洋燈の灯りだけが頼りの暗い部屋。湿気の籠もった空気を、開いた扉から吹き込む寒風が攫っていく。顔を上げるのとほぼ同時に、「ただいま」という平坦な声が響いた。揺れる白い髪が、世間よりひと足早く雪を連れてきたかのようでもあった。
揃いの色を持つハムレットが素早い動きでその肩めがけて走っていく。しかしひくひくと鼻を幾度か鳴らし、ちぃ、と小さく甲高い声を上げると、再び元いた場所へと戻ってしまった。それを横目に、ネズミは読んでいた本をぱたりと閉じた。
「成長著しいな。ついこの間まで餓鬼にすら騙されてたのが嘘のような働きぶりだ」
言葉を向ける先には、同居人の紫苑が今しがたテーブルに置いた紙袋がある。隙間からは上等のパンが覗き、近付いて見てみると、パンだけでなく野菜も無事であることが窺えた。
イヌカシのところで働き始めた頃に一度お遣いを頼んだことがあったが、そのときは幼さを武器にした子どもにしてやられ、荷物を奪われてしまった。当時を思えば随分な成長ぶりである。「まぁね」と、紫苑は言葉少なに謙遜して見せた。
「いいことだ。――では、働き疲れの殿下のために、僭越ながらこのわたくしめが温かいスープをお作りしましょう」
「それ、僕が買ってきた野菜なんだけど」
「ふ。細かいことはいいんだよ」
紫苑の野菜を見る目は確かだ。この西ブロックでは新鮮な野菜を手に入れることなど不可能に近いが、それでも傷みが少ないところを的確に選んでくる。「母さんの手伝いでよく買い物に行ってたから」という言葉に、「あんたは主夫に向いてるよ」と返したのは果たしていつだったか。
「へぇ、干し肉まであるんだ」
袋の一番下には大事そうに紙に包まれた干し肉があった。「イヴ」の稼ぎでもそう滅多に買える代物ではない。「たまにはいいかと思って」と言いながら紫苑が背後を通っていったところで、ネズミは漸く違和感に気が付いた。
――酒の匂いだ。
ネズミはもともと鼻が利く方だった。悪臭や汚臭ばかりのこの土地で、匂いを嗅ぎ分けることは危険を回避する手段にもなりうる。ここでは五感が発達していることに越したことはなく、ネズミもまた、あらゆる感覚を研ぎ澄まして生きてきた。
紫苑が纏っている匂いはいつもの彼のものではなかった。ハムレットは肩に乗ったとき、逸早くそのことに気が付いたのだろう。随分懐いていた筈なのに早々に離れたのはそういうことだったのだ。
紫苑は相変わらずにこにこしている。純粋培養で頭の中は常春のお花畑。子どもにも簡単に騙されるくせに、変なところで頑固で芯を曲げることがない。「言わない」と決めたのであれば、その意思をやすやすと変えることはしないのだろう。いつもとなんら代わり映えしないその笑顔の下で、懸命に何かを隠そうとしている。類推するのは簡単だ。
「……隠し事はしないんじゃなかったのかよ」
小さく漏らしたつもりでも、二人きりの室内ではやたらと大きく響いてしまう。
紫苑は背中を向けたままぴくりと肩を揺らした。しかし、聞こえていただろうに何を返すでもなく、「先にお風呂使わせてもらうよ」とだけ言うに留める。それが妙に腹立たしかった。
ぐるん、と勢いよく振り返り、足音を荒立てて紫苑に近付く。狭い室内だ。距離はあっという間に縮まって、紫苑の逃げ場は瞬く間に塞がれた。部屋の奥に追い詰められた紫苑は寝台に足を取られ、「うわッ」と間抜けた声を発して尻もちをついた。その隙を逃さず襟首を掴み、上から睨むように見下ろす。
「あんたが言ったんだろうが。おれに隠し事はするなと」
「……何、言ってるか分からないんだけど」
「言いたくないならそう言えばいい。ここは掃き溜めの町だ。人に言えないようなことを抱えてる人間なんざごまんといる。あんたが“言えない”と一言言えば、おれだって深追いはしない」
早朝の刺すような空気にひりひりと痛んだ頬。あのとき確かに心が通い合い、誓いという名の約束が二人をつないだ。
「だが今のあんたのそれは俺に嘘をついたあのときのものと同じだ。俺を軽んじている。その見え透いた嘘で自分一人抱え込もうとしている」
掴んだ襯衣の隙間から、赤蛇が巻き付いているかのような痕がちらりと垣間見える。その縁の辺りにぽつぽつと咲く赤い花。何があったのかなど一目瞭然だ。紫苑もその視線に気付いたのか、観念したように肩から力を抜いた。温かな手が、襟首を掴む右手に重なった。
「あんたは嘘をつくのが下手だ。いい加減自覚しろ」
「痛いくらい分かってるよ、そんなこと」
ネズミが手を離すと、溜め息をついた紫苑は徐ろにセーターを脱ぎ、襯衣の釦に手をかけた。雑なストリップショーだ。いつもならそんな軽口を叩いただろうが、顕になった素肌にネズミは何も言えなかった。
「……誰にやられた」
栄養など行き渡らないその薄い躰には惨たらしい痕跡がいくつも残されている。元からある赤蛇とは明らかに異なる淫靡な縄痕。柔らかさの欠片もない胸元を中心に咲いた鬱血痕。震える二つの果実にいたっては痛々しく腫れている。「……たぶん、初めて市場に行ったときに会った〈片付け屋〉。仕返しをしたかったんだと思う」
紫苑はそれだけを言うと、再び襯衣の前を合わせた。
「仕事の後、買い物が終わってここに戻るときから誰かに尾けられてるような気はしてたんだ。奮発したから荷物を狙ってくる人がいてもおかしくない。そう思って、護衛としてついてきてくれてたイヌカシのところの犬に外套で包んだ荷物を持ち帰らせた。そうしたらやつらが出てきて、」
声を震わせ、腕を抱いて蹲る。見れば声だけでなく、全身が震えていた。
この町は無法者の溜まり場みたいなものだ。紫苑のように見た目が派手な者は特に狙われやすい。攫われて欲の捌け口にされることもあれば、内臓や頭髪を切り売りされることもある。どこからもたらされたのかも分からないような薬の類をあてがわれ、廃人と化してしまうことだって。
生きて帰って来られただけ儲けもの。本来であればそう言って笑い話に昇華できるところだが、西ブロックに来てまだ日が浅い紫苑にはそう思えるだけの胆力などない。怖かっただろう、ああよしよし、と。撫でて慰めることができたならまだよかったのかもしれないが、この世界が長いネズミには難しい話だった。
「……前みたいに抵抗はしなかったのか」
「したよ! でも人数が多すぎて手も足も出なかった。服を脱がされて、縛られて、この傷がいい見世物になるとか言われて」
誰もが自分に火の粉が降り注ぐのを恐れ、そうした現場を目撃しても助けることはおろか近付くことすらしない。そのことに、彼は一体どれほど失望しただろう。それが当たり前の環境なのだと受け入れられる日はもしかしたら一生来ないかもしれない。
懸命に事の顛末を話して聞かせた紫苑は疲れた様子でぐったりと項垂れた。ことがことなだけに、本来なら誰にも知られたくないことだっただろう。恐怖、羞恥、情けなさが、彼の身の裡から次々湧き出ているのが目に見えるようだった。
蒸しタオルを準備する間に、紫苑は多少落ち着きを取り戻した様子だった。上半身は非道い有様だが下半身は特に何かされたわけではないらしく、動きにぎこちなさはない。不幸中の幸いというやつだ。やっぱりあんたは運がいい、という言葉を舌の上で転がして呑み込み、持ってきたタオルを紫苑に向かって投げ渡した。
「鬱血したところは温めると消えやすくなるらしい。気になるところにあてておけ」
場末の娼婦から聞きかじった豆知識だ、と戯けて肩を竦めて見せれば、紫苑はじとりと目を細めながらもタオルを首筋に押し当てた。ぽつりと漏れた「あったかい」という言葉には多大な安堵が滲んでいる。
「それにしても、そんなことがあったなら余計隠し事になんかするなよ。あんまり怪しいから、おれはてっきりあんたがついに花を売り始めたのかと思ったんだぜ」
「花?」
隣に腰掛けて盛大な溜め息をつく。「花屋になろうにも花がない」と大真面目に返す紫苑を笑い飛ばしながら「娼婦のことだ」と教えてやれば、驚いたように目を丸くして固まってしまった。
「……君、大概失礼だよね」
「それこそ心外だ。逐一報告しろとは言わないが、どこの誰のものとも分からないキスマーク付けて何事もなかったように振る舞われたら疑いたくもなるだろ」
「ぅ、」
「しかも随分羽振りのいい買い物までしてこられたらな」
テーブルの上には大量の野菜とパン、干し肉が置かれたままになっている。二人の視線は図らずも同時にそちらを向いた。
「あれは、ネズミのために買ってきたんだ」
「おれの?」
「力河さんに聞いた。今上演中の舞台が次の公演で千秋楽だって。長く主演を務めたんだからお祝いくらいしないと、って思って」
「……」
大変な目に遭ったというのに、いつもの腑抜けた微笑を浮かべながら紫苑は言った。「あ、でも羽振りのいい買い物をしちゃったから犬を先に帰さないといけなくなった、ってことは、間接的にはネズミの所為ってことになるのかな」
「おいおい、とばっちりはよしてくれよ」
「冗談だよ」
紫苑の笑い声を背に立ち上がる。「スープができるまで少し時間かかるから、それまでゆっくり寝てな」
「え、でも」
「せっかく紫苑が躰張って買ってきてくれた野菜なんだ。少しでも傷みが進行しないうちにいただきたいだろ?」
「……誤解を招く言い方しないでくれないかな」
西ブロックで生きるということは、大なり小なりそうした危険と隣り合わせになるということだ。こればかりは慣れるしかない。しかし、身の危険に晒されて戦慄く紫苑の姿というのはネズミとしてもそう何度も見たいものではなかった。常にともにいられるわけではないからこそ、自分の身は自分で守れるようになってほしい。――それにしたって、その障壁を取り除く手伝いくらいならしてやってもいいと思えるのだから大概どうかしている。イヌカシあたりにでも知られれば向こう十年は笑い種として語り継がれてしまうだろう。
スープを煮込んでいる間にすっかり寝落ちてしまった紫苑に薄布をかけてやりながら、改めて自分の思考を自嘲する。瞼にかかっていた前髪を指先で払い、そこに唇を落とし、
「――落とし前はおれがつけといてやるよ」
らしくないことをしている自覚はあった。しかし、彼がここにいる僅かな間だけでも安心して過ごせるというのであれば易い仕事だ。
ネズミはスープを温めていた火を消すと超繊維布を身に纏い、衣嚢に小刀を仕込んで部屋を出た。入り口に控えていた護衛の犬が何も言わずについてくる。もしかしたら彼女もまた、紫苑を置いて帰ってきたことを後悔しているのかもしれない。よく訓練された茶褐色の体躯が頼もしい。
一人と一匹は灯り一つない夜の町を風のように駆け抜けていった。
(了)