Chocolate Rhapsody

 ひと仕事を終えて部下の車に乗り込もうとしたとき、ふと濃茶色の看板が視界に入った。決して主張することはないけれど、細い金色の文字で書かれたブランド名が、高貴な香りを漂わせている。靴も洋服も高級ブランドを取り揃えた超一級地のど真ん中ということも相俟って、格式高さが強調される。
 そこが洋菓子の本場・仏国のショコラティエがプロデュースしているチョコレェト専門店だということを、帰りの車中で部下が得意げに話していた。「彼女にプレゼントしたら喜ばれること間違いなしですよ」と力説されて首を傾げる。時期的に逆ではないだろうか。
「何云ってるんですか。今どきどっちが渡すかなんて細かいこと気にする奴はいませんよ」
 寧ろ欧米式に、親しい友人や、日頃がんばる自分へのご褒美に購う人の方が多いという。そういえば、昔似たような話を聞いたことがあった。
「それだって、彼女への贈答品プレゼントでしょう?」
 バックミラー越しに、黒眼鏡の奥の視線がキャラメル色の紙袋を捉えたのが分かった。「違ェよ、自分用だ」と笑いながら、小さな箱が入った袋に視線を落とす。
 脳裏を過ったのは厭味な笑みだった。店内の飾匣ショーケェスを眺めている間もちらちらと浮かんでは消えてを繰り返した、容姿だけはやたらと整った男の顔。それを手で追い払うようにすると、「虫ですか?」と気を利かせた部下が窓を開けてくれた。ひんやりとした冷たい風が、温まった頬に心地いい。
 虫のように追い払えたならどれだけ良かっただろう。死にたがりの木偶が本懐を遂げたかと思って四年間を過ごしてきたのに、何事もなかったかのようにひょっこり顔を出してくるその図々しさは正しくよく知る相棒のもの。羽虫として片付けるにはあまりに存在感が強すぎて、だいぶ鬱陶しい。
 それに、この四年間で消えることのなかった、消せなかったものもたくさんある。
 今日はそれを清算する大事な日。
「――悪ィ、本部戻る前に寄り道頼めるか?」

 散々苦しめられたのだ。少しくらい反撃したって、罰は当たらない筈だ。


■□■□■


 それは紅葉直麾の部下として方々に連れられることが増えていた頃のことだった。
 商談を終えた紅葉が取引先を辞して赴いたのは、西方に本社を置く高級洋菓子店。店構えからして気軽に入れそうなところではなかったが、紅葉はお構いなしだ。「え?」と思う間もなく当たり前のように敷居を跨ぐ上司に慌ててついていくと、甘いチョコレェトの匂いが鼻腔を満たした。店内には「Happy Valentine」という控えめな装飾と、それ目的であろう若い女性たちの姿。空気もどことなく浮足立っている。
 普段買い物に行くスーパーにも、ひと月ほど前からバレンタインコーナーが売り場の一角に設けられるようになっていた。「ああ、もうそんな時期か」と思うばかりで、素通りするのが常だったのだけれど、素通りどころかその中心に足を踏み入れることになろうとは思いもよらなかった。
 薄暗いとさえ思える店内で、それでも煌々と輝く飾匣。その中にはさまざまな形のチョコレェトが、さながら美術品のように行儀よく箱に収まり展示されている。色が濃いもの、薄いもの、凹凸があるもの、金箔をアクセントに散らしたもの。どれもこれも洗練された職人技が垣間見え、つい、膝に手を付きまじまじと見入ってしまった。
「なんじゃ中也、チョコは初めてか?」
 売り子に「注文の品を受け取りに来た」とにこやかに告げた紅葉が、品物を待つ間食い入るように飾匣を見る中也にくすりと笑った。
「いや、そういうわけじゃねぇけど……」バツが悪くなり、姿勢を正す。「姐さんがバレンタインを気にしてたってのがなんか、意外だったっていうか」
 バレンタインといえば、女が好いた男に告白するためにチョコを渡す日という程度の認識でしかない。――し、たぶんその認識で間違ってはいない。擂鉢街でも、時期が過ぎた頃になると廃棄処分寸前のチョコレェトが安値で出回った。もらったこともあるが、無用な諍いに巻き込まれそうになってからは、むやみに受け取ることはしなくなった。
 紅葉が愛した男はもうここにはいない。では誰にあげるのだろう、と純粋な疑問を口にすると、目を丸くした紅葉はすぐ、それを柔らかく細めた。
「愛いのう、中也は」
 意味が分からなかった。
 弧を描く艶やかな口許とは対照的に、中也の口は「へ」の字に曲がった。表情から感情を読ませてはならぬ、と目の前の上司からは口酸っぱく教え込まれてきたことであるが、仕方がない場合もあると思う。紅葉はくつくつと笑い、
「バレンタインなどただの口実じゃ」と事も無げに云い捨てた。
「色恋に奥手な女子たちが、欧米の仕来りを拝借し勝手にそのように意味付けをしただけにすぎぬ。世話になった者に贈り物をしようが、自分への贈り物にしようが、それは個人の自由というもの」
「そう、なんすか……?」
うたごうておるのか?」
 悪戯めいた微笑がやたらと迫力あるだけに、中也は首を横に振ることしかできなかった。ただ、「好いた者にだけ贈らねばならぬという決まりもない」という言葉には、自分が如何に狭い世界しか見ていなかったのかということを、否が応にも突きつけられる。
 売り子の女性が「お待たせいたしました」と、紙袋をいくつか抱えて戻ってきた。袋の中ではそれぞれ、チョコレェトが入った小さな箱が積み上げられている。中也はそれらを、紅葉の代わりに受け取った。
「これは中也の分じゃ」
 紅葉はその中から徐に箱を取り出し、中也に差し出した。濃茶色の包み紙には店のロゴをあしらったシンボルマークのパターンが印刷され、同系色の細い飾紐で装飾されている。
わっちのかわいい愛弟子にはこれからもどんどんがんばってもらわねばならんからのう」
 見上げたマフィアの女傑は楚々と笑うなり、用は済んだと踵を返し、店を出て行ってしまった。
 バレンタインとはどうやら、思っている以上に複雑で奥深いものであるらしい。首領や、その異能が象る少女、紅葉直属の部下に、中也に渡したものと同じ箱を紅葉が手ずから渡していく中で、「今年もありがとうございます」という言葉を何度か耳にした。もらう側がみな男なのはマフィアの男女比率が圧倒的男性に傾いているからだろう。
 ――日頃の感謝。それがバレンタインに対する、紅葉なりの意味付けなのだ。


「俺もなんか贈った方がいいよな……」
 寝床にしているマンションに帰り着き、少しだけ躰を休めようと長椅子ソファに身を沈めた。いかんせん今日は西方の取引先から戻ってきてからというもの、息つく間もなく本部内にいる首領や紅葉部隊の者たちを訪ね歩き回ったのだから、足がすっかり草臥れてしまっている。
 ダイニングテーブルに置いたままの箱にちらりと目を向ける。親指と人差し指を合わせてつくった円の中にすっぽり収まってしまいそうなほどの小ささなのに、一粒八百円以上もする。擂鉢街から出てきてさほど時間が経っていない中也には理解の及ばない購い物だ。何かを贈ろうにも、それに見合うものなど分かるはずもない。
 うんうんと唸り、膝を抱えてごろりと横になったそのとき、「ただいまァ」という間延びした声が玄関先で響き渡った。鍵は閉めた筈だが、と思わず渋面になる。
「帰れよ不法侵入者。手前が跨いでいい敷居じゃねぇぞ」
「何云ってるんだい。僕はちゃんと『ただいま』と云った。帰ってきたんだ。不法じゃあない」
「黙れ。人ン家の鍵勝手にピッキングして入ってくりゃ立派な犯罪だろうが」
「君、自分が今何でご飯食べられてるのか分かってて云ってる? 芸人も真っ青のそのボケのセンスには恐れ入るよ」
「それとこれとは話が違ェだろッ」
 さらに云い募ろうと勢いよく身を起こせば、ちょうど居間に入ってきた包帯男――もとい太宰が、持っていた紙袋をテーブルに置くところだった。しかしすぐ先客に気付き、「何これ」と置いてあった箱を手に取った。その硬い声は、今の今まで人を小莫迦にしたように言葉を操っていたものと同一のものであるとは俄かに思い難く、中也は不機嫌な表情のまま「見りゃ分かんだろ」と云った。
「チョコだよ。手前ももらったんだろ」
「ああ、これかい?」
 大量の箱や包みがすし詰めにされた紙袋。それを逆さまにするとばらばらと中身が躍り出て、あっという間にダイニングテーブルの半分を覆い尽くしてしまった。人からもらったものをそんな乱雑に扱うんじゃねぇよ、と毒づく。
「この前織田作と行ったバーのお姉さんとか取引先の銀行頭取の娘とか行きつけの喫茶店の女給さんとか――あ。あと、よく面倒見てくれる女性構成員も何人かくれたよ」
 ふふん、と得意げに鼻を鳴らす辺り、どうやら自慢しにきたらしい。
 バレンタインは男にとって、もらったチョコレェトの数が自分のモテ指標の一つになるのだと、羊の頃に聞いたことがあった。謂わば男としての威信だ。太宰もその手の考えの持ち主だったのだろうかと思い、いや違うと考え直す。この男はチョコレェトの数を自慢することで悔しがる中也が見たいだけだ。
 そんな分かりやすい手に乗ってやるものか、と内心で舌を突き出しながら、テーブルの上のチョコを一つ手に取った。
 スーパーのバレンタインコーナーでも見かけるよく知るメーカーのものや東京の有名ブランドに混ざって、ロゴのない、愛らしい袋に入れられたものもある。手作りとは随分と気合の入ったことだ。
「それにしてもよくやるよね、女の人たちって」
 大きさや形的にパウンドケェキと思われる袋を手に取り、何の感情も浮かばぬ据わった目をして太宰は云った。
「食えよ」
「いやだよ、何が入ってるか分からないもの」
 そしてぽろり、とテーブルの上に無造作に抛った。中也が挑発に乗らなかったのがお気に召さなかったのだろう。「詰まんない」と唇を尖らせる仕種は普段見せる悪魔めいた奸計を張り巡らせるときのものとは違い、随分と子どもっぽく見えた。
「――それよりこれ、誰からもらったの」
 もう一つ、不機嫌の原因を思い出した。
 まだ手に持っていたらしい、紅葉からの贈り物を見たときから、少し様子が怪訝しかったことには気付いていた。声にも些か険が含まれているように感じたが、「姐さんだよ」と答えると、なぜだかホッとしたように小さく肩を上下させる。
「まぁ、そんなことだろうとは思ったけどね」
「だったら聞くんじゃねぇ」
「僕だって誰からもらったか云ったんだから教えてくれたっていいでしょう」
 こっちは何も聞いてない! と声を荒げそうになったが寸でで止める。せっかくここまで我慢してきたのに、最後の最後で此奴のペェスに呑まれたらしまいだ。
「分かったら片付けてとっとと帰れ」
 市販と手作りのチョコレェトが入り混じったテーブルの上は、外装越しだというのにどこか甘ったるい匂いが立ち込めている。食べるにしろ捨てるにしろ、それは余所でやってくれ、と思うが、中也に嫌がらせをすることに生きがいを感じているらしい太宰が引き下がるわけもなく、「そうだ!」とまた何か碌でもないことを思いついたように手を打った。
「せっかくのバレンタインに身内からのチョコ一個だけという不甲斐ない結果に終わった中也君に朗報だ。僕がもらったこれらの処理を手伝わせてあげよう」
「つくづく屑野郎だな、手前は」
 どうだい名案だろう、と云わんばかりに胸を張る。
 流石に思うところがあったのか紅葉からのチョコレェトを他と同じように乱雑に扱うことはしなかったが、それをテーブルの上に戻した太宰は早速きれいにラッピングされた箱たちを検分し始めた。どれが安全かを見極めるのだろう。
 出て行く気も、片付ける気もなさそうな太宰に代わり、この中でもおそらく手を付けることはないだろう手作りのものを紙袋に詰め込んでいく。
 何が入っているか分からない。――慥かにそうなのだが、時間をかけて作られた菓子の中には、差出人から太宰への何某かの想いが詰まっているのではないだろうか。それを無碍にしているのがもらった張本人なのは間違いないが、その片棒を担いでいる事実には変わりなく、なんだか申し訳なくなってくる。
(つか、一体いくつもらってんだ此奴……)
 あまりに数が減らないのでげんなりしてきたところで、「あ」という声がして顔を上げた。
「これなんてどうだい?」
 差し出された箱は濃茶色のシンプルなものだった。印字されているブランド名は見たことがなかったが、紅葉が購ったような高級系のものであることだけは分かる。「いや、俺は――」と断りかけたが、そんなのはお構いなしに太宰は包みをぺりぺりと剥がし始めた。箱にはブランド名以外にも何かが書かれていた。
「……ウイスキー、ボンボン?」
「知らない? 中也、好きだと思うけど」
 包みの中から現れた箱の中には、酒瓶の形をしたチョコレェトが六つ、整然と並んでいた。チョコを包む銀紙にも「Whiskey BonBon」と書かれている。
「チョコレェトの中にリキュールを入れた定番のチョコ菓子だよ」
「酒が入ってんのか」
「ちょっとだけね。リキュールとチョコの甘さのバランス、食感、コーティングの技術。どれも適当でもいけるけど、美味しくしようとするとなかなか難しい」
 得意げに話す太宰は一粒手に取り、酒瓶の上下を親指と人差し指で挟み込むようにして持ちながら、「欲しい?」と云ってにやりと口角を上げた。包帯に隠されていない鳶色の瞳が云うように、おそらくそれは、中也が好きな類のものだろう。だが、「いる」と云ってしまうとなんだか負けたような心持がする。そもそもこの男が大人しくそれを渡すだろうか。
「……手前がもらったんなら手前で食えよ。俺はいらねぇ」
 出した答えは「否」だった。なにしろ目の前の男は、中也に嫌がらせをすることを生きがいにするような男だ。応じれば何を要求されるか分かったものではない。少し勿体ないような気もしたが、後で自分で購いに行けばいいだけの話。その存在を知れただけでも僥倖としよう。
 だがそんな中也の思惑など太宰にはお見通しだった。「まったく素直じゃないねぇ」と肩を竦め、そして、紅葉からもらったチョコを再び手に取った。
「じゃあ、交換しよう」
「……交換?」
「そう。このウイスキーボンボンが僕への贈り物だからって理由で中也が食べられないって云うのなら、中也が姐さんからもらったチョコを僕が食べれば、同じ条件で帳消しになる」
 違うかい? と聞かれて、人差し指を口許に添えた。「慥かに」――理屈は間違っていない。
「でもなんで俺にそんな食わせたがるんだよ。なんか隠してんじゃねぇか?」
「この僕が君なんかにバレるような分かりやすい隠し事なんてするわけないじゃない」
「おいコラ、どういう意味だ」
 太宰は答えることなく、先程と同じように紅葉からもらったチョコの外装をぺりぺりと剥がし始めた。「流石姐さん、いい感性センスしてるね」
 箱の中には四角形を基本としたさまざまな種類のチョコレェトが九個。中央には、店内でも見た金箔を散らしたものが堂々と鎮座している。太宰はその隣の、表面が凸凹したシンプルなチョコを一つ、摘まんだ。代わりに銀紙を剥がした酒瓶型のチョコを中也に手渡す。まさか本当に渡されるとは思っておらず、つい、呆けてしまう。
「じゃ、いただきまーす」
 そんな中也に構うことなく、一口で頬張る。
 お互いがもらったものを交換するという、普通なら考えられないような状況がなんだか少し新鮮で。チョコをくれた姐さんにも、太宰にこれを渡した女性にも申し訳ないと思いながら、一粒口に含んだ。表面は固くコーティングされているが、中はとろりと柔らかく、やがてじんわりと上等なウイスキーの華やかな香りが鼻の奥に抜けていった。無言で咀嚼する中也に「美味しい?」と訊ねる太宰に、悔しいがそこは、素直に頷くことしかできなかった。


 結局太宰は、もらったチョコレェトを全て中也の家に置いたまま帰っていった。自分で処分しろ、と怒鳴っても聞く耳持たない。しょうがないから市販のものは茶請けにするとして、手作りらしきものは全て段ボールにまとめ、太宰が普段使っているマンションの一つに宅急便で送ることにした。
 それにしてもあのウイスキーボンボンは本当に美味しかった。あれなら、首領や紅葉の口にも合うだろう。宅急便の手続きを済ませた足で購いに行き、紅葉の執務室に立ち寄れば、驚いた様子の上司はすぐに相好を崩し「ありがとう。ほんに中也は愛いやつじゃ」とお褒めの言葉を賜った(バレンタインのお返しはひと月後にするものだということはこの後知ったことだ)。
 紅葉に倣い、自分も世話になっている人にチョコレェトを贈ろうと思った。当然、首領にも、だ。一介の構成員に過ぎない中也にとって首領執務室は簡単に立ち入れるような場所ではなかったため、紅葉に訳を話して御目通りの機会をいただいたのだけれど。
「……は?」
 用事があるという紅葉は部屋を辞していた。よかった、と思う。首領にチョコを渡した後、にこやかに礼を告げた森の続く言葉に思わず耳を疑った。
「いやぁ、実は私、ここのウイスキーボンボンが昔から大好きでね。太宰君が先日、どこか美味しいチョコレェトの店は知らないかと聞いてきたから勧めてみたんだよ。値は張るが腕は慥かだし、何よりエリスちゃんも気に入っているからねぇ」
 幼女がウイスキー、ということも引っかかったが、中也にとって重要なのはそこではない。
 太宰が首領に聞いていた。――何を? チョコレェトの店を。
 勧められた店のチョコを、偶々誰かからもらうということも、もしかしたらあるかもしれないけれど。
「……一つ、いいですか」
「何かね?」
「その……首領は、彼奴にそれを渡したんですか?」
 偶々首領が気に入ってた店のチョコを、偶々誰かが購って太宰に渡した。それもあり得るが、お勧めだからと首領が太宰に渡したという可能性も捨てきれない。そしてもう一つ。
「私は渡してないよ。自分で購いに行くと云っていたが」
 机に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた森は、「なるほどねぇ」と得心した様子で笑った。
「太宰君が私を頼ってくるなんて珍しいと思ったんだ。まぁ、終始厭そうな顔はしていたけど、代わりに同じものを私にも購ってくるということで手を打った。彼からすれば、それで借りがなくなるならと思ったのだろうね」
 そしてそれを、この店を知らない筈の中也が購って持ってきた。渡した相手が誰なのか、それを知るには十分すぎる答え合わせだった。
「ここ、美味しかっただろう?」
 楽し気な首領の声が、しばらく耳から離れなかった。


 執務室を出るときも、昇降機に乗り込むときも、いつもの覇気がない子どものほんのり赤らんだ顔を、警備の黒服たちは不思議そうに――しかし決してそれを表に出すことなく、見送った。
 信じられなかった。だが思えば太宰は、あのウイスキーボンボンに関しては、誰からの贈り物なのかを明言しなかった。ほかのものについては「これは誰々から」と自慢げに話していたというのに、そのことに気付きもしなかったのは自分だ。それにやたらと中也に食べさせようとしていた。
 あげたい。でも自分からだなんてバレたくない。――そんな太宰の葛藤が込められたあのチョコレェトには一体どんな意味があったのだろう。考えれば考えるほど全身がむず痒く、たまらなくなってくる。
 中也は誰もいない昇降機の中で頭を乱雑に掻き混ぜ「あーー、もうッ!」とありったけの声で叫ぶことしかできなかった。


■□■□■


「邪魔するぜ」
 がちゃり、と叩音ノックもなく開いた扉に、室内が俄かにざわめいた。
 いつもの長外套こそないものの、黒服に黒い帽子、夕陽を映したような特徴的な赭色の髪。唐突に現れた青年に、周囲の警戒心は一気に高まる。「ポートマフィアが何の用だ」と国木田が眼鏡の奥で鋭く眼光を光らせるが、そんなのお構いなしに蒼い瞳はぐるりと事務所内を見渡した。
 お目当てはすぐに見付かった。
 国木田や敦の制止などまったく歯牙にもかけず、つかつかと室内に足を踏み入れ、入り口近くの応接スペースで立ち止まる。そこでは長椅子に全身を投げ出した太宰が、顔の上に愛読書を置いて眠りこけていた。
「――相っ変わらず手前はどこ行ってもサボってばっかだな」
 ここまでくると、腕を組んで仁王立ちする中也を相手に口を出そうとする者はいなかった。もしかしたら救世主になりうるかもしれない、と思ったのだ。固唾を呑んで事態を見守るのは、何が起きるか分からないがとりあえず仕事をサボる太宰が悪いという共通認識が働いているからに他ならない。国木田も、不測の事態に備えて手帳と万年筆を用意するも、ギリギリまで様子を窺うことにした。
「おいコラ、起きろよ糞鯖。まだ就業時間真っ只中だぜ」
 怒鳴ったわけでも、張り上げたわけでもないのによく響く声。太宰は緩慢な動きで本を僅かに持ち上げると、「なんで中也がここにいるのさ」と鬱陶し気に目を細めた。「おお、起きた」と、陰で様子を見ていた敦が感心したように呟いた。普段は何しても起きようとしないのに。
「バレンタインのお届けもんだよ」
「…………は?」
 にやり、としたり顔で笑う。間の抜けた相槌は、その場にいた全員の心の声を代弁するものだった。マフィアの幹部が何を云っているのだろう、と。
 半身を起こした太宰の目の前に、中也は持っていたキャラメル色の紙袋を突き出した。渡されたものはとりあえず受け取る。その習性から、太宰が思わず紙袋を受け取ってしまったのを確認したところで、黒手套をはめた手をひらりと振って踵を返す。
「え?」
「用はそれだけだ。じゃあな」
「え!?」
 そして入ってきたときと同様、中也は何事もなかったように出ていった。
「な、なんだったんでしょう、今の……」
 怪訝な敦の声に、茫然と見送るばかりの太宰は「さぁ……」と応えるしかない。しかし紙袋の中に視線を落とせば、はたと気付くものがあった。口の中で棒飴を転がしていた名探偵が、「行かなくていいの?」と不思議そうに首を傾げる。
「……いえ。ちょっと出てきます」
「うん、いってらっしゃーい」
 普通だったら国木田辺りが、「起きたんなら仕事しろっ」と怒鳴り散らしたことだろうが、乱歩のお墨付きとあらば口出しすることはできない。「三十分で戻って来い」と渋々釘を差す声を背に受けながら、太宰は紙袋を片手に事務所を後にした。


■□■□■


 ――六年前、なぜ太宰が、自分からだと隠してまでチョコレェトを渡そうとしたのか、いくら考えても中也には分からなかった。
 聞こうとしたことはある。一体どういう心算なのかと。それでも聞くことはできず、一か月後には礼を渡すべきかどうか悩みに悩み、気付けば月日は過ぎやがて大規模抗争やら何やらで有耶無耶になってしまっていたけれど、こればっかりは本当に、今でも分からない。
 一番考えられそうなのは嫌がらせだった。中也が紅葉以外の誰からもチョコレェトをもらえなかったことを憐れみ、嘲り、愉悦する。あれがそういう男だということを、中也はおそらく誰よりもよく知っている。――だがもし嫌がらせだったなら、あのとき食べて、気に入って喜んだ中也を、太宰は全力で揶揄った筈。しかし記憶のどこにも、あの男があの後あからさまな言葉で中也を揶揄った事実はない。寧ろ満足げだった。
 気まぐれで渡すにしては高くつきすぎるし、わざわざいけ好かないと評する首領に聞きに行くこともしないだろう。太宰は中也に渡すために名店を聞き出し、実際に購っている。
 そもそもバレンタインとは、一般的には女が男に告白する日ではなかったか。
 そう思い、当然、好意を疑ったこともある。絶対御免だし太宰とてそれはありえないだろうけれど、もしそうだったと仮定して、辻褄は合うだろうかと考えた。
 ……誤算だったのはその後だ。
 中也がその可能性に行きついたのは、実はそれほど後のことではない。寧ろそれなりに早い時期に脳内再現シミュレートできていた。だが太宰がどうこう以前に自分の思考の奇怪しさに気付いてしまった。
 太宰が中也に対し、本来なら絶対云わない言葉ベスト3に入りそうな――「好き」という言葉。
 それに対して自分が弾き出した答えは、いつもみたいな「手前なんか嫌いだ」というものではなく、ただひたすらの迷いと困惑だった。「手前は俺のことが嫌いだろ」と、きっと自分は云う。
 ――だったら自分はどうなのだ?
 警鐘が鳴る。でも思考は止まらなかった。
 中也の中の太宰の評価は、いけ好かない男、嘘吐き、マフィアになるために生まれた男、自殺願望、ろくでなし。それは間違いないのだけれど、もう一つあるとすれば、それはおそらく「隣にいて安心する」。
 太宰を捕らえたと聞かされたとき、嫌がらせに見に行って揶揄ってやろうと思ったのは事実だけれど、それ以上に、四年間の空白を確かめたいという気持ちもあった。様子を見て、本当にそこにいるんだという事実を確認したかった。Q奪還で太宰と組むことになるかもしれないと聞かされたときの、久し振りに奴の指揮下で動けるという高揚感は凄まじかった。何度も耳にしてきた作戦暗号コードを一つ一つ思い返し、案外覚えているもんだと感心した。それが自分だけでなかったと知ったとき、自分たちは四年やそこらじゃ何も変わらないのだと思い知らされた。……気持ちも含めて。
 いつから、なんてのは愚問だ。大事なのはそこじゃない。
 中也が太宰を好いていたということに、中也自身が気付いてしまったのが問題なのだから。
 だから、太宰がチョコレェトを渡したときの意味を考えるのを止めてしまった。絶対にありえないと分かっていることを考えることほど虚しく、愚かなことはない。
 太宰からのバレンタインはあれっきりだ。道を違えた今、思考の片隅に羽虫のように飛び交う記憶も、いつか少しずつ薄れていくことだろう。あとはこの気持ちを清算して、全てを終わらせる。チョコレェトに込めた意味に奴が気付くことはないだろうけれど、それでいい。
 もう、あの気に食わない男に感情まで振り回されるのは、御免だ。

「中也っ」

 昇降機を降り、出口へと向かう途中。
 息を切らした聞き慣れた声が背後から聞こえ、中也は足を止めた。振り返りざまに腕を掴まれ、目を丸くする。
「太宰?」
 此奴が走るなんて珍しいこともあるものだ。階段を駆け下りてきたのだろうが、昇降機とほぼ同時に着くあたり、その勢いのほどが窺える。「ンだよ急に」と云いつつ、腕を振り払った。
「急にはこっちの台詞! ――まったく。ほんとなんなの、急にこんなの寄越して」
 見れば手には、先程中也が渡した紙袋が握られていた。
「云ったろ、お届けもんだって」
「お届けものは分かった。魂胆を教えろって云ってんの、私は」
「聞いてどうすんだよ」
 虚をつかれたように太宰は言葉を詰まらせた。一瞬だけ丸くした双眸をすぐ、瞼の下に隠す。そして深い深い溜め息を一つ。
「……嫌がらせの心算なら上出来だよ。中也のクセに」
「はぁ?」
 意味が分からなかった。
 ゆっくりと瞼が持ち上がり、伏し目がちの鳶色が持っていたキャラメル色の袋を捉える。そこには普段の飄々とした、道化のような男はもういない。
「――これ、昔私が君に渡したやつだね。ウイスキーボンボン」
「…………」
外装パッケージは新しくなったようだけど。私の記憶力を嘗めてもらっては困る」
 そして視線は再び中也を捉えた。
「……やっぱあれ、手前からか」
「森さんに聞いて知ってたんでしょう。あの後しばらくネタにされてめちゃくちゃ腹立たしかったのだけど」
「ンなの自業自得だろうが。しかも首領への借りを俺からのチョコレェトで返した気になりやがって」
「だって君、姐さんにお返しするのに絶対森さんの分も購うでしょ。世話になってるからって」
「最初から俺で返させる気満々じゃねぇかッ」
 あの夜、中也の家で紅葉からのチョコレェトを見たときから――否、首領に聞きに行ったときから既にそこまで読んでいたとすれば相当質が悪い。そう思うが、今さらでもある。「気に入らねぇな」と舌を打ち、水に流すことにした。
「――で、なんで中也はあのときのチョコレェトを今になって私に持ってきたわけ?」
 太宰が見下ろす。その冷たく硬質な眼差しは、作戦の最後に標的を追い詰めたときに見せるものだった。感情が凪いだような、深淵を見詰める瞳。
 ――云えるわけねぇだろ。
 内心毒づきながら逃げる契機を窺うが、攻撃の間合いや時機タイミングが完全に把握されている以上、太宰がそれを遮るのは造作もないだろう。さらに上をいく速さで凌ぐことは可能だが、そこまでするのも莫迦らしい。それに、これで最後だからと、あのときの好奇心が再び胸の奥で燻り出す。  中也は深く息を吐き出し、「手前こそどうなんだよ」と反則技に打って出ることにした。つまり質問返しだ。
「あンとき手前はほかの女からもらったように見せかけて渡してきただろ。なんでそんなまだるっこしいことしやがった」

 聞けば何かが変わる。
 聞けば、自分の気持ちと真正面から向き合うことになる。
 それは決して悪いことではない。けれど折り合いをつけるには、以前の自分にはまだ覚悟が足りてなかった。どんな言葉が返ってきても受け流せる、そんな余裕が。
 だが一度覚悟を決めてしまえばどうということはない。やがて月日とともに気持ちが薄れ、消え去ったとき、笑い話の一つとして酒の肴にしてやるのもいいと思った。「あんなの真に受けたの? 中也、ほんと単純。期待させちゃったんなら御免ねぇ」と云った奴に、「手前こそ何期待してんだよ」とせせら笑い、鼻を明かしてやった武勇譚として。
 ――だから、「そこから!?」と声をひっくり返した男に対し、虚をつかれて咄嗟の判断ができなかった。見れば太宰は大袈裟に半歩後ずさり、眸を丸くしている。中途半端に胸の前まで上げられた片腕が若干迷子だ。
「そこから、って……」
「いやいやいや、あれだけ分かりやすいのになんでそこ気付かないの君。いくら脳みそ筋肉達磨だからって少し考えれば普通分かるでしょ、十五の私が気の毒だと思わないわけ??」
 私の作戦に阿吽の呼吸で応えてた唯一君の良いところだった理解力の高さはどこいっちゃったの、と矢継ぎ早に繰り出される言葉の数々に、しかし、中也の思考は既に停止していた。
 ただ一つ、必死すぎる太宰が新鮮すぎて、その剣幕に気圧されながら。
「太宰、手前、何を……」
 太宰自身、しまった、とばかりに一瞬我に返って居住まいを正し、こほんとわざとらしく咳払いを一つ漏らした。そして視線を横に逸らし「最悪な気分だ」とぼやいた。
「期待させてから落とす私の常套手段をそっくりそのまま、しかも中也なんかに返された挙句、本人はまったくそんな心算なかっただなんて」
 ――舌打ち。相当機嫌が悪いと見える。
 渡したチョコレェトが太宰には嫌がらせに映った。口振りから、この男は何かを期待していた。何かを期待して、中也が無意識にそれを裏切り、そして落胆した。
 まるで、何度も頭の中に描いてきた、太宰にチョコレェトの意味を問い質そうとしたときの自分のようではないか。

 自分たちは知らないうちに、大きなすれ違いを起こしていたのではないだろうか。

「云っておくけど、」
 ハッとした。見れば腰に手をあてた太宰が、呆れたように目を眇めていた。
「六年前の理由に変わりはないよ。今もね」
「……だからって、あンときだって素直に渡しゃよかったじゃねぇかよ」
「そんなことしたって中也は絶対受け取らなかったでしょ」
 その通りだ。それに自分の気持ちに気付くこともなかっただろう。
 普段の戯けたようなだらしのない顔も、人を小莫迦にした厭らしい笑みもない、真っ直ぐ的の中心を射抜いてくるような眼差しが、嘘偽りのないことを告げてくる。もう、チョコレェトを購ったときの覚悟も、渡し終えた後の余裕も、どこかに消えてなくなってしまっていた。
 中也は前髪をぐしゃりと掻き混ぜ、大きな溜め息をついた。
「手前のそういうところが厭ンなるぜ、まったく」
 完敗だ。――素直にそう思った。
「却説、私は話した。今度は君の番だ」
「……分かってて云ってんだろ。性格悪すぎ」
「今さら今さら。――っと、そろそろ時間だ。今日は定時で上がるから、そのあとゆっくり聞かせてもらうとするよ」
「はぁ!?……あ、こら、待ちやがれ太宰!!」
 砂色の長外套を翻し、チョコレェトの袋を持つ手をひらりと振って、昇降機の中へと消えていった。古めかしい機械駆動音が空気を震わせる。

 どんなに鍵をかけたって、奴はいとも容易く侵入を果たすことだろう。「ただいま」と、あのときのように。それまでになんとか頭を整理しようとするのだけれど、心はどうにも落ち着かない。
 とりあえずあのウイスキーボンボンに合うコーヒーでも購いに行こう。
 そうやって思考を逃がし、待たせたままの部下の車に脚を急がせた。


(了)

あとがき

ビターチョコをつまみに酒を飲むのが好きです(聞いてない)。

初出:2021年2月15日


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