迷信に縋る神様

 幹部のために用意された設えの佳い木造扉の前に、中也はいた。二回の敲音ノックをすること三度。未だ中からの返事はなく、チッと行儀悪く舌打ちする。
 いっそ蹴り壊してやろうか。
 提出物である紙束に皺が寄るのも構わず握り締め、物騒な算段を立てるが、すぐに思い直してグッと押し留まった。堪え性がないと鼻で笑われるのが目に見えていたからだ。人を小莫迦にしたあの視線が向けられるのは、我慢ならなかった。
 それでも四度目の敲音はやや乱暴になった。みしりと厭な音が聞こえた気がしたが、あの男が手ずから開けたときに壊れてくれるのを想像すれば少しは溜飲も下がるというもの。しかしこれ以上は流石に仕事を滞らせるわけにはいかない、と文句を云われることを覚悟で扉を開けた。
「……あンの野郎ッ」
 部屋は蛻の殻だった。机に向かっているべき者の姿はなく、書類の束が山と積まれるばかりである。ポールハンガーに黒外套がかけられたままのところを見ると遠くには行っていないようだが、サボりの常習犯がすぐに戻ってくるかどうかは正直怪しい。中也は応接用の卓子テーブルと革張りの長椅子ソファを通り過ぎて執務机に近付いた。その手前には、墜落した風情の紙飛行機が空しく横たわっている。拾い上げ、開いてみると、なんとそれは先日中也が決済のために持ってきた書類ではないか。報告書の提出がてら回収に来たのだが押印すらされておらず、右下の角から放射状の折り目が無情に広がっている。ぴくぴくと、顔の右側が引き攣った。
「ッたく、やる気がねぇンなら最初っから判子渡せってンだよ。めんどくせぇ」
 誰にともなく苛立ち紛れにぼやきながら、座り心地の良い革張りの執務椅子に腰を沈めた。そして机の隅に転がる万年筆を手に取り筆蓋を外し、あの忌々しい幹部の筆跡を真似て慣れた手付きで必要事項を記入していく。さらりと落ちる髪が鬱陶しい。舌打ちをしながら背中に流し、最後に抽斗の二段目に仕舞われている印鑑を捺せば任務は完了だ。ついでに持ってきた報告書にも印を捺し、ふうっと一つ息を吐く。
 今をときめく脱判子節が、早々に導入されることを願うばかりである。そうすれば無残な紙飛行機が量産されることもないし、抑々中也がここに来る必要もなくなるのだから。
「……邪魔だな」
 度々頬を擽る伸びた髪を一つ摘む。
 組織に加入して二年近くが経つが、思えば毛先を整える程度で、散髪をしたのは随分と前になる。書き物をしていると肩から滑り落ちてくるし、敵拠点で暴れまわるときも、肩口でばさばさと鬱陶しかった。
「切るか」
 思い立ったが吉日だ。中也は勢いよく椅子から飛び降り、帽子を机の上に置いた。そして持っていた小刀ナイフを腰帯から抜き取り、室内にある姿見の前に立った。
 改めて見ると髪は肩の辺りで跳ねていた。嗚呼、こんなに伸びていたのか。そんなことを思いながら、右側の毛束をむんずと掴む。そして小刀を内側に入れ、外に向けて一気に引いた。ぱさり、と赭色が幾筋か散った。
「はぁ……まったく、森さんの人遣いの荒さ、どうにかならないのかな」
 かちゃりと扉が開く音と共に、周囲を脱力させる恨み言が低く響く。独り言にしてはやけに通りがいい。中也が来ていることなど分かりきっていたのだろう。
「やっと帰ってきやがったか」
 中也が眦を吊り上げて振り返ると、太宰は包帯に覆われていない方の目を大きく見開いたまま戸口で固まっていた。なかなか拝めないその間の抜けた顔は愉快だが、その後に続く「何やってんの」と云う地を這う声は、先程とは比べ物にならないほど低く冷たかった。
 ただでさえ中也による四回にわたる敲音で軋んでいた扉が、乱暴に閉じられさらに悲鳴を上げた。しかし太宰がそれに構うことはなく、無を貼り付けたままの顔でつかつかと歩み寄り、小刀を持つ中也の手首を掴んだ。
「ねぇ、何してるのか聞いてるんだけど」
「見て分かんねぇのかよ。髪切ってたんだよ」
 人の部屋で、というのはこの際目を瞑る。仕事が終わってからでも、休日でも勿論よかったのだが、今夜は同僚と呑みの約束をしてしまっていたし、なにより思いついたことはすぐに済ませてしまいたい性分だった。
 だが太宰の怒りの原因は別のところにあったようだ。「はんッ」と鼻を鳴らすと、手首を掴む手にぎりぎりと力を込めた。
「君は私の犬だってことを忘れたのかい? 飼い主に断りもなく勝手に毛を刈ってしまうなんて、どんな駄犬でも聞いたことないよ」
「はァ!? なんで手前にそんなとこまで指図されなきゃなんねぇンだよ! 俺の勝手だろうがっ」
 噛み付きながら、パッと太宰の手を振り解く。
 大体なんで髪を切っただけでこんなにも怒られなくてはならないのか。
 この男が中也に対して理不尽の塊であることはいつものことだが、見下ろしてくる感情の籠もらない鳶色には、理不尽とは異なる純粋な怒りが滲み出ているようにも思える。
 暫しの睨み合いは、太宰の深い溜め息で終わりを告げた。
「とりあえず毛先整えるから。長椅子に座って」
「……手前が?」
 胡乱に目を細め、腰を引いて警戒心を露わにする中也を尻目に、太宰は常備されている救急箱の中から散髪用の鋏を取り出した。
「とっととして。でないとバリカンで全部剃るよ」
 長椅子を指差す太宰は不機嫌さを隠しもしない。それでも全剃りだけは勘弁願いたいので、中也は渋々椅子に腰掛けた。
「あーあ、こんな不揃いな切り方しちゃって」
 古新聞で肩周りを囲い、足元や座面にも多めに新聞を敷いて準備を整えると、無残な姿になった髪を手櫛で梳かしながら、太宰はぽつりと力なく云った。
「しょうがねぇだろ。他に方法がなかったんだから」
「そういうときは普通床屋に行くもんでしょ」
「刃物持った知らねぇやつに頸なんか晒せるか」
 しょきん、と刃物の擦れる音が耳元で響いた。触れる金属の冷たさと相俟って、背筋にぞわぞわとした悪寒のようなものが奔る。
「……へぇ。私ならいいんだ?」
 ハッとして振り返ろうとするが、すぐさま「前向いてて」と両側から顔を押さえ込まれてぐっと正面を向かされる。だから分からなかった。太宰を取り巻く黒く滾る焔の揺らぎがすっかり消え去り、後に残ったのは、緩む頬を懸命に抑え込もうとする彼の珍しくも奇妙な表情であったことに。
 太宰ならいい、という言葉に今さら「違う」とも云えず、中也は小さく舌を打った。
「もしかして〈羊〉の頃から?」
「……まぁ、な」
 ふぅん。――気のない相槌だった。
 耳朶くらいの長さまでざんばらに切られた髪を揃えていく手付きは意外にも器用なものだった。一つだけ怖いことがあるとすれば片目を包帯で塞いだ状態で距離感がちゃんと測れるのかどうかだが、それは杞憂だったようで、鋏を持つ手は危なげなく毛先を梳いていく。
「――まったく。君の褒められるところなんて異能と体術のコンビネイションとこの無駄に綺麗な髪くらいなのに、とんでもないことをしてくれたよ」
「悪かったな。……つか、なんだよそれ」
 さらりと吐き捨てられた言葉に引っかかりを覚えた。しかし太宰は答えなかった。
 小刀で切られた箇所を丁寧に整えて、ついでに残った左側の毛束も、右側との境目が不自然にならないよう分け目の辺りから少しずつ長さを揃えていく。鋏の動きや音にも慣れてきて、存外落ち着いた柔らかな手付きにうとうとしだしたところで、太宰は云った。 「私がいいと云うまで髪、切らないでよ。毛先整えるくらいは許すけど」
「だからなんで手前にいちいちそんなことまで指図されなきゃなんねぇンだって」
 櫛に持ち替えて梳かしていく。癖があるわりには通りがよく、「ふわふわ」と無邪気に笑う声が聞こえた気がしたが、中也はもう、振り返らなかった。

 綺麗な髪、ななどと云われたこともなければ考えたこともない。それがこの男の口から出たという事実が信じられなかったのだが、その真意を推し量ることはできなかった。
 ただ太宰が中也の髪を気に入っているのは慥かなようで、切り終えた後もその出来に満足そうに頷いて、「これはこれでありかな」などと一人得心していた。
 女であれば、見ためだけは美しい男に髪が綺麗とか膚が綺麗とか云われれば頬を染めて喜ぶところだったのだろう。だが生憎と中也は男であったし、態とらしいその美辞麗句に恥じらいを感じるような奥ゆかしさもない。……そう、なかった筈だ。ずっと。


「伸びたねぇ」
 ペットボトルの水をこくりと嚥下したとき、背後の男は間延びしたように云った。ちらりと視線を向ければ、肘を枕につき、手で頭を支えて半身を起こす太宰と目が合った。伸びてきた右手が、素肌を撫でる髪にするりと指を絡ませる。
「四年も伸ばすとこんなになるんだ」
「……正確には五年だがな」
 ぱしりと払い落とした手に飲みかけのペットボトルを押し付ければ、やれやれと肩を竦めて大儀そうに躰を起こす。
「どうせなら蓋開けててよ」
「零すだろうが、手前は」
 太宰は水を飲むことなくサイドボードにペットボトルを置いた。そして一度は払いのけられたというのに再度中也の髪に触れた。指先が掠めた左の項の辺りには、うっすらと赤い痕がついている。「……まぁ、どちらにせよいろいろ隠せるから私にとっては都合がいいのだけど」
 別に鬱血痕キスマァクを隠すために伸ばしているわけではない。中也は文句を云おうと振り返りかけたが、続く言葉にぴたりと動きを止めた。
「せっかくの願掛け、だものね」
「……なぜそう思う」
「だって、慥かに私は勝手に髪を切るなとは云ったけれどもいなくなった時点でそれを守る理由が中也にはなかった筈だもの。君は昔から私の云うことなんてこれっぽっちも聞きやしない。だのにいなくなった後も髪だけは伸ばし続けた」
 なぜか。――云いながら、ぐっと髪を掴んで引き寄せた。均衡バランスを崩し、包帯が巻かれた男の胸に倒れ込む。
「私の所在、もしくは生死の如何を、賭けていたんじゃないのかい」
「……ふん。随分と自信過剰だなぁ、おい」
「真逆。ただの確信さ」
 いつか再び巡り合うことができますように、なんてしみったれたお伽噺のような展開を期待したわけではないし、柄でもない。けれど完全に否定もできなくて、中也はその薄い口唇の端を持ち上げた。そして素肌を撫でる手を意に介すことなく、胡坐を掻く男の膝に手をつき、耳元に口を寄せた。
「手前が死んだら、この髪ごと海に流してやるよ」
 好きなんだろ? と吐息を吹きかける。太宰はきょとん、と目を丸くしたが、やがて大きく息を吐いた。
「昔から気に食わなかったけど、さらに拍車がかかった気がするよ」
「そいつは何よりだ」
 したり顔で笑う中也に「やっぱり気に食わない」と云って尖らせた口唇を押し付けて、再び敷布シィツの海に二人で沈む。
 軋む寝台に、あのとき壊しかけた扉はどうなったのだったか思い出そうとするが、熱を孕む手が、口唇が、縦横無尽に這い回れば、そんなことはもうどうでもよくなってしまうのだった。



(了)

あとがき
旧題「幹部が髪を伸ばすワケ」。今になって思うと姐さんの下にいて身なりを気にしないわけがないからこんな乱雑なことはしないと思います。ストブリ→龍頭抗争の間を見てもちゃんと整えてるみたいだし。……ただそんな彼がなんで4年間髪伸ばしてたのかなー??と、やっぱりちょっと勘繰りたくはなりますよね。

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