君はいつでも残酷で

 座卓に置かれた湯呑みから、緑茶の持つ馥郁とした香りが湯気とともに立ち昇る。手のひら大の羊羹が載せられた白磁の銘々皿は菊の花を模しており、シンプルながらも高価な品を思わせた。が、そこに置かれているのは和菓子用の楊枝ではなく、洋菓子でお馴染みのシルバーフォーク。桔梗の意匠が施された柄の先端を睨むように見詰めながら、少年はまるで借りてきた猫のように肩を窄めて座っていた。
「どうぞ、召し上がってください」
 まったく手が付けられる様子のない羊羹を指して、的場静司はにこりと微笑を浮かべて促した。「でないとそこの猫に食べられてしまいますよ?」
 少年の隣には、丸い、マシュマロのような猫が鎮座している。口の周りについた餡子を舐め取りながら、「よりにもよって的場の小僧に見付かるとはな」と悪態をついた。硝子玉のように不思議な虹彩を放つ少年の一対の瞳が、つとそちらに向けられる。
「では誰ならよかったのです? 藤原ご夫妻とか? ……ああ、名取なら何かいい手立てを講じてくれたかもしれませんね」
「いや、むしろあれは役に立つかどうかも怪しい」
 ひどい言われようだ、と的場はたまらず声を立てて笑った。
「そもそもなんでお前があんな河原にいたんだ。まさか夏目のことを尾けていたわけではあるまいな」
「誤解です。単に仕事の帰りだっただけですよ。懇意にしている家の方から直接依頼を受けてね」
「ご頭首が直々に出向くほどだったというわけか」
「そんな大それたものではありません。そこにいたと思しき妖は、まぁ確かに稀少なものではありましたが既に立ち去っていました。依頼主の方も妖に困っているというのは建前だったようですし」
「建前ェ?」
 猫は頓狂な声を上げた。「なんだそれは、小僧でも騙されることがあるのか」という声からは怪訝な響きが感じられる。
 当たり前だろう。建前とは、普段的場が相手を利用するときに使う常套手段なのだから、その的場が逆にふっかけられるとは思いもよらないはず。 「いくら私が頭首然としていても、年齢だけは覆すことができない。この歳になると方々から見合い話が増えるんです」
 妖に困っていると泣きついてきた依頼主も、話をしている間は常に傍らに年頃の娘を侍らせていた。現場だという蔵に案内されたときもそれは変わらず、「ぜひうちの娘を」と目論んでいるのは明白だった。
「……ふん、それで機嫌が悪かったというわけか」
 猫は胡乱げに双眸を眇めた。
 「ほう?」と小首を傾げる。
「不機嫌そうに見えましたか」
「ああ。こいつもビビりまくってたぞ」
 二人のやり取りをただ見ているだけだった少年は、自分のことを言われたのだと理解した途端に挙動不審になった。「え、あ、う」と意味を成さない単音を発しながら猫と的場を交互に見遣り、最後に的場に視線を留めると、膝の上で握った拳にきゅっと力を込めて、こくりと唾を飲み込みながらやっと白状した。
「あなたのことは、なんだか怖い人だと思って」
「そりゃあそうだろう。これまで散々な目に遭ってきたんだからな。恐怖が深層まで染み付いているのさ」
 取り付く島もないほど容赦のない言葉だった。混乱して記憶を一時的に失っているという少年――夏目貴志は、自分の中にある訳の分からない恐怖心に困惑している。「初めて会った人なのに」と、彼らしく申し訳なく思っているのかもしれない。
「それにしても、ツキヒグイですか」
「ああ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「ええ。一門の中にも、捜し出そうと躍起になったことがある者がいると聞いています」
 私は見たことがありませんが、と続ける。
 ツキヒグイ。
 名前の通り月日を――時を喰らう妖怪だ。生き物だけでなく、草花や、人間が作り出した道具の類までその守備範囲に入っており、その月日を喰う。つまりそれ自体を「新しくする」力を持っているという。若返りを図りたい老獪が血眼になって捜すのも無理からぬ話だ。老いとは、権力を持てば持つほど恐ろしく、忌むべきものとなる。人間は太古の昔から、不老不死を夢見てきた。
 ツキヒグイ自体力が強く、理性的な妖で、だからこそ式として従えればさぞかし有能な存在となるだろうことは想像に難くない。しかしこれまで多くの術師が捜そうと試み、そして失敗しているように、なかなか姿を現さないのが現実だ。的場も、資料でその存在を知っていただけにすぎない。そんな者と相見え、あまつ助けた礼をいただいてしまう夏目は、さすがとしか言いようがなかった。
「随分と頼りない用心棒ですね」
 くすりと笑うと、猫は「うるさいっ」と言ってそっぽを向いた。的場は視線を滑らせ、隣の少年にひたりと据えた。紅くきらめく隻眼の強い眼差しに、夏目の肩が小さく揺れる。
「夏目君」
「は、はい……っ」
 名前を呼ぶとぴしりと背筋を伸ばす。
 危険がないかどうか探るような眼差し。普段の警戒心剥き出しの瞳とよく似ているが、そこには子供らしい恐怖もしっかりと揺らいでいた。「そんなに怖がらないでください」と、的場はつとめて人好きのする微笑で語りかけた。
「何も取って食おうってわけじゃないんですから」
「え? あ、……ご、ごめんなさい」
 申し訳なさそうに俯く夏目は、小さな膝小僧の上で拳をきゅっと握る。肩からずり落ちそうになる高校生サイズのパーカーが、可哀想になるほどの不安に押しつぶされている少年の頼りなさに拍車をかけていた。
 的場は座卓に両肘をつき、組んだ両手の中央に顎を載せるようにしてから、
「単刀直入に言います」と前置きした。猫の右耳がぴくりと震えたのが横目に見えた。
「的場一門に入りませんか?」
「……え?」
 パッと顔を上げた夏目の双眸には確かな驚きが滲んでいた。
 まるで初めて聞いた言葉のように、意味を理解しかねている。東方の森で初めて打診したときも同じような表情をしたが、そのときはすぐに嫌悪を顕わにした。今は嫌悪はなく、むしろ戸惑いに揺れている。本当に何も覚えていないのかと、的場はぽつりと独りごちた。
「一時的とは言え記憶を失くしている今、君はおそらく自分以外の人間の中にも妖を視ることができる力を持った者がいることを知らないのでしょう。一門にはそういう人間がたくさんいます。君を異端児として見る者は、ここにはいない」
 的場の言葉にすぐさま「こらー!!」と静止がかかった。猫だ。
「こんな状況でよくもぬけぬけとそんなことが言えるな小僧、無神経にも程があるぞ」
 猫は短い前足で懸命に卓面をたしたしと叩く。しかし夏目の視線がそちらに向くことはなく、一心に的場を見詰めていた。「ほんとう?」とおそるおそる問いかける。「ええ」
「夏目、こんなやつの言うことなんか聞く必要はないぞ。こいつはお前の力を利用したいだけで、一門に入ればこき使われるのが関の山だ。大体お前は、」
 必死に止めようとする猫の言葉を遮って、「うちに来れば守ってやれる」と囁く。
「夏目君が望むなら、自分で自分の身を守る術も教えましょう。君なら将来有望な祓い屋になれるはずだ」
「はらいや……」
 オウム返しの子供に拒絶の意思は見られない。
 以前、同じ問いをしたときに彼は全力で的場を拒絶した。
 いい妖もいる。受け入れてくれる人たちに出会うこともできた。――そう言って人も妖怪も隔てなく守ろうとする少年の危うい優しさに、的場は静かに苛立ちを募らせたものだった。性格や性分というものもあるのだろうが、それらはいずれも、的場の理解の範疇にはなかったのだ。
 だからこそ、藤原家に引き取られるよりも前に彼と出会うことができていたら、容易く一門に引き入れることができただろうにと思うこともあった。詮ないことと分かっていても、願わずにはいられない。そして今、願っても決して叶うことのなかった状況が目の前にある。
 固く閉ざされた幼い夏目の心を開かせるには、彼を優しく受け入れてやる必要がある。同じように視える者として、「自分たちは同じなのだ」と。既に大人としての矜持が萌芽しつつある普段の夏目ではできなかったことも、年端もいかぬ子供には効果を発揮する。的場の提示した甘い言葉にも、既にぐらつきつつあった。
 籠絡まであと少し。いつまでもノーを叫んでいるのは、もはや猫だけだ。
「……冗談です」
「え?」
 だから、的場は手のひらを返した。
「一門に来てほしい気持ちに変わりはありません。しかしその猫の言うとおり、今この状況でする話でもない。そのくらいの分別はあるつもりです」
 呆気にとられたような、ある意味出鼻をくじかれたような形となった猫は、座卓に載せていた丸い手を自身の身体の下に戻し、香箱、もとい饅頭のように座り直した。「当たり前だ、阿呆」とまで言われて、苦笑を漏らす。
「とりあえずツキヒグイを捜すところからですね。そう遠くへも行ってないでしょうし、うちの者たちにも手伝わせましょう」
「一応礼は言う。だが、もしまたこいつに変なことを吹き込むようなことがあればそのときは私がお前を喰うからな。そのつもりでいろよ」
「相変わらずの嫌われようですね。そうならないよう善処します」
 的場は部屋の前で待機していた付き人に事の次第を説明し、車の用意を頼んだ。従順な若者二人は余計な口を挟むことなく言われた通りに行動する。「まるで木偶だな」と呟いた猫はすっくと立ち上がった。
「私も行こう。顔も分からんやつらだけ行かせてもしょうがないからな」
「それは助かりますね。では夏目君の世話は私が引き受けましょう」
 猫は気に食わない、と言いたげに一度的場を見た。しかしすぐに何か思い直したように息をつき、部屋を出て行く。その背中を見送るように襖の前まで出てきた的場は、残っていたもう一人の付き人に静かに耳打ちした。
「出掛けるときは七瀬を連れて行け」
 男は短く返事をし、小走りで屋敷の奥へと消えた。
 誰もいなくなったところで襖を閉め、室内に向き直る。猫がいなくなったせいか、夏目はそわそわと落ち着かない様子で身動ぎをした。
「安心してください。何もしませんから」
「……はい」
 まるで自分の存在を消そうとでもするかのように縮こまる。的場は肩を竦め、その横に膝をついた。ずっと握りっぱなしだった手をとり、そっと開かせてやる。
 夏目は怪訝に眉を顰めながら、自分の手を取る的場を凝視した。
「少し、散歩に付き合ってもらえませんか?」
「散歩……?」
「ええ」
 開いた手は椛のように小さく、しっとりと吸い付くような手触りをしていた。強く握りすぎたのか手のひらの真ん中辺りに三日月型の爪痕がくっきりと残ってしまっている。下から甲を支え、上からその爪痕を隠すように手を重ねると、夏目は戸惑いながらも緩く握り返してきた。


「ここは的場の別邸なんです」
 使いの者に子供用の下駄を持ってこさせた的場は、それを夏目に履かせて縁側から庭へと降り立った。
 一階は和、二階は洋の建築様式を取り入れて建てられた屋敷は明治から続く旧家のもので、例に漏れず大家十一家の中のひとつの持ち物だったものだ。普段はその家の末裔の人間が管理し、時折こうして訪れる頭首を出迎える。こじんまりとした屋敷のため会合などで使われることはほぼないのだが、その分静かで、的場は気に入っていた。
 丹念に手入れをされた日本式庭園はそこそこの広さを持っている。この季節はきれいに刈り込まれた植え込みに赤々と燃えるような躑躅が華やぎを添え、雪柳が可憐に枝垂れて情緒を誘う。背丈まで品よく整えられた松がいくつも植わって、庭園に奥行きと重厚感を醸し出している。萌黄の芝生を踏みしめる度、緑の香りがふわりと舞った。
「的場さんはえらい人、なんですか?」
 手を繋いだまま、横を歩く夏目が遠慮がちに言った。「お屋敷いっぱい持ってるって言うし、さっきの使用人とか……」と。
「一応、これでも頭首ですからね」
「若いのに?」
「若さなんて関係ないんです。強いか弱いか。ただそれだけ」
「ふぅん……」
 子供は決して口数は多くない。けれど沈黙を恐れるかのように言葉を探そうとする。自分の腰くらいまでの高さにある子供の旋毛を見ながら、的場はふっと薄く笑った。
「的場家には子供がいないのでなんだか新鮮ですね」
「的場さんは子供、好きなの?」
「……どうして?」
「だって、優しいから」
 思いがけない言葉にぴたりと足が止まった。
 赤銅色の隻眼が子供を捉える。
 一方、何かが反射して眩しそうに目を細めた夏目はやがて何かに気が付いたように「あ」と声を発し、的場の手からするりと抜けて前方へと小走りに駆けていった。
 フードが揺れている背中を追いかけてみると、そこにあったのは中庭の一角に広がる池だった。
 透明度の高い淡水の中で、悠々と泳ぐ錦鯉。尾鰭をくねらせ、陽の光を鱗で弾き返しながら、不規則に揺らめく。池の前で屈んでいた夏目の隣に立ち、懸命に鯉を目で追う彼の様子を眺めた。
「どこかで、」
 さくらんぼのようなくちびるを割り開き、小さく声が発せられる。「どこかで、赤い鯉がいる不思議な池を見たことがあるんです。それがどこなのかは分からないけど、天井に映る水面がきらきらして、とてもきれいで。その水面を持つ池は庭に確かにあるのに、それはおれにしか見えない」
「……」
「何にもないところに池があるなんて言って、変なやつだって思われるのが怖くてなかなか言葉が出てこなかった。――的場さんなら、あの池を見ることができるのかな」
 くるりと振り返り、夏目は問う。「おれだけじゃないんだよね?」
 的場には、夏目の気持ちを完全に理解することはできない。
 生まれたときから視える者たちの中で育った的場は、それが大半の人間には持ち得ない力であること、力を活かす術があること、力を持たぬ者とは天命が違うのだということを、幼少の頃から教えられてきた。自分の持つ力がその中でも飛び抜けているものであることを自覚してからは、いかに確実に、効率よくそれを発揮するかを学んだ。
 力が強いことで疎まれることもある。しかしそれは弱い者たちによる羨望と嫉妬によるもの。いわば負け犬の遠吠えでしかなかった。相手にするだけ無駄なやつら。結局は媚び諂うことしかできない。
 一方、夏目には力について教えてくれる者も、視える者と視えない者、人間と妖怪の境界について教示してくれる者もなかった。自分の身ひとつ守る術を知らない少年は、その強すぎる力を持て余しながら、親戚からも、学校という集団からも奇異の視線に晒されるしかなかった。視えるのに、そこにいるのに、誰にも理解してもらえない。
 その苦しさや辛さは、的場にとって想像でしか補うことができなかった。
「――ええ。ぜひ見てみたいですね、君が見たというその美しい池を」
 しかしそうして答えた的場の言葉に、幼い夏目は頬を染めながら、まさに花が咲いたように愛らしく笑った。
 それからしばらく、手を繋ぎながら芝生の上を歩いた。
 とりとめのないことをぽつりぽつりと話す少年は時折笑顔を見せるようになり、心を開いてくれているのだろうと感じられた。結界が張られたこの箱庭には妖が飛び込んでくるということもない。この穏やかな時間というのは、滅多に味わいえないだろう。
「さっきの、」
 そろそろ疲れただろうかと、先ほどの部屋に戻ろうとしたときだった。飛び石の上を子供らしくぴょんぴょん跳ねていた夏目は、最後の一歩を踏んだ後、少しして口を開いた。
「さっきの、一門にっていう話」
「……ああ、あれですか」
 こくん、と夏目は小さく頷く。
「さっきも言ったでしょう。今の君をどうこうすると、あの用心棒に食べられてしまいますから」
「でも的場さん、本気だって」
「ええ」
「それは、おれに同情したから?」
 さらりと風が流れた。
 的場の長い黒髪も、夏目の短い銀鼠色の髪も、葉擦れの音に誘われるように一方向に靡く。どこか大人びた、子供にはおよそ似つかわしくないその響きが、まるでもとの夏目貴志に戻ったかのように聞こえて。
 振り返ると、幼子のままの夏目が曇りのない眼差しで的場を見詰めていた。
「……いいえ。私は子供だからといって同情するようなことはしません」
「じゃあ、どうしておれなんかに構うんですか」
 碧の視線が真っ直ぐ的場を射抜く。揺るぎないそれは確かに見慣れたものだ。的場は溜め息をつき、「そうやって自分を卑下するのはやめなさい」と窘めながら、手を差し伸べた。わずかに逡巡した夏目がやがてその手を取ったことを確認し、再び歩き出す。
「あの猫が言っていたでしょう。君の力は、悔しいが私よりもはるかに強い。その力を正しく使えるようになれば、的場にとってかなりの利になる。――それだけのことです」
 この少年を手に入れることができれば、彼に付き従う妖たちをも手中に収めることができる。正しい力の使い方を覚えて術として昇華できるようになれば、祓い屋としての頭角を現すことにもなる。どちらにしても的場にとって都合がいい。
「的場さんが、おれを守るって言ったのは……?」
「襲い掛かってくる妖たちを追い払い、無理解な人間たちに囲まれて暮らす煩わしさから開放する、ということです」
「……じゃあ」
 まだ何か聞きたそうな様子だったが、言葉に力が入らなくなっていることに気付いた的場はふと足を止めて身体を屈めた。「夏目君?」と呼び掛けてみるが、ふわふわと掴みどころのない様子で佇む少年は今にも眠りそうに足元をもたつかせる。
「なんだろう、すごく、眠い……」
「……あの猫が問題を解決してくれたのかもしれませんね。部屋まで送りましょう」
 背中を支えながら、ひかがみに腕を回して横抱きにする。不安になるほどの軽さにつとめて明るい口調で「羽のように軽い」と揶揄うと、夏目はむっすとして「軽くない」と言って、首に腕を回して抱きついてきた。こんなことは二度とないかもしれない。
「……的場さん、」
「なんです?」
「おれ、同情じゃないって言ってもらえて、少しうれしかった。おれのこと、ひつようとしてくれてるんだなって、分かるから」
「……」
 うとうととした微睡みに抗うように発せられる言葉も、少しずつ空気に溶けて消えていく。呂律も回らず、何を言っているのかも理解していないのだろう。
「もしおれが元にもどったら、また誘ってもらえますか……? おれ、的場さんの役に……」
 やがて少年はゆっくりと、夢の世界へと落ちていった。
 的場は元の部屋に戻ると、そのまま中には入らず縁側に腰掛けた。
 座卓の上にあった緑茶と羊羹は既に片付けられていて、かわりに渇いた喉を潤すように冷えた麦茶が置かれていた。起きたときに彼が飲んでくれればいいけど、と思いながら、幼い子供の頭を膝の上に載せる。
 健やかな寝息に上下する胸。その僅かな振動で頬にかかった柔らかな銀糸のような髪を優しく払う。
「――まったく、君という人はどこまで残酷なんでしょうね」
 いとけない寝姿に相好を崩す。
 もしも誰かがその顔を目にしたならば、妖に取り憑かれたのではと騒ぎ立ててしまうだろうと思えるほど、その表情は柔らかく優しい。
 元に戻ってほしいような、戻ってほしくないような。
 そんな複雑な胸の内を誤魔化すように、的場は茜色に染まり始めた空を仰いだ。


* * *


――数時間前
「まったく、相変わらず気に食わんやつだな、あの的場って男は」
 和洋混合の屋敷に相応しいレンガ造りの塀の外側に、黒塗りの車が滑り出していく。その車の後部座席を我が物顔で占領していた猫が忌々しげに言った。まるで人間のようにその短い手足を組む姿を横目に、隣に座る七瀬は「それはこっちの台詞だよ」と呆れたように溜め息を漏らした。
「我々だって暇ではないんだ。厄介な仕事を押し付けられた身にもなれ」
「金なら払わんぞ。凶面のときに手伝ってやったのでチャラだ」
 なんて図々しいやつだ。七瀬は窓の縁に肩肘をつき、頬杖をしながら猫を見た。
 普段は黒目がちに視えるその瞳は、時折黄金色の獣の目を覗かせることがある。それは見た者に畏怖の念を抱かせる。的場と同じだ。右目を覆う呪符の下から、相手を探るように、品定めをするようにじっと見詰める。正体が見えないからこそ恐怖を感じさせることができるのだ。「それ」が何か分からないという恐怖は、もっと言うと見えないのに妖に煩わされる人々の憂いにも似ている。
「しっかし、分からん餓鬼だな。お前の主は」
「……どういうことだい」
 出し抜けの言葉に意味が分からぬと眉根を寄せる。「だってそうだろう。夏目を一門に引き入れるには絶好の機会だ。おそらくこんなチャンスは二度とない。やつもそれが分かってて夏目を口説こうとした」
 いったん言葉を切った猫は車の進行方向をじっと見詰めている。「――なのに返事を聞く前にすぐに言葉を撤回した」
 すっと細められる双眸。その黄金の輝きは、「解せない」と言いたげだ。
「今の夏目なら喜んで一門の敷居をまたいだだろう。的場の言葉を聞いていたあいつはそういう顔をしていた。餓鬼の頃の嫌な記憶ばかり残っているせいもあるだろうが、的場が止めなければ是と口にしていたはずだ」
 私の声など聞きもしない、と不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 七瀬はその現場を直接目にしたわけではなかったが、瞼の裏側には猫が言う光景が鮮明に映し出されるようだった。
 的場はおそらく本気だった。何も分からない清廉な子供を、今のうちに手に入れてしまおうと考えたに違いない。それをなぜ途中で改めたのか、猫は分からないのだという。
「そんなの、あの子供が頭首の欲するあの少年ではなかったからだろう」
「ん? どういう意味だそれは。あれは確かに夏目だぞ」
「そうではない。……ま、妖怪には理解できんかもしれんがね」
 的場家頭首のあの青年は、幼い頃から望むものは全て手に入れてきたタイプの人間だ。そして、手に入らないのなら無理矢理にでも屈服させてしまう。それができるほど強く冷淡で、そして周囲に畏怖を抱かせることができる。それは一種のカリスマとも言える。
 しかし本当に手に入れたいものはいつだって、手のひらから砂のように零れ落ちていくのだ。
 「的場」に生まれた者として、そしてその業を背負うものとして、彼に「個」というものは存在しないし、求められることもない。彼自身もそのことをしっかりと理解している。
 それでも彼は望んでしまったのだ。「的場」としてではなく、「的場静司」としてあの少年を。
「確かに今の坊やを一門に引き入れることは簡単だろうが、頭首はそれを望んでなんかいないよ。頭首は自分を拒絶したあの揺るぎない眼差しに惹かれているんだ」
「……ふん、じゃあ何か。あの男は自分に対する夏目の拒絶の意思を、力づくで捻じ伏せたい願望でもあるってか」
 どこまでも不愉快な男だな、と独りごちる猫に、またも「そうではない」と嘆息する。しかしそれこそ、妖風情には分かるまい。

「あの男が惚れたのが、自分を見詰める夏目のあの強い眼差しだった。――それだけのことなんだよ」



(了)

あとがき
pixivでこれまでにないほどたくさんの評価をいただけた思い出深い作品です。ツキヒグイの話は夏目の中でも特に好きなエピソードの一つなので、それを崩さず的場さんに出会わせるにはどうしたらいいか苦心した記憶があります。

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