「弓を引くときは全身を弓の中に入れるようなイメージで引くんだ。肩甲骨を開くことを意識して」
「はい!」
息をゆっくり吸いながら大三で動きを止めた遼平に、雅貴の一声がかかる。腕を組み、離れで妻手にぶつからない位置に立って狙いを見ると、矢先はしっかり的に向けられていた。「よし」と頷くのに合わせて遼平が矢を放つ。彼のキャラクターを具現化した豪快な弦音に追随し、風船が割れるときのような的音が小気味よく響いた。的張りしたばかりの新品の的だ。
「弓手に意識を向けるあまり、会のときに妻手が少し上がり気味だな。弓力で誤魔化せてはいるが、掃き矢の原因にもなるから注意しろよ」
「最後まで引ききれてないって感じかぁ」
言うなり遼平はその場で素引きをして、右肘の位置を確認した。
「初心者の頃はオレもよく掃いてたなぁ。遼平は中二の体育の時間だけだったわりにはうまいよね」
「え、そうかな」
「飲み込みは早い方だろう。あとはいかに多く矢数を熟すかだな」
「マサさん、次、オレの射形も見てよ」
遼平の後ろに立った七緒のご指名で、雅貴はそちらに身体を向けた。
オチで弓を引いていた湊の視界にその姿が入り込む。
以前幼馴染から、指導を受ける湊を見た海斗が妬心を顕にしていたという話を聞いたことがある。兄貴分に甘えたい年頃なのだろう、とは静弥の言だ。どういう経緯で知り合ったのかは知らないしそこまで踏み込むつもりもないけれど、その気持ちは分からないでもない。
湊の矢はまっすぐ飛び、的の正鵠を射抜いた。パンッ、と弾ける真新しい的紙。まだ引き分けの段階だった七緒から、雅貴の視線が一瞬だけ湊の方を向く。しかし残心を解いて弓倒しする頃には、視線は既に教え子の射形へと向けられていたので、視線同士が交わることはない。
雅貴と湊が知り合ったのはここ数カ月のことなので、海斗とは違い、付き合いそのものはそこまで長くはなかった。それでも、もうずっと前から知っているような気持ちになるのは、彼の弦音がいつか聞いた記憶の中のあの音と酷似していたからだろう。母との思い出とともに胸の内に凝り、ときに呪いとなってこの身を苛んだ音。
小学生の頃のように「弟子にしてくれ!」となりふり構わず口にすることはないものの、雅貴の「一番弟子」という自負は湊の中に少なからずあった。胸の内で存在を主張し始めている子どもじみた嫉妬心はほろ苦い記憶とともに押し込めて、普段通りに弓を引く。しかし矢は的の後ろ、九時ぴったりの位置に虚しい音を立てて刺さり、湊は苦虫を噛み潰したように渋面した。
日も暮れて、東の空は紺碧の絵の具をこぼしたように、橙色とも濃桃色ともつかない西日の残滓を覆い始めていた。最後に男子は五人立ち、女子は三人立ちで競射をし、一日が終わる。夏至に向けて日がどんどん長くなっていく時季なので、その分練習時間も長くなっているのは熱心な弓道部員たちにとってうれしいことにほかならなかった。
「今日も行くの?」
遼平たちと別れてすぐだった。自転車を手押しする湊を横目に、静弥が口を開いた。「ん?」と隣を見ると、レンズの奥で胡乱に細めた双眸と視線がぶつかる。そこには名状しがたいものが燻っているようだったが、それが何か、湊には分からなかった。
「滝川さんのところ」
「……まぁ、な。あそこなら弓引けるし」
「夕食も持っていってるそうだね」
「ッ……! だ、だれから」
「親父さん。この前、朝の散歩から帰ってきたらちょうど出勤するところに出くわしたんだ。そこで聞いた」
「あ、そ……」
まさか父から情報が漏れるとは思っていなかった。
静弥の言う通り、雅貴のところに行くときは大抵夕食を持って出かけることが多かった。弓道場がある神社が実家なので食べていくこともあるそうだが、基本的には男の一人暮らし。「作ってこようか?」という何気ない申し出を雅貴は手放しで喜んだ。稽古代みたいなものだ。初めて持っていったときはなんと射場で風呂敷を広げて食し、「湊はいいお嫁さんになれるぞ」とあまりうれしくない言葉を頂戴したりもした。
言わなくてもいいのに、とくちびるを尖らせる湊の横で、幼馴染はふっと肩の力を抜いて眼鏡を取り、ポケットに入れたハンカチでレンズを拭った。
「心配かけたらダメだよ。夜遊びは非行の始まりだから」
「分かってる……てか夜遊びじゃねぇし」
静弥の家の前まで来ると、匂いを嗅ぎ分けたのか声で認識したのか、生け垣の隙間からクマがひょっこり顔を出して一声鳴いた。よく手入れをされた毛並みは相変わらずふわふわで、ずっと触っていたくなる。しかし幼馴染の手前、それはぐっと我慢する。
また明日、と声をかけ合い家の鍵を開ける。父は今日も遅く、部屋は当然真っ暗。玄関、廊下、居間、キッチンと通った順に電気を点け、荷物を置きにいったん自室に入る。夕食はいらない、と事前に連絡があったが、自分の分と明日の弁当用の作り置きをしなければならないので湊はさっそくキッチンに戻った。
「ハンバーグでいっか」
(玉ねぎ多めに入れてやろ)
ざわついてしょうがなかった心も今はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
競射での湊の成績は四射二中。そのときはまだ、メンタルが引っ張られていたという自覚はある。それもこれもマサさんのせいだ、と、本人が聞いたら思わず「なぜ」と首を傾げてしまうような理不尽は胸の内に巣食ったままだ。
できたてのハンバーグを冷ましている間に大根をすりおろし、水分を切ってから、小さめのタッパーに移す。初めからハンバーグに載せてしまうと、大根おろしの水分を吸ってしまいせっかくの焼き具合が台無しになってしまうからだ。あとはメインのハンバーグと里芋の煮物をそれぞれ別のタッパーに詰め、いただきものの野沢菜の漬物を袋に小分けしたら完成。すぐに着替えて支度をし、家を出る。
初夏とはいえ、夜はまだまだ涼しい。車通りの少ない道を自転車で駆け抜け、夜多神社の鳥居の前の邪魔にならないところに停めて階段を駆け上がる。拝殿横を通り過ぎた辺りでパンッ、という清々しい的音が聞こえた。
「マサさん」
「よぉ、来たか」
玄関から見えた雅貴はちょうど弓を引き終え、矢取りに向かおうと弽を外しているところだった。「おれが行ってくるよ」と玄関口に荷物を置き、看的所を回って的に刺さった六本の矢を丁寧に抜き取る。
「サンキューな、湊」
湊が鏃を拭き、接目についた土を細かく取り除いて矢箱に戻す傍ら、雅貴は弟子が持ってきていた荷物の中身を物色していた。正確には、荷物の中でも特に倒れないよう別分けされた、タッパーを包む風呂敷を入れた紙袋だ。
「また勝手に」
「腹ペコなんだ、別にいいだろ?」
本来なら射場での飲食は禁止されている。しかしそこら辺は結構自由なもので、缶コーヒーを飲んだりおやきを食べたりしている。
「みぞれハンバーグか。いいね」と目を輝かせる雅貴を横目に弓を張り、矢筒から矢を箱に移す。
「玉ねぎいっぱい刻んで入れておいたからおいしいと思うよ」
それまでうれしそうだった男の動きがぴたりと止まった。オニオンスライスが苦手だと言っていたことがあったが、やはり玉ねぎそのものがあまり得意ではないらしい。夜天を閉じ込めたような双眸を眇め、恨みがましそうに湊を射抜く。蛍光灯の下にあってもその深い色は変わらず、子どものように不機嫌になる様子に少年はたまらずしたり顔になった。好き嫌いをする方が悪いのだ。
「今日は時間なくておにぎりは作ってきてないから、帰ったら米ぐらい炊きなよ」
「了解。まぁ、この内容なら酒だけでも十分だけどな」
「……ビール腹になっても知らないからな」
それは嫌だな、とからからと笑う。
缶コーヒーで軽く漬物をつついた後はやっとで指導の時間だ。更衣室に荷物を置き、手早く袴を身に着け的前に立つと、雅貴はさっそく後ろに立った。特に何も言わず、腕を組んで、取りかける湊をじっと見詰めている。
「大三のときに時々妻手が曲がっているな。まだ痛むんじゃないか?」
「痛みはもうないよ」
「ならいいが……弽の下部分が手首の方に触れるように意識するといい」
「分かった」
大三の途中、雅貴の手が、妻手が美しく見える形になるよう優しく整える。
息を吐きながらゆっくりと引き分ける。シャフトが頬に付く前に離れてしまっていたのも今は遠い昔。ひんやりと冷たく、かと思えば瞬間で体温を移す。会はまだまだ伸びる。ゴルゴダに立つ十字架のように、あるいは、ウィトルウィウスの人体図のように。全身で、美しい十文字を体現する。
的中を極め、射の美しさを求める弓道は、武道であると同時に射手やその空間を巻き込む芸術のようなものでもある。完成された射は、一枚の絵画を前にしたときのように恍惚とした感情を心の奥底から呼び起こす。
ぴん、と張り詰めた空気は緊張とは異なる類いの静謐さを纏い、息を呑む音さえ憚られる。その独特の空気感が好きだった。
離れに向けて会が完成しようとしたそのとき、不意に腰に何かが触れた。驚いて離れのタイミングがずれる。弦音は鈍く、びりびりとした何かが腰骨から脊椎を通って頭の天辺まで駆け巡り、その得体のしれないものに肌が粟立った。矢は的上の垜にさくりと突き刺さっていた。
「いッ…………マサさん!!」
「悪い悪い。へそが曲がってたからつい」
腰に触れたのは雅貴の手だった。
いくら指導者とはいえ、射手が会に入ったら触るのはご法度だ。間違って離れて矢が暴発すれば、射手も指導者も危険だからである。振り返って咎める湊に、しかし雅貴は悪びれた様子もない。
「危ないって分かっててなんで触るんだよ」
「だから悪かったって……ああ、すまない。頬を打ってしまったか」
大きな手が湊の右頬に触れた。その温かさに絆されそうになるのをぐっと堪えて睨むが、上背のある雅貴には子犬に威嚇されるようなものでしかない。怒りが不毛であることに気付いた湊は深く、深く息を吐き出してその怒りを無理やり押し込めた。
「っていうか普通”身体が曲がってる”って言わない?」
「そういえばそうだな。……だが、へそを曲げていたのも事実だろう」
「?」
弦で打って赤くなった頬をなおも親指でなぞる。「部活中」と、揶揄するような、それでいて慈しむような。
そんな視線と優しい手付きにいたたまれず、本弭を足の甲で支え軽く体重をかけながら矢道に視線を向ける。明るい射場に対し、普段は緑あふれる矢道も今は闇に沈んでいた。
「俺の愛弟子は嫉妬深くて困る」
「……それ、おれのこと?」
「ほかに誰がいる」
頬を撫でていた雅貴の手は弓を握る手を掴み、採点簿が置かれた小卓の前へと誘導する。採点簿は雅貴自身のものと、この弓道場で稽古をする社会人サークルのものが二種類。雅貴のそれは○×も矢所も書かれず、「正」だけがただ整然と並んでいる。
弓を置き、小卓の前に座らされた湊がそれを横目に見ている間に、雅貴は救急箱の中から取り出した湿布を小さく切り整え、赤くなった頬にぺたりと貼った。そして剥がれないよう、その上からさらにテーピングをする。まるで喧嘩の後かなにかのようだ。
「構ってほしそうにしてただろ、昼間」
「してないよ。子どもじゃあるまいし」
「俺たちの方をちらちら見てたじゃないか。七緒に指導しているとき、身体が正面を向いていなかったのは俺たちの方を見ないようにするためなんじゃないか?」
「……」
バレていたことに肩を落とす。
むっすと頬を膨らませる姿は、雅貴に「お子ちゃま」と揶揄われても仕方のないものだった。
「この時間に俺の特別レッスンを受けられるのはお前だけだから安心しろ」
「特別レッスンって……」
「なんだ、不満か?」
「不満っていうか……なんか胡散臭い」
「ひどいなぁ、湊は」
よし、終わり。――救急箱を片付けた雅貴が、どっこいしょと立ち上がる。じじくさい、と笑えば容赦ないデコピンが襲った。
「ま、キズモノにした責任はとるさ」
「キズモノ?」
顔打ちのことだろうか、と不思議そうに瞬く若葉色の双眸。それを見た雅貴は自嘲気味に微笑うが、言葉の真意は伝わらない。――事実であり、方便でもあるその行動の本当の理由も。
「――さて、続きだ。まだ一射しか引いてないないからな」
「誰のせいだよ」
はぐらかされたなど露ほども思わない少年は、弽を着け直し、的前に戻った。
矢を番え、物見をする、心も身体も未成熟な愛弟子。
「…………俺も、まだまだだな」
その姿を見詰める雅貴の口からこぼれ落ちた溜め息にも似た言葉は射手に届かず、すっと背筋が伸びる小気味良い的音に呆気なくかき消されてしまうのだった。
(了)