いつの間にか、ある別邸の縁の下が猫の通り道になっていた。
的場静司がそのことに気が付いたのはもう随分と前のことだ。部屋で書面に目を通していると、妖ものとは異なる微かな物音をよく耳にするようになった。人も妖怪も入り乱れるこの屋敷で正確にその気配を捉えることは不可能だったが、それでも妖ではないと思えたのは禍々しい気を感じなかったからにほかならない。ある夜などは寝しなに何か生き物の声らしきものを聞いた。にいにいというか細
いその声は一つが聞こえるとさらに一つ二つと増えていき、混声合唱のように下から小さく響いてきた。調べてみて、漸くそれが猫だと分かった。
猫はいつもいるわけではなかったけれど、それでも頻繁に訪れているようであった。母猫と、子猫が三匹の家族のようで、屋敷を含むここら一帯の地域を縄張りとしている様子であった。
ほんの気まぐれに、魚のすり身を固めたものを手に載せて縁側に腰掛けてみた。青い空に、魚の鱗のような点々とした白い雲。吹く風にかさかさという乾いた音が混ざり始める。秋の深まりを感じさせる、赤と黄のコントラストが眩しい季節だった。
すり身の匂いにつられてまずは母猫が姿を現し、次いで子猫がぞろぞろと出てきた。みな毛の色は白に二種の薄い茶の模様で、野良のせいか毛艶はあまりよくないが、まあるい硝子玉の目は大きく、星を宿したかのようにきらきらと輝いていた。子猫の内の一匹は、まだ仄かにその瞳に青みを残している風であった。すり身の載った手に、初めはおそるおそる、やがて我先にと擦り寄って食べようと頭を押し付けてきた。身体が小さいからと侮ってはいけないのは猫も妖も同じらしく、四匹が押し合いへし合いすり身の争奪戦を手の上で繰り広げると、ぐいぐいと押されてとても耐えきれるものではなかった。
そんなことがあってか、猫は前より頻繁に屋敷に訪れるようになった。これまで屋敷の誰も猫のことを話題に出さなかったのに、そこかしこで猫の話を聞いた。猫が苦手な者などは猫避けをしようと頻りに訴えたが、的場はそれを許可しなかった。勝手に入って勝手に去っていく。入用な時だけ甘えてくる。そんな猫を縁側に座りながら膝に乗せて寛いでいると凪いだ海のように気持ちは落ち着き、つい、頬が緩んでしまうのだ。
ひと仕事を終えて屋敷に戻ってきた的場はこの日、自室へと向かう道すがら聞き慣れた高い声を聞いた。ふと足を止めて庭を見遣ると、縁の下に入っていく白い影を見た。それは細長く、すぐに猫の尻尾だと分かった。
ふっと笑む。
今日はわざわざ出向いたのにも関わらず大した妖怪でもなく、けれど依頼者が元祓い屋の、的場を快く思っていない人間であったため部下に任せるということもできず、苛々とした一日を過ごした。雑魚だからと部下に任せてしまえば、怠惰な頭首だと嘗められかねないのだ。呪われることに恐怖を抱きながら、それでもかつての仇敵を貶めようとする、醜く歪みきった人間の、なんと愚かなことか。
的場は足を庭に向け、縁側に片膝をついた。荒んだ心を敏感に感じ取ったかのように縁の下から出てくる猫たち。おそらく自分のことは「美味しいものをくれる人」くらいの認識でしかないだろう。それでも、役立たずな妖や愚かな人間よりはずっといい。
ふと、ある一人の少年のことを思い出す。
色素の薄い髪と肌。透き通るような繊細な風貌でありながらもその瞳に宿る意志は強く、彼の妖力と相俟って今も的場の心を捉えて離さない。
夏目貴志。
舌の上で、飴玉を転がすようにその名を転がしてみると、じんわりとその名が体中に沁み込んでくるようであった。
近くの沓脱石のところまできて腰掛けた的場の足元に、猫がやや距離を置きつつも近付いてきた。その様子を見ていると、ますますあの少年が思い出される。
妖と人との間で揺れ動く少年。彼の過去の境遇からも察せられるほど、どこか背伸びした物言いと配慮を見せる。一方で、時折垣間見せる幼さ。手伝う気になってくれたのかと思えば一門には入らないと啖呵を切って去っていく。近付いてきたかと思えばするりと抜けだしてしまう。そんなところなどはまさに猫そのものである。
一定の距離を保ちながらも一向に近付いてくる様子のない猫たちに、的場は手を差し出した。手を握るとその中に何かが入っていると思うのだろう。一匹の子猫が無警戒に近付いて、一生懸命匂いを嗅ごうとしてきた。手を開いてもそれは続き、ざらざとした舌で舐めてくる。的場はそのまま猫の首の辺りを、撫でるように掻いてやった。すると途端に子猫は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らしながらその掻いてくれる手を享受した。
冬の静謐な空気に吹く風は冷たく、そこにやがて微かな雨の匂いを感じ取る。空を見上げると灰色に染まった雲の欠片が風に乗って屋敷の方に近付いてくるのが見えた。もう少しで降り出すだろう。的場が立ち上がると、まるでタイミングを見計らったかのように近くの角の向こうから衣擦れの音が聞こえてきた。きしりという微かな軋みに、今まで庭で寛ぎ毛繕いをしていた猫たちは脱兎の如く縁の下に潜り込んでいった。それを見送ったところで、七瀬が角を曲がってやってきた。
「今回も、無駄足だったようですね」
「ああ」
七瀬は手に持っていた書類を的場に渡した。そこには今回の件に関する報告が上がっている。一通り確認し、問題のないことを確かめてから再び七瀬に返す。
「そのわりには機嫌がいいようだが」
的場は目を伏せ、ふと口角を上げた。そんな頭首を、七瀬は眼鏡の奥で目を細め見遣った。
長年秘書として側仕えをしてきた七瀬には、この若き頭首の機嫌の良しあしを図ることなど造作もないことであったが、それにしてもここまで雰囲気の柔らかなところを見るのは久し振りのことであった。それこそ、まだ頭首として「的場」の上に君臨するようになるずっと前に遡らなければならないほど。
「あとで部屋にお茶を持ってきてもらえますか。それと、魚のすり身も」
「魚のすり身?」
訳が分からない、と言いたげに片眉をぴくりと器用に上げる仕草を見せた七瀬は何かを言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わずにゆっくりと口を閉じ、喉の辺りまで姿を見せていた言葉を呑み込んだ。
「そういえば最近、猫がこの屋敷に出入りしているようですね」
代わりに出た言葉に、男の笑みは一層深まる。なるほど、機嫌がいいわけだ。
「……分かりました。あとでお持ちしましょう」
七瀬は溜息をついて諾い、報告書を手に元来た道を戻っていった。その背を見送り、見えなくなったところで的場はつと空を見上げた。
七瀬との短いやり取りの間にぽつりぽつりと降り始めていた冷たい冬の雨は、もう少し気温が低ければ白い結晶となって大地を凍らせるのだろう。このまま降れば明日の朝などはひどく冷えきってしまうかもしれない。
野良猫は、そういうときどうするのだろう。猫は温かいところが分かると聞いたことがあるが、それは雪の寒さの前に太刀打ちできるものなのだろうか。縁の下にほぼ棲み付いていると言っても過言ではないあの親子がいなくなったこの屋敷を想像してみると、何か物足りないような気がして落ち着かなくなった。
そのときふと、屋敷を囲う木塀の向こう側に、不思議な気配を感じた。それは妖にも似た気であるが、何かが妖と違う。あの猫の親子を初めて感じたときのことを思い出し、そのすぐあとに思い当たるものが頭に浮かんだ。すると口元は、我知らず喜色に染まった。
屋敷の周りには簡単な妖避けの咒いをかけている。契約した式などには効かないが、中に入れば忽ちその力を奪い活動を鈍らせることができる。咒いをかけたのは敷地内だけだがその余波は確実に屋敷の外側にも向いているはずで、だから小さな妖怪などは屋敷に近付くこともできない。
けれどこの不思議な気の持ち主は屋敷のすぐ近くにいる。的場は式に持ってこさせた愛用の番傘を差して門に近付いた。中途半端に開けられている木門の隙間から、グレーのコートを着た見知った背中が覗いているのを見付ける。カランコロン、と音を立てる下駄に気付いたようで、その背中の持ち主はゆっくりとこちらを向いた。
「こんにちは。こんなところでどうかしましたか」
雨粒を数滴髪に纏わせている少年は、翡翠のように碧く輝く瞳を驚きに大きく見開かせた。「まとばさん?」と、やや舌足らずな声が言い、しかしすぐにキッと目を吊り上げ、毛を逆立てた猫のように警戒心を露わにした。
「なんでここにいるんですか」
「それはこちらの台詞ですよ、夏目君。ここは的場の別邸なんですから」
「え?」
「ほら」
視線を門の片隅に向ける。そこには楷書できっちりと「的場」と書かれている。的場の視線を追ってその表札を見留めた夏目は途端に顔の色を失くし、慌てた様子で「すみませんっ」と頭を下げた。
「その、急に雨が降ってきたから少しだけ雨宿りさせてもらおうと思って……」
家主に失礼なことを言ってしまった、という後悔が全身から滲み出ている。それに他人の家を雨宿りに使ってしまった申し訳なさも。そうした相手に対して――それがどんなに警戒すべき相手であれ――まず真っ先に遠慮を示すのもまた、彼の境遇故だろうか。
「気にしないでください」
門にかかる瓦を葺いた屋根の下で、二人は並んでいた。的場は差してきた傘を閉じて傍らに立てかけ、ふと俯いている少年の横顔を見遣る。
どうやら学校帰りに降られたらしく、コートの中は制服で、学校指定のものではないが教科書類が入って重そうな鞄を肩からかけている。いつも傍にいる大福か饅頭のようなあの猫の姿は近くには見えない。
「……おれ、そろそろ行きます。雨も小降りになってきたみたいだし」
見られていることに気付いていない少年は、それでも居心地悪そうに身じろぐと的場と目を合わせることなく屋根から出ようとした。「待ちなさい」と呼び止めると過剰なまでに肩を揺らす。それを見て、的場は思わず笑ってしまった。
「そう警戒しないでください。何も取って食おうっていうわけじゃないんですから」
「……なんですか」
夏目が振り向きじっとりとした目で見てくるものだから、的場は仕方がないと肩を竦めた。そして立てかけていた傘を開きつつ夏目に歩み寄り、それを差し出す。
「ここからじゃ遠いでしょう。確かに小降りにはなっていますが帰るまでにかなり濡れる。だからこれを使ってください」
「え?……い、いいです。大丈夫ですッ」
「でしたら屋敷で雨が止むのを待ちますか?」
「いえ、それは……」
「このまま濡れ鼠になって帰れば藤原夫妻の心配はいや増しになるでしょうね。それで風邪を引いてしまえば尚更」
「ッ」
「傘、お貸ししますよ?」
にっこり微笑み、差した傘を夏目の方に傾ける。
夫妻の名前を出すことは大いに効果があったようで、夏目は傘と的場を交互に見遣った。その瞳には逡巡が色濃く見えるが、やがてきゅっと唇を噛み締め傘を受け取った。「ありがとうございます」と、小さな声が言う。
「暫くはここにいると思いますから、返すのはいつでも構いません」
一歩退き、屋根の下の濡れない位置に戻る。夏目は瞬間的に縋るような目を向けてきたが、やがて何を言っても無駄だと悟ったのか上げていた傘を下した。その顔が、見慣れた蛇の目に隠され見えなくなる。
「たぶん明日、また来ます」
しとしとと降り注ぐ冷たい雨はやはり止むことはなく、夏目は雨粒で白く煙る道の向こうへと歩き出した。ぴたりと止まってこちらを向いた彼は、的場が未だ自分のことを見ていることに気付き、微かな動揺を見せた後、軽く頭を下げ今度こそ雨の向こうに消えていった。
「傘を口実にまた会おうとするなんて、私にしては古い手を使う」
空を見上げると一面白に近い灰色に染まっている。雪の兆候だ。しとしと降る雨の粒は細かく、霙に変わったことを知る。
「あぁ、でも」
踵を返して屋敷へと戻る途中、白い影が縁の下で揺れた。猫は濡れるのが嫌いだから、きっと今夜はあそこを宿とするのだろう。今日は少し多めに餌をあげてみようか。一時の雨宿りに、もしかしたらこれからも来てくれるかもしれない。
そして明日来るという彼には優しさを。優しさに抗えない彼は、徐々に心を許してくれるようになるかもしれない。
彼が明日、どんな顔でこの屋敷の門扉を叩くのか。楽しみで仕方がない。
(了)