でもいたら寝覚めが悪いとも思ってしまった。苗木はおそるおそる声のする方に近付いた。そして茂みの向こうに黒い人影を三つ、視認した。
「大体選ばれなきゃ俺たちと同じだったかもしれねぇんだろ」
「んのくせ俺らのこと見下しやがって」
「てかこんだけされてて幸運も何もなくね。まるっきりツイてないじゃんこんだけボコられちゃってさぁ」
どこのB級青春映画の悪役か、と聞きたくなるような場面だった。なんとも陳腐でありきたりな台詞回し。
(大和田クン辺りが見たら血管切れちゃいそう)
ひとりの人間を寄ってたかっていびってんじゃねぇ!! と、怒鳴り散らすクラスメイトのひとりが頭に浮かぶ。
確かに他校の学生が希望ヶ峰学園の生徒を妬むこともままあると聞く。
街の中で学園の生徒だと知られると、生徒たちは大抵、二種類の視線にさらされることになる。ひとつは羨望や憧憬。もうひとつは嫉妬。
しかし三つの影の着ている制服を見ると、学園の指定制服であることはすぐに知れた。
「まったく……だから予備学科の連中は程度が低いって言われるんだよ」
そのときだ。第四の声がその場に響いた。
「なんだとテメェ!」
「だってそうだろう? ボクひとり締め上げたってキミたちがブランドに目を眩ませてやってきた予備学科生であることは代わりようのない事実なんだからさ。そんなキミたちは希望の踏み台にすらなれないっていうのに愚かにも学園に縋り付こうとしている。……まぁ、希望のための資金源という意味ではれっきとした踏み台かもしれないけどね」
(予備学科……?)
何のことだろうか、首を傾げながらその声の主を探していると、影の一人の足が動いた。力任せにその足が振り回される。「ガ……ッ」と声がして慌てて身を乗り出すと、茂みに隠れて見えなかった四人目の影が見えた。
「随分言ってくれるじゃねぇか」
「……ッ、少しは恥じたら? 才能もないくせに親の脛かじって行う行為としてはあまりに愚鈍すぎるんじゃないかな」
それとも予備学科は恥というものを知らないのかなと、手足を縄で拘束され、地面に転がされながらもその人は相手を挑発する。蹴られ、踏まれ、砂を掛けられ、陰険な暴力は続けられる。このままではいけない。
「警備員さん!」
苗木はおもむろに立ち上がり、明後日の方を見ながら手招きをして見せた。「こっちこっち!」という声に、三人はあからさまに狼狽えた。見付かってまずいのは彼らも十分理解しているらしい。「ヤバい、逃げるぞ!」と言って別の方向へと走って行ってしまった。残された二人のいる場所に、当然ながら警備員はやってこない。
「災難だったね」
はったりが成功したことにホッと胸を撫で下ろした苗木が足早に近付いてみると、相手は口許を血で汚し全身砂まみれになりながら横たわっていた。
「ありがとう、おかげで助かったよ」
縄は皮膚に食い込むほどきつく打たれていて、ちょっとやそっとじゃほどけそうもない。
「あ、ポケットにナイフが入ってるからそれで切ってくれるかな」
そんな苗木の戸惑いを見透かしたように、その人は制服の上に着たパーカーのポケットを身振りで指し示した。……なぜナイフを常備しているのかは、なんだか聞いてはいけないような気がして聞かなかった。
「ありがとう」
言われた通りポケットからナイフを取り出し慎重に縄を切っていくと、その人はにこりと笑った。先ほどの辛辣な言葉を投げかけていた人物と同一人物であると、俄かに思い難い変わりようだった。
「ボクは七十七期生の狛枝凪斗。“超高校級の幸運”と言われているんだ」
ふらつく彼の身体を支えながら自室へと案内する。見たところ怪我をしているようであったし、現場に居合わせてしまった身としては放っておくわけにもいかなかった。
部屋に着き、制服を脱がせてみると至るところに擦過傷や打撲痕があった。思わず眉をひそめてしまうくらい傷はひどい有り様だ。苗木はそんな私情を悟られないようにしながら救急箱を取り出した。
「ボクは苗木誠。七十八期生の、……キミと同じ“超高校級の幸運”だよ」
自己紹介を聞いてまず、この人が、という思いが先にたった。同じ「幸運」の生徒。毎年抽選で選ばれるラッキーチルドレン。
しかし苗木が名乗った途端、狛枝の表情はみるみる剣呑なものになっていった。傷口を見ていた苗木はその表情の変化を見ることはなかったが、「あーあ」という明らかに落胆した様子の声が耳につき、顔を上げざるを得なくなった。狛枝は、あからさますぎるほどつまらなそうな顔をしていた。
「希望に輝く学園の生徒に助けられるなんて死んでもいいくらいの幸運だって思ってたのに」
「……狛枝クン?」
「まさか同じ幸運に助けられてたなんてね。できれば初対面の人にこんなこと言いたくはないけど、幸運なんて予備学科よりマシなくらいのレベルでしかない。才能ですらないよ」
思わず面食らってしまった。
確かに幸運なんて他の才能に比べたら取るに足らないものだ。そもそも才能と言っていいのかどうかすら分からない。苗木も入学前から思っていたことだ。
でも。
「それは違うよ」
苗木は狛枝の、灰色掛かった双眸をじっと覗き込んだ。底知れない虚を抱えた空っぽの瞳に、どこか必死な自分の姿が映し出されている。
「確かに幸運なんて誰にでも当たる可能性のあるものだし、才能というには物足りないかもしれない。でもこうして“幸運”として当たってしまった以上、そこで与えられる役割は全うすべきだと思うんだ」
「……役割なんて、随分と大きく出たね。因みにどんな役割があるのかな」
「それは、まだ分からないけど……でもボクはボクにしかできないことがあるって信じてる。クラスの人たち、学園にいる人たち、そのみんなの中にいれば、悲観せず自分の役割を見付けられる気がするんだ」
言い切った苗木のことを狛枝はじっと見つめ、何か言いたげに口を開きかけたが、何も紡ぎ出すことはなく口を閉じ、やがて口端を持ち上げた。
「――ははッ、あははは」
そして突然笑いだした。座らされていた苗木のベッドに仰向けになり、笑い続ける。まるで壊れた人形のようだ。螺子を失ったぜんまい仕掛けの人形が、けたけたと笑い声を上げている。訳が分からない、と苗木は救急箱を持ったまま動きを止め、狛枝の様子を伺った。
「ボクなんかと同じに括ったりしてごめん。もう自分で首を締めて死にたいくらいだよ。こんな輝いてるのに今の今まで気付かなかったなんて」
「え……?」
「これが今日の不運に対する幸運だったのかな。単なる“幸運”かと思ったらまさかのどんでん返し。こんなに嬉しいことは久しくなかったよ」
どうやら苗木の反論が狛枝には有効だったらしい。以来、彼はすっかり苗木になついてしまい、「ボクなんかがキミに近付くなんて烏滸がましいにも程があるけど」なんて言いながらも近付くことを止めようとはしなかった。けど何をされるでもないし、その言動以外特に注意すべきところもないと、苗木も狛枝を邪険にするようなことはしなかった。クラスメイトのひとりである霧切響子などはあまり近付かない方がいいのではないかと、その整った相貌を僅かに歪めて見せたりしたけれど、こうして互いの部屋を行き来するくらいには仲良しなのだと、自負してもバチは当たらない気がした。
+ + +
さて。消毒、片付けの手伝い、ついでにゴミ捨てなんかも行って、漸く落ち着く頃には七時をとうに回ってしまっていた。ベッドに腰掛けている狛枝の足元に、ベッドに寄り掛かるようにして苗木は座った。だいぶ疲れていた。本来の目的である課題のこともすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだが、ふぅ、とひと息ついて天井を仰ぎ見たところで狛枝が腰を折って苗木の顔を覗き込んできた。
「手伝ってくれてありがとう。それで、遅くなったけど用事っていうのは?」
「あ」
そこで漸く思い出した。苗木は慌てて近くの座卓に置いたままの鞄から教科書を取り出し、実は……と、付箋を貼ったページを開いた。
「ここがさ、分からなくて……」
「宿題?」
「う、うん」
狛枝が、ふむ……と教科書を受け取り思案顔になった。途中、部屋に備え付けの勉強机に起きっぱなしにされていた銀色の眼鏡を引っ掛け、再び教科書に向き直った。
「あれ。狛枝クン、眼鏡なんかかけてたんだ」
初めて見た。そんな響きを持つその言葉に、狛枝は顔を上げることなく「まぁね」と応えた。
その眼鏡をかけた横顔が、一つ年上とは思えぬほど苗木の目には大人びて見えた。伏せた長い睫毛が覆う一対の双眸が、レンズを通して文字を追う。全体的に色素が薄く、髪も睫毛も儚げで透き通った印象を見る者に与える狛枝を、その無機質な装飾品が辛うじて現実に繋ぎとめているといったような具合だった。
「目、悪いんだね。なんか意外」
「中学生の頃までは普通にかけてたんだけど、一回レンズを割ってしまったんだよ。それが危うく眼球に刺さりそうになって、それからはあまりかけないようにしていたんだ」
正確には家の人が眼鏡をかけるなと言っただけなんだけどと、さもなんでもないことであるかのように彼は言った。苗木はあまりその話題に触れないようにしながら、ノートを出しつつ狛枝が口を開くのを待った。
「うーん、ボクなんかがキミに教えるなんて烏滸がましくて、それこそレンズの破片で失明してもいいくらいなんだけど」
「よくないよ。でないともう見てもらえなくなるじゃん」
教科書を指す雪のように白い指がピクッと震えた。パッと顔を上げて苗木に向けられた双眸が、レンズの奥で大きく瞠かれる。
「え、っと……それはどういう……?」
「え?……ッ!!」
戸惑いが、水面を滑る綾のようにゆらゆらと伝播していく。「ち、ちがッ、そういう意味じゃなくて……!」っと慌てた苗木の頬も、それを目の当たりにした狛枝の顔も、揃って耳まで真っ赤になってしまった。先に顔を背けたのは狛枝の方で、彼は口元を手で覆っていた。
「……どうしよう、苗木クンにそんなことを言ってもらえるなんて嬉しくてやっぱり死にそう」
「ぼ、ボクは恥ずかしくて死にそうだよ……」
もちろんそんな状態で宿題について教えてもらうなんていうことはできそうもなくて、二人は気まずい沈黙ののち、とりあえず夕食を食べに行こうかと食堂に向かうことにした。
+ + +
現実世界のジャバウォック島には胸躍るような遊園地も見るだけで警戒心が沸き起こる変な工場も軍事施設もなく、ただ彼らのために改築されたコテージと思わずはしゃぎまわりたくなる白い砂浜、どこまでも続く青い海があるばかりだった。廃墟を病院に改築したのは、眠ったままの十人を一つ所に集めた方が何かと効率がよかったからだ。苗木は脱いだスーツジャケットを腕に引っかけ、病院内をある部屋目指して歩いていた。
(懐かしいな)
まるで学園時代に彼の部屋に遊びに行ったときのようだと思った。笑うのは不謹慎かもしれないが、苗木は思い出に緩む頬を押さえることができなかった。
「失礼します」
部屋の前まで来たところでノックをひとつし、扉を開ける。中から「はぁい」とやや間延びした女性の声が返ってきて、完全に開いた扉の向こうに、点滴をセットしている罪木の姿を確認した。
「あ、苗木さん」
「もしかしてお邪魔だったかな?」
「いいいえ!今、ちょうど点滴を取り換えたところなんです。呼吸も安定してますし、もう大丈夫ですよぉ」
ふわりと微笑を浮かべて罪木は言った。
十人の内、早々に目を覚ましたのは彼女だった。あの修学旅行が現実ではないということに最後の最後に気付いたことが彼女の目覚めを早めたのだろうというのが霧切たちの見方だったが、それでも懸念は尽きなかった。
日向たちは、これはまさしく奇跡と呼べるものかもしれないが絶望に戻ることもなくゲーム内での記憶も引き継いでいた。だが事情が異なる罪木が果たしてどうなるかは、目覚めた当初まだ分からなかった。場合によってはかつて苗木たちが施された、松田夜助の記憶に関する研究を応用することも辞さない構えだった。現在は第十四支部が厳重に保管しているその研究は、今のところ出番を迎えずにいる。罪木も、特に問題なく生活に戻ることができているからだ。
「罪木さんしか診れる人がいないからだけど、働きづめで大変じゃない?今日はもう休んだ方がいいよ」
「ふゅう……日向さんにも同じこと言われました……小泉さんの点滴を替えたら最後なので、それが終わってから休ませてもらいますね」
「うん」
荷物を持って立ち去る罪木を見送り、ベッドの方へと向き直る。そこには酸素吸入器を付けられた、青白い顔の狛枝凪斗が滾々と眠りに就いていた。左腕はほとんど壊死してしまい、二の腕より下はない。呼吸の度に胸が上下するのを目にしなければ、到底生きている人間とは思えなかっただろう。静かすぎる病室。苗木はジャケットをハンガーに掛けようと、備え付けのクローゼットを開けた。
「あ」
そこには狛枝が愛用していたパーカーが掛けられていた。長いそれは苗木が着ると脹脛まで覆い隠してしまって不格好になる。狛枝がいくら撫で肩でも身長の違いはそのまま体格の違いを示していて、肩からずり落ちてとてもじゃないが着れたものではなかった。だが苗木は、自分のジャケットをハンガーに掛けた後、そのパーカーを手に取った。綺麗に洗濯され、元の持ち主に再び袖を通してもらうのを、今か今かと待ち詫ているようにも見えた。
「……」
苗木はおもむろにそのパーカーのポケットに手を突っ込んだ。以前はナイフが出てきたポケットだ。左側には何もない。では、と入れた右側に、固い感触が当たる。
「あった……」
取り出したそれは、銀色の眼鏡だった。
滅多にかけることはないが、生まれつき視力の弱い狛枝は常に眼鏡を持ち歩いていた。学園時代に聞いた通りで、苗木はそれを手に取るとパーカーを元の位置に戻した。ベッドの横にパイプ椅子を引っ張ってきて、そこに腰掛ける。狛枝はやはり起きない。
眼鏡のレンズをやや斜めにして、耳に掛けることなく目にひたりと当てる。くらくらした。物が歪んで見えるだけでなく、頭痛まで伴う。こんなに度が強かったのかと、普段の彼の、見えていた世界の不安定さが少し心配になった。
「……これ、借りるね」
眼鏡のつるを元の通り丁寧たたみ、眠り続ける狛枝の耳元でそっと呟く。
本当は何でもよかった。眼鏡ではなくパーカーでも、電子生徒手帳でも、彼の持ち物を、願掛け程度に持ち歩いていたかったのだ。いつか目を覚ましますようにと、皆が願う願いを、誰より強く。
「あれ。苗木、眼鏡なんかかけてたっけ」
仕事の最中に朝日奈が声をかけてきた。その手にはドーナツの有名チェーン店の箱が抱えられていた。一個は彼女の手の中で、さらに半分近くは食されている。パソコンから顔を上げた苗木は、「伊達だよ。度は入ってないんだ」と微笑を浮かべて答えた。
彼は、未だ起きない。
(了)