ウサギと重力兄弟

 その人は地下の深いところからやってきて、そして一日が終わると地下の深いところに帰っていく。不思議な人だと思っていた。

 貧民街の片隅で暴漢が目の前に立ちはだかるのを、鏡花は感情を灯さぬ双眸で見上げた。くすんだ蒼玉のような、造り物のような眸だ。暴漢は下卑た笑みを顔いっぱいに張り付けていたが、鏡花は微動だにしない。悲鳴も上げず、表情も動かさない彼女が段々人形のように思えてきて、男の笑みは怪訝なそれに変わった。
「お前、」
 言葉は続かなかった。男の顔は人形染みた少女を前にした不可解さで時を止め、噴き出した赤い水溜まりにその巨躯を沈めたからだ。澄んだ金属音と、背後に佇む凛とした女性が、まるで汚物でも見るかのように冷たい紅蓮を両の眼に迸らせ、薄汚い骸を一瞥した。頬に降りかかった赤い雨に心的外傷トラウマを抉られて、人形の眼窩に嵌め込まれた宝石のような蒼がいっぱいに見開かれた。悲鳴に似た吐息が、ここ久しく震えることを忘れていた咽頭を僅かに振動させる。女性の嫋やかな指先が、生温い赤を優しく拭った。
「――可哀想に。其方が泉夫妻の娘御じゃな?」
「……ぁ、」
わっちは尾崎紅葉。首領の命令で、其方を迎えに来た」
 連れて来られたのは、貧民街からは雲の上のように思えた黒々と屹立する巨大な楼閣ビルヂングの最上階だった。そこで待っていたのは底知れない闇が具現化したような男(年を聞かれて答えたら鼻の下が伸びたような気がしたが、横にぴたりと寄り添っていた紅葉と名乗る女の背後で冷たい白刃が揺らめいたことに気付き辛うじて咳払いで誤魔化していた)。「君の力を借りたい」と、男は机に両肘をついて云った。「首領。」紅葉が咎めるように語気を強めた。
「――君の血は暗殺者の血に染まっている。君が後生大事に抱えるその携帯端末が何よりの証だ。それを使いこなしたとき、絶大な力が君に宿る」
「……」
「その力をぜひとも我がポートマフィアのために使ってほしい。――なに、うちには腕の立つ指導者がいてね。必ず力を使いこなせるようになる。分からないことは何でも彼に聞くといい」
 這入ってきたまえ。
 そう告げて開いた扉の向こうから、すらりと背の高い青年が一人、姿を現した。白に近い、長い白金の髪プラチナブロンドを猫の尾のように揺らして這入ってきた男は、「俺は保育士になった憶えはないんだがな」と憮然とした様子で云った。
「相変わらずつれないなぁ。久しくない逸材だと思うから、紅葉君と一緒に面倒を見てやってほしいんだよ」
「……ふん」
 男はヴェルレエヌと名乗った。欧州人らしい蒼い瞳は冷たく、しかし、どこか哀しみを湛えた双眸が印象的だった。
 ヴェルレエヌは暗殺術やそれに伴う躰の動かし方、得物の扱い方を鏡花に教えた。得物にはさまざまな種類があるが、会得するなら母が使っていた短刀がいい、とヴェルレエヌに伝えると彼は早速手配してくれた。「ウサギの風呂敷に包むように伝えた。日本人はすごいな、たった一枚の布を鞄に仕立て上げてしまうなんて」と、鍛冶屋から送られてきた画像を鏡花に見せながら楽し気に声を弾ませていた。
 しかし彼は外に出ることを極端に嫌ったため、短刀が出来上がった報せが入ると代わりに紅葉の愛弟子である中原中也に「お遣い」と称して鍛冶屋に向かうよう命じた。中也は彼を「糞兄貴」と罵ったが、最終的には舌打ちしながら肩を竦めて了承した。「行くぞ」と、ただでさえ尖った目尻をさらに吊り上げて鏡花を促した。
「あの人とは兄弟なの?」
 鏡花の歩幅に合わせてゆっくりと歩く中也の背中に問いかけた。「ああ?」と、なんともガラの悪い相槌にも鏡花が怯むことはない。それは、短い付き合いの中でも彼の優しさをよく感じ取っていたからだ。
「血の繋がりはねぇよ。……けど、深いところじゃ繋がってるのかもしれねぇな」
「?」
 よく分からないが複雑な事情があるのだろう、ということだけは分かった。
 血は繋がっていないというが、ヴェルレエヌと中也は互いを「兄」「弟」と呼んで、付かず離れず距離を保っているようだった。そして二人はどこか似ていた。容姿、髪型、秀でた体術。昔は重力操作の異能も同じだったという。――しかしそれだけじゃない。最も似ている、と感じたのは、その蒼い瞳に浮かぶ寂莫とした寄る辺のない感情だ。何か大事なものが欠けてしまったような、ぽっかり心に空いたうろ。そこから時折どろりとした黒い哀しみが滲み出て、鍾乳石のように静かに凝り固まる。それを紅葉に話したら、彼女はふっと、頼りなげな微笑を口許に浮かべた。
「己を信じた心に気付けず、信じるべきであった筈の唯一を信じきれないまま永劫に失った兄。互いが互いを人間ひとたらしめていた、信じていた片割れの背中を見送ることしかできなかった弟。――ほんに、難儀な兄弟じゃよ。あ奴らは」

 鏡花がその言葉の意味を理解したのは、ポートマフィアを抜けて暫くしてからだった。


「あ、」
 平和なある初夏の昼下がり。市警に届け物をするため街を歩いていた敦と鏡花の視線の先に、見知った姿が映り込んだ。「手前はいつも一言多いんだよっ!」と声を荒立てているのは、帽子をかぶった黒尽くめの小柄な青年。周囲の視線を集めてしまうのは彼が自分より背高の青年の襟元をむんずと容赦なく掴んでいるからだ。当の掴まれている本人は、砂色の外套の衣嚢に手を突っ込んだまま「私としては感謝してほしいぐらいだけどね。あまりに身長が変わらないものだから態々助言してあげたというのに」と飄々と答える。我らが社の先輩。敢えて眼球だけを下に向けている所為で、まるで見くだすような視線運びとなっている。勿論わざとだろう。
「太宰さん!」
 敦が声を上げると、諍いをしていた二人が同時に、まるで曲芸師に操られる動物のように、阿吽の呼吸で振り返った。自然と距離をとる。
「やぁ。敦君、鏡花ちゃん」
「何やってるんですかこんなところで。国木田さん、電話もつながらないってめちゃくちゃ怒ってましたよ」
「そうなの? よかったー、出なくて」
「出てあげてください!!」
 そんなやり取りをしている太宰と敦を見ていると、「よぉ」と先程より幾分柔和な声が鏡花を呼んだ。その眸には、かつて感じた哀しみや空虚はどこにもなくなっていた。
「久し振りだな」
「……うん。久し振り」
「元気そうで何よりだ。姐さんも喜ぶ」
「あの人は?」
 鏡花が思い浮かべたのは、同じように空虚を抱えた眸をしていた彼の兄。中也は、指示語だけのその言葉でも正確に意図を汲み取り、「元気だよ」と肩を竦めた。
「鏡花が無事だと聞いて、彼奴も喜んでた」
「……そう」
 よかった。――ふわりと微笑む鏡花の横から、「中也ァー」と呼ぶ声が響いた。見れば太宰がひらひらと手を振っている。敦はと云えば、相手がポートマフィアの人間――しかも主戦力であり本来なら言葉を交わせる立場にない人物であることに些か警戒しているようで、太宰の様子を固唾を呑んで見守っている。その表情は頗る硬い。
「今日の夕飯、魚がダメならA5ランクの和牛ステーキでいいよ」
「“で”ってなんだよ。腹立つ奴だな……つか手前、そんなの用意したって食わねぇだろうがどうせ」
「食べるよ、一口くらい」
「そういうのは『食べた』とは云わねぇんだよ偏食家め」
「だって魚は厭なんでしょ?」
「魚が厭なんじゃなくて手前に食わす分はねぇ、つってんだよ!」
「何それ吝嗇ケチ! 鬼! 悪魔!」
 何やら程度の低い喧嘩が始まりそうで、敦が苦笑しながら鏡花の隣にやってきた。連れ戻す心算だったけど、これじゃあ時間がかかりそうだね、と嘆息する敦に対し、二人の喧嘩を見て鏡花は一人得心していた。
(――ああ、そうか)
 中也の眸に空虚がなくなった理由。――彼には、仲は悪いがそれでも全幅の信頼を寄せる相棒がいたという話を聞いたことがある。それが、かつてポートマフィアの最年少幹部だった太宰であるということは、組合戦を通し鏡花も知っていた。
(大切な人が戻ったんだ)
 だから哀しみに瞳を曇らせる必要がなくなった。今の彼の眸はきらきらと太陽の光を反射して、剣呑に目を尖らせているのにどこか輝いている。闇の世界の住人でありながら、そんなことは露ほども感じさせない。それを支えているのが自分たちの先輩であるという事実がなんだかうれしく、――同時に、今もなおマフィアの深層に住まう麗人を思った。彼の大切な人は、紅葉の言葉が正しければもう二度と戻って来ない。それを思うと胸の奥がぎゅっと掴まれたような心地がして、首から提げた携帯端末を無意識に握った。
「そうだ、鏡花」
 ハッとして顔を上げると、またも太宰の襟を掴んでいた中也が何食わぬ顔で鏡花を見ていた。「中也、ぐるじぃ……」と濁音塗れの太宰の顔が若干青い。しかし、日々自殺に勤しむ人間のために、中也の行動を態々止めようとする者はこの場にはいなかった。
「彼奴からの伝言。偶には顔見せろ、だと」
「え……」
「愛弟子の成長が今の奴の生き甲斐なんだ。中継ならいくらでもしてやるから、連絡くらいしてやってくれ」
 やっとで解放された太宰が「向こう側で織田作が手を振ってた……」と、何を見たのか息を乱しながらぼそりと呟いた。そんな彼に蔑むような視線を向けた中也は、敦や鏡花と目が合うと困ったように苦笑した。鏡花は端末を握る手に力を込めた。
「私も会いたい。今の私のこと、知ってほしいから」
 中也は一瞬だけ目を丸くし、「そうか」と微笑んだ。
「伝えとく。それ、番号は変わってないか?」
「変わった。ちょっと待って、紙に書く」
 新人らしく常に持ち歩いている手帖に、番号とウサギの絵を描いて渡す。それを中也は確認すると、「慥かに承ったぜ」と、その紙片を胸の内衣嚢の名刺入れの中に丁寧にたたんでしまった。
「おら、手前もとっとと仕事に戻れ」
「えー」
「ちゃんと仕事して定時で上がれたら手前の好きな蟹料理にしてやる」
 その言葉を聞いた瞬間の太宰の顔は、長年稼働していなかった機械人形オートマタの電源を入れたかのようにぎぎっとぎこちなく、それでいてその鳶色の瞳には生き生きとした何かを感じた。それを見ていた敦が「ねぇ、あの二人ってもしかして……」と隣で声を潜めて核心をつこうとするのを、鏡花は首を横に振って遮った。
「幹部があんなに楽しそうにしている姿を私は見たことがなかった。あの人のお陰で心が満たされてるのなら、それはとても素敵なことだと思う」
「鏡花ちゃん……」
「誰かを失くす痛みはよく分かる。でもポートマフィアに拾われた私は、そのおかげで紅葉や中原幹部、そして貴方と出会えた」
 頬を紅潮させ、花が咲くように鏡花は微笑った。「私に戦い方を教えてくれた人はずっと独り、哀しみを抱えて生きていた。でも心を満たす方法はいくらでもある。私はそれを教わった。だからもし叶うなら、私もその人の扶けになりたい」
 探偵社に入って、別件でヴェルレエヌのことを知った。彼は既に死んでいる人だった。だから多くは話せない。それでも敦は、踏み込んではならないというその一線を慥かに感じ取った上で、鏡花に微笑を返した。
「鏡花ちゃんなら大丈夫。きっとその人も喜んでくれるよ」
「だといいんだけど」
 白も黒も、善も悪もなかった貴方から教わったこの力で、私は光の世界を生きている。そんな風に成長した姿を見てほしい。貴方のお陰だと。ありがとう、と。
 その言葉を口にできる日を夢に見ながら、鏡花は敦とともに、放っておくとまた二人だけの世界に埋没してしまう現先輩と元上司の間に割って入ろうと揃って足を踏み出した。



(了)

あとがき
芥川には「殺して」と言った鏡花ちゃんだけど、暗殺術が完璧に身に付くまでの短い時間の中で交わしたヴェとのやり取りはこんな風に穏やかなものだったらいいな、と100%願望で書きました。ヴェさん本編に来てくれないかなぁ。

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