中也は目の前の青年から目が離せなかった。
真昼間の大通り。平日であっても人の往来は衰えることを知らず、会社員やら学生やらが、まるで陽炎のように折り重なり、過ぎていく。誰も彼もが中也と、その青年とを綺麗に避けるようにして横をすり抜けた。二人を取り囲む空間だけが時間の流れを忘れてしまったみたいだ。視界の端に映る周囲の動きは至極緩慢だった。
「手前、なんでその格好……」
低く、腹の底から絞り出すようにして出た声は痛々しく掠れていた。
青年は黒を纏っていた。顔の右半分を包帯で隠した奇妙な――中也の記憶には今なお鮮明に、褪せることなく残る――姿で、残りの左半分に穿たれた黒瞳はきれいな三日月を描いている。しかしその瞳の奥は笑っていない。青年の姿がそのまま現実だったあの頃のように、どこまでも深い闇を湛えている。「なんで。」と、同じ言葉を繰り返す。
よく見れば、最近やっとで見慣れた高身長より拳一つ分ほど背が低いようだった(それでも中也の目線より十糎以上も上から見下ろしてくるのだから腹が立つ)。何かの異能であることは明白で、けれど青年に異能が効かないことは誰よりもよく分かっているので、おそらく幻影系の異能だろう、とあたりをつけて周囲にさっと視線を巡らせた。幻影でポートマフィアの五大幹部を惑わそうとするならその目的は奇襲――それ以外にない。つまり異能力者は、二人の姿を視認できるほど近くにいる筈だった。
「中也、」
視線を外した僅かな隙に、青年の手が黒手套に覆われた中也の手を取った。咄嗟に全身が赤を纏う。――けれどそれはすぐ、青白い光に掻き消された。息を呑み、目を見開く。
「何してるの? 私に異能が効かないってことも忘れちゃった?」
「……手前、本当に太宰、なのか?」
「見ての通り。君の佳く知る、太宰治だ」
太宰と名乗る青年は中也の手を強く引いて歩き出した。落ちそうになる帽子を掴まれていない方の手で押さえ、「待てよ」と声を上げる。しかし、中也は引かれる手を自分の方に引き寄せることも、昔みたいにその背中目掛けて足を上げることもできなかった。しよう、という考えにすら至らなかった。黒い外套を翻してずんずん前に進む身勝手な背中が非道く懐かしかった。
出航間際だったポートマフィアの密輸船に襲撃者が雪崩込んできた。当時周辺の警護を任されたのが太宰率いる部隊だったのだが、関係がない筈の中也まで問答無用で駆り出されていたため、襲撃者の相手は中也が全て引き受けることになった。
「所詮は烏合の衆だ。中也一人でどうにでもなるよ。君たちは下がって、終わったら速やかに荷積み班と拘束班、現場検証班に分かれるんだ」
欠伸をし、コンテナの上に寝転びながらそう宣う太宰の姿は、まったく上司にしたくない男ナンバーワンの座に相応しい。中也は溜め息を吐き、代わりに詳細な班分けと事後の簡単な作戦を指示してから持ち場に着いた。
さもない仕事であった。敵の規模を把握し、船から遠ざけ、武器を無力化して重力で押し潰す。時間にして十分とかからなかっただろう。無線機に殲滅終了の連絡を入れるとすぐさま太宰の部下たちが指示通り動き出し、あとは恙なく、船が出航するのを見届けるだけとなる。「手前、襲撃があるって分かってて俺を配置したな?」と、寝転がったままの太宰の横に立って相棒を見下ろした。
「あくまで可能性の一つだった。――まぁ、それだけじゃないけど」
「ああ?」
よ、と勢いを付けて上体を起こす。ずっと電源を落としていた無線機に向かって二、三指示を出すと立ち上がるので、視線は自然と上を向いた。いつの間にかもう追いつけないところまで背が伸びてしまっていたのが悔しく、不機嫌に口を尖らせ、眦を吊り上げる。太宰は集音機を耳から取り外すと、徐に中也の手首を掴んだ。
「ちょっ」
「いいから。来て」
ずんずんと前を歩く太宰は何を考えているのだかまったく分からない顔をしていた。低く唸るような汽笛の声が背中から恨めし気に追いかけてくるのを感じながら、倉庫街の細い路地を歩く。空には茜色の残滓が西の地平に留まっていたけれど、両側に聳える倉庫の影は黒と藍色が混ざり合ったように底に沈殿していた。
倉庫街を抜けて暫く歩くと街の賑わいが少しずつ戻ってくる。橙色の電飾が辺りを昼間のように照らし、仕事帰りの人たちが数人、笑い声を上げながら連れだって通り過ぎていく。通りには露店が並び、建物と建物の間を、色とりどりの三角旗がつないでいた。広場に向かうにつれて揚げ物のいい匂いが濃く漂ってくる。
「祭りか……?」
「観光客向け、っていうよりは地元の人向け、って感じだけどね」
祭りに来たい、という感覚がこの男にあるとは知らなかった。なにせわざわざ人込みに出向くくらいなら暗いコンテナに一人引きこもっている方がよく、なんなら川を流れる方が有意義とさえ云ってのけるような男である。「来たかったのか?」と問う中也を一瞥すると「質問攻めは得意だがされるのは不愉快だね。覚えておこう」と云うので、思わず短気な拳を振り上げそうになる。しかし、太宰が口を開く方が早かった。
「人込みもこうした賑やかな場も嫌いだよ。でももしかしたら、少しは見え方が変わるんじゃないかと思ったんだ」
「見え方ァ?」
太宰の片瞳が中也を捉えた。電飾に照らされて、艶々とした鳶色が露になる。何も云わず、ただ熱が籠った視線に晒されることに耐え切れなくなって目を背けるが、掴まれたままの手が解かれることはなかった。ついでだから此処で夕食を食べていこう、とまたも珍しいことを口にしながら手を引く太宰に、中也もまた、珍しくも大人しく従った。
路地は薄暗かった。小さく切り取られた空は遠く、地面に穿たれた深い穴の底から見上げているような錯覚に陥る。あれは十七か、十八になりたてくらいの頃だったろうか。もう戻らない日々を惜しむ気持ちはないけれど、目を閉じれば鮮明に思い出される景色と前を行く背中が重なって、警戒心は散り散りになって消えてしまう。「どこに行く気だ」と問う声も、普段太宰本人に向けるそれより幾分か柔らかい。
太宰が振り返った。無邪気そのものの笑みを口許に浮かべている。それは中也に嫌がらせをするときの顔であり、よく見知ったものであったのだが、どことなく子どもっぽいようにも思われた。人差し指を口許に添えてまた正面を向く。相変わらずの歩幅の違いに、気遣いなんてない。けれど不思議と、ふわふわと重力を無視して浮かび上がるときのあの浮遊感が全身を覆っていて、ついていくのも苦ではなかった。
磯の匂い、潮騒、ウミネコの声が、路地の向こう側から微かに感じられる。海が近い。
「知らない人についていっちゃいけないって教わらなかったのかい、君は」
グッと、後ろから首飾が引っ張られて息が詰まり、「ぐえっ」と蛙が潰れたような声を出す。同時にハッとした。きらきらと輝く海が眼前まで迫っていたと思ったのに、そこはまだ路地裏で、そして中也の手を引っ張っていた太宰の手はいつの間にか離れていた。
「まったく。これを連れて行こうだなんていい度胸してるよ」
「……だ、ざい?」
背後には、露になった双眸で正面を睨めつける砂色の外套を身に纏った太宰がいた。首飾ではなく中也の外套の襟首を掴んで離そうとしない。
「ッ、手前なんで此処に……! つか、なんで手前が二人もいンだよっ!」
霞がかった思考が徐々に晴れていく。前には十代の頃の太宰。後ろには今の太宰。その珍妙な光景が、中也に正しく混乱を齎した。
「はぁあ……あのね、中也。私が二人もいるわけないしあんなあからさまな過去の姿でいて異能力以外に考えられないでしょ。君のちっちゃな脳みそじゃそんなことも分からないのかい」
「ンなこたとっくに分かってるっ! けど彼奴、手前の異能無効化をそのまま使ってきやがったんだ」
「そりゃあそうでしょう」
太宰は中也から手を離すと、その横をすり抜けて顔の半分を包帯で覆ったかつての己と対峙した。事の成り行きを無表情に傍観していた青年は、太宰が肩に触れると青白い閃光を放ち、霞のように消えていった。
「――あれは、君の記憶から生み出された正真正銘、“十七歳の私”なのだから」
「…………は?」
太宰は触れた感触を確かめるように右手を握り、人差し指と親指を擦り合わせた。今さっきまでそこにもう一人いたという痕跡は跡形もなく消え去り、初めから二人しかいなかったかのような空虚が充ちていた。
「探偵社が追っていたある異能犯罪組織の中に、記憶を具現化する異能力者がいた。対象者が無意識に“会いたい”と思っている人間を具現化し、引き合わせることで隙を作り、殺すというものだ。発動条件は一度でいいから相手に触れること。道端で肩がぶつかる程度で構わない。異能が対象者の記憶に干渉し、呼び起こし、それが姿形を取って、あとは異能力者の操り人形となって対象者を殺す。異能力者本人が手を汚すわけでなく、殺し終えると具現化された記憶は消えてしまうから、実質犯人なき殺人事件、として軍警が長らく頭を抱えてきた案件だった」
その組織の話はポートマフィア内部でも上がっていたが、特段脅威になるようなものではなかった。寧ろ敵対勢力が互いに潰し合ってくれれば此方が楽できるのだから、無駄な力はかけず傍観に徹するのが合理的だ、というのが首領の判断だったのである。ひと月ほど前の定例会議の中で決まった事項の一つであり、そして数日前、ついにその組織は摘発され、異能力者も捕まったと聞いている。
「無効化が通用するかどうかは正直五分だったけど、おそらく本来の持ち主の方が記憶から生まれた異能よりも上位に位置付けられるのだろう。ポートマフィアに楯突こうとしたか、単にお間抜けな君がその異能力者と知らない内に接触してしまっていたか。――孰れにせよあのまま私が現れなければ、君は今頃海の底で彼と心中することになっていただろうね」
ひゅっと息を呑んだ。
手を引かれ、昔の記憶を鮮明に思い出すごとに思考はふわふわと頼りなく、覚束なくなっていった。それもきっと異能力の副作用的なものなのだろうけれど、抗い難かったのは事実である。
中也は掴まれた手に視線を落とした。
手套越しにも分かる冷たい感触も、人を気遣うことなくどんどん先に行ってしまう身勝手さも、まさしく記憶の通りだった。懐かしさに思ったことは何だっただろう、と思い返し、ぞっとした。
「……それにしても、」
声を受けて顔を上げると、太宰が目を細め、にやにやとした笑みを浮かべながら中也を見下ろしていた。記憶よりもさらに高い位置にある鳶色に厭な予感を憶え、背筋が震えた。
「昔の私に逢いたい、なんて君も随分可愛げがあるじゃないか」
「…………はぁ!?」
「中也なら払いのけるなり蹴り飛ばすなりできただろうに手をつながれてしおらしく付いていくなんて。よっぽど逢いたかったんだねぇ」
「ばっ……ちっげーよ、自惚れんなッ!」
「自惚れ? 私は見たままを云っただけなのだけど。その行為は君にとって“自惚れ”に値するものなのかい?」
「~~ッ!!」
何を云っても無駄だと、吊り上がった口角が音もなく告げてくる。中也はカッと顔中に熱が集まるのを感じて、それを隠すように太宰に背中を向けた。帽子を目深にかぶり、自身にかかる重力を最小限まで軽くして地面を蹴る。先程まであんなに遠かった空があっという間に近くなる。
二つのビルに挟まれた谷底では、外套の衣嚢に両手を突っ込んだままの太宰が肩を竦めて眩し気に空を見上げていた。その表情にかつて見た熱の籠った視線を思い出し、中也は盛大に舌を打って空へと飛び出した。
その頬は、纏う赤とは別の種類の赤に淡く染まっていた。
(了)