最年少幹部は眠らない

「あれは悪魔だ」
 誰かが云った。
 周りに憚るような、囁くような声だった。紅葉の部下として西方に出張する機会が多く、数か月振りに本部に戻ってみれば、そこかしこでどこかぴりぴりとした空気を感じた。人身事故で帰りの新幹線が暫く運休することになり、次の任務に支障が出かねないからと賃貸車レンタカーで長距離ドライブしてきた身としては、疲れに拍車をかける重たさだ。

「今回は三人らしい」「首領も何を考えて」「病院送り」

 聞こえてくる声に溜め息をつく。
 黒服に遮光眼鏡。如何にもといった風体で身なりを整えた、自分より遥かに年嵩の男たちの声には、畏怖や恐怖、忌避が幾重にも織り込まれている。その元凶には心当たりがありすぎた。このままでは埒が明かないうえ、放っておけば被害が増えかねない。
 中也は眉間に寄った皺を深くかぶった帽子の影に隠しながら忌々しげに舌を打った。決済に必要な判子をもらおうと思っていたが、今日中は叶わないかもしれない。擦れ違う黒服に当たり障りのない挨拶を交わしながら、本来の目的地であり、黒服たちが「悪魔」と称する者の居室へと向かった。
「おい、糞太宰――」
 幹部執務室。幹部各人に与えられたその居室は、本来なら敲音ノックをして入るべき場所だ。しかし中也は、そんなことなど構いもせず無遠慮に開けた。何かが高速で飛んでくる。音が早いかそれが早いか。持ち前の反射神経で、中也の躰を赤い気が覆った。眉間の辺りで鉛弾が静止している。異能を解き、ころりと落ちた鈍色の弾を手のひらで受け止めながら、一言。
「随分な挨拶じゃねぇか」
「……なんだ、中也か」
 正面の机に座す黒い悪魔。何を映し出しているのかも分からない濁った黒目が、中也の姿を捉えるなり弓形に撓る。「挨拶をすべきは君の方じゃないかい? 上官の部屋に入るのに敲音もできないなんて、今回の任務でさらに知能が筋肉に吸われたものと見える」
「煩ェよ。つか、なんで俺の任務まで把握してんだよ、気色悪ィ」
「うふふ。でもおかげでいいドライブができただろ?」
「……あれ手前の仕業かっ!」
 どうやら新幹線の人身事故というのはこの男の手引きによるものらしい。被害者の身元は未だ不明だという。普通、自殺を図るにしても時速三百キロメートルで走行する新幹線の上はそうそう選ばない。怪訝しいと思った、と苦々しげに舌を打った。
「それで、何の用だい? 私は生憎暇ではないのだよ」
「印鑑寄越せ。決済に必要なんだよ」
「……普通そこは私に書類を提出するものだろ」
「手前に渡したらいつまでも判捺さねぇだろうが」
 扉を閉め、ずかずかと机の前まで大股に歩み寄る中也を、太宰は何の感情も宿らぬ眸で追った。「それから、」と、書類を乱雑に置いて机を通り越し、椅子の横に立つ。
「……手前、また寝てねぇな」
 腰を屈め、整えられることのない蓬髪をむんずと掴んで上向かせる。柔らかい革張りの椅子に腰掛ける太宰の包帯に覆われていない方の眸の下には、目を凝らさなければ分からない程度の隈のようなものがうっすらと浮かんでいた。太宰は眸を閉じ、中也の手をぱしりと払い除けた。
「中也には関係ない」
「俺には関係ねぇかもしれねぇが周りが迷惑してんだっつの。仕事は進まねぇし、三人も病院送りなんてしてたらいくら手前でもいつか幹部の席から引きずり降ろされるぞ」
「彼らは自分たちが無能だということをこれっぽっちも理解していない。それを理解させてあげるために私がわざわざ重い腰を上げたのだよ。それに、その件については首領も了承済みだ」
「そういうことじゃねぇ、つってんだろ」
 語気を荒げるが、太宰は中也の言葉など意に介さず、乱れた前髪を適当に手櫛で整えている。
 この男がなかなか睡眠を取らないことに中也が気付いたのは、それこそ出会って間もない頃のことだ。常々据わった目をしていると思ってはいたが、片方を覆う包帯の所為でそこに宿る違和感は隠れがちだった。眠らなくても頭の回転が鈍ることはなかったし、躰も機敏に動く。それでも気付けたのは、機嫌の悪さに如実に現れたからだ。
 本人曰く、寝たくても眠れないというわけではなく、そもそも眠りを必要としていないのだという。
「――今ある仕事で俺ができそうな分はやっといてやるから、少しそこで仮眠してろ」
 応接用の長椅子ソファを親指で差した中也の提案に、太宰はきょとんとして目を瞬かせた。そして「え、なに。中也が優しいなんて気持ち悪くて吐きそうなんだけど」と、瞬く間に顔を歪め、心底怪訝そうに、震えを抑えるように両腕を掻き抱く。中也の蟀谷にぴしり、と青筋が奔った。
「……云うに事欠いて手前は、」
「あ、じゃあさ。膝枕してよ。そうしたら寝れそうな気がする」
「は?」
 鳩が豆鉄砲を食らったときの表情というのは、きっとこういうときのことを云うのだろう。拳を握ったまま止まってしまった手に太宰が手を重ね、中也が何かを云い募るより前にすっくと立ち上がった。そして迷うことなく長椅子に座らされる。すぐ近くで一人分の重さが増え、躰が傾いだかと思えば、ふわふわの黒髪が布越しに腿を擽った。
「……は?」
「うーん、やっぱり女性とは違って柔らかくはないね」
 仰向けに寝そべる男がそんなことを云いながらにたり、と笑む。
「……そりゃあ、動いてばっかだからだろ」
 されるがままだった中也はなかなか冷静にならない思考をどうにか通常通りの回路に戻そうと努力したが、努力が空回って本来冷静に突っ込むべきことが分からなくなってしまっていた。そんな中也に太宰の笑みはますます深まる。
「うふふ、そうだね。――とりあえず、三時間後に起こしてよ。ああ、勿論このままでね。書類は起きたらやる。誰か来たら適当に言い訳しておいて」
「あ、おい太宰」
「じゃ、おやすみー」
 仰向けのまま、光を遮るように左腕を瞼の上に翳す。本当に寝ているのかどうかは分からなかったが、暫くして微かに規則的な呼吸が聞こえ始めてきた。「寝てる……」と、認識と同時にぽつりとこぼれた独り言の後、漸く「いやなんで俺で膝枕なんだよ!?」と本来の突っ込みが漏れ出たが聞く者はない。中也は「ったく」と口を尖らせ、珍しく力の抜けた目元を見遣った。
 太宰はもともと、眠るということに重きを置いていない。それは出会う前からずっとそうだったのだろう。寝るのが怖い、というより寧ろ。

「眠りは”死”に似ている。……太宰、手前が焦がれてるもんなんじゃねぇのか」

 夢を見ることのない中也にとって、意識が全くない数時間の眠りは完全なる「無」だった。生や死の概念すらない、空白の、暗闇の時間。そこに身を委ねるのは、裏を返せば「死」を受け入れるのと同じだ。数時間の「無」が永劫に続くことになるかもしれなくとも、意識がないままならばそのことに気付くことはない。「死」を体験として取り込みたいこの男にとって、そうした無意識の死は慥かに望まざるものなのだろう。
ふと思い立って頭を撫でてみた。柔らかな黒髪が手のひらを擽る。するともぞりと身動ぎし、太宰は中也の方に躰ごと向けた。気付かれたかと手を離したが、深い呼吸は変わらなかった。
 穏やかな寝顔。――見慣れない、どこか幼さを残すそれがなんとも不思議で、見ていて一向に飽きることがない。それどころかもっと見ていたいとさえ思う。中也の目元は無意識に綻び既に意識のない太宰へと注がれていた。
 却説、これからどう時間を潰したものか。
 律儀にそんなことを思いながら、とりあえず今は、滅多に見られない相棒の寝顔を暫し堪能することにした。

 ――そして二時間五十二分後。
 太宰の頭を乗せていたため見事に痺れてしまった足を、太宰がすっきりした顔でおもしろそうにつつきまくるのは、また別のお話。



(了)


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