にじむインクは恋模様

 陽の光を集める黒い外套が、海風を受けてゆるりと靡く。
 調子っぱずれの鼻歌が風に攫われる。豊かな蓬髪がふわりと揺られ、隙間から覗く白い包帯と同じくらい白い膚が陽光に晒された。石畳を叩く足音はどこまでも軽やかで、その上機嫌さが窺える。
 そこに、背後から小石が蹴り飛ばされた。重力を捻じ曲げられた小指の爪ほどの小さな石は、常であれば石畳に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせるところであったが、黒い革靴に当たると忽ち元の力ない石ころに戻り、ころん、と落ちた。
「ちッ」
 古くから愛用しているライダージャケットの衣嚢ポケットに手を突っ込んだまま、中也は聞えよがしに舌打ちした。軽やかだった革靴の足取りがぴたりと止まる。
「ちょっと」
 包帯に隠されていない方の鳶色がじとりと睨む。「水差さないでくれないかな」
「は? なんのだよ」
「僕は気分良く購い物に興じたいのだよ。なのに君は散歩を拒否する飼い犬のようにうじうじと」
「おい手前、いい加減その犬呼ばわり止めろよ」
 草臥れたサイズ違いの帽子の下で、蒼の双眸が猫のように吊り上がる。太宰は「やれやれ」と肩を竦め、しかし、いつもはすぐに飛び交う筈の厭味は鳴りを潜めていた。代わりに含むような笑みをその口許に湛え、
「うん、でも今日のところは許してあげよう」
「手前なんかに許しを乞う心算はねぇし従う心算もこれっぽっちもねぇよこの万年木乃伊男が」
「じゃあなんで来たのさ」
「そりゃあ、首領が」
 云いかけて、言葉を呑み込む。にやにやと笑う太宰はくるりと身を翻すと、中也のことなど構いもせず歩き出した。


 二人が昼の街に繰り出したのは任務ではなかった。
 ただの購い物。――そう、ポートマフィアに入って初めての給料を、首領直々に手渡されたからだった。
 まとまった金を持ったことは、子どもである二人にはまだ、経験のないことであった。抑々中也がいた擂鉢街は、スリ、万引、強盗、略奪、なんでもありの無法地帯。ひと度金子を持てば忽ち誰かが襲いかかってくるような物騒な場所で、無力な子どもが襲われればひとたまりもない。だから中也は、仲間だった者たちに必要以上の金を持たないよう忠告したし、また自身も、手持ちは常に少なかった。
 森に渡された封筒には、普通に生活する大人からすれば大した額ではなかったが、それでも中也には目玉が飛び出るのではと思えるほどの額が入っていた。それこそ、誰かの誕生日に普段よりちょっと豪勢な食事を用意したときよりもずっと多い。
「購い物に行くときは仲良くね」
 自分で初めてまともに稼いだ金を前に初々しい反応を示す中也と、特に興味なさげに封筒を閉じた太宰に対し、森はにこやかにそう云った。
 太宰とともに首領執務室を辞した中也は、早速何に使おう、と頬を紅潮させた。新しい服も欲しいし、家具だって揃えたい。最近は煙草にも興味がある。帽子をくれた蘭堂の墓に新しい花も手向けたい。
「よし」
 同じように何か黙考していた太宰が「購い物に行くよ」と中也の手頸を取ったのは、昇降機が一階に到着する軽妙な音を響かせたときだった。いつもは死んだ魚のような生気のない目をしている少年が、まるで悪戯を思いついた子どものように表情をきらきらと輝かせて街へと繰り出す。中也は言いようのない悪寒に身震いした。
 仲良く、と云われた手前無碍にすることもできず、せめてもの抵抗で手頸を掴む手は早々に振り払った。しかしそんな中也の態度でさえ、どこか上機嫌な太宰の前にはそよ風も同然だった。厭味一つなく鼻歌交じりに目的地に向かう背中はいっそ気持ちが悪いほどだった。 「ここでいいか」
 言葉少なに辿り着いたのは洋装店ブティックだった。小綺麗なアクセサリィや香水、洋服などが、飾窓ショーウィンドウ越しに道行く人を誘っている。中也には馴染みのない類の店で少々気後れしたが、太宰は躊躇いなく中に入っていった。
 入ろうかどうしようか逡巡する。場違いな気がしたのだ。抑々ついていく義理もない。
 けれど置いていくのも気が引けて、結局腕を組んで店先の壁に寄りかかった。磯の香りを含む風がさらりと通りを駆けていった。
 ふと隣の建物から、きらりと光る何かが視界に飛び込んできた。なんだろう、と頸を傾げる。
 見れば、洋装店と同じような飾窓の中に、森が使っているような羽ペンや万年筆、墨汁インク瓶などが整然と並んでいるのが見えた。華やかな洋装店に対し、しっとりと落ち着いた雰囲気で、心が惹かれた。
 目の前に立つと、気品に溢れる万年筆がとても精巧に造られているのだと分かる。一種の芸術品である。値札を見ると、今の中也でも買える手頃なものから、一体どれだけ貯め込めば手が届くのだろうと思うような高価なものまで様々だった。
(……いいな)
 マフィアと云えば血腥く暴力的な獣のような印象があるし、ペンより機関銃を、紙より榴弾を持つのが普通だと思っていた。しかし森や、現上司の紅葉を見ていると、こうした小物で品位を高めることは大事なことのように思える。幸い多少の読み書きはできるし、今後幹部を目指すのであれば紙の上の仕事も必須になってくる。使い熟せたら格好いいだろうなぁというある種の憧れは、誰しも一度は抱くものだろう。
 せっかく初給料が入ったのだから買ってみようか。
 そう思ったが、ふと耳奥で「君が万年筆? 宝の持ち腐れじゃない?」と嘲笑する太宰の声が聞こえた気がして、衣嚢の中の拳に力を込める。
 慥かに自分は机に向かって何かを書くようなタイプではない。寧ろいつもすまし顔のあの自殺嗜癖野郎の方が、こういう小物はよく似合う。分かっている。
「……俺が幹部になったら絶対ぜってェ見返してやる。その担保だ」
 中也は決意を新たに衣嚢から拳を出し、ウェストポーチにしまった財布を取り出そうと背中にその手を回した。
 ――しかし、それが財布に届くことはなかった。
 乾いた発砲音が数回。それに驚いた鳩が数羽、休息の場所から一斉に飛び立っていく。道行く人たちのざわめきが増し、「今の音は」とあちこち見回す。その表情は不安と恐怖に揺れている。
 昼間の、しかも一般人が普通に行き交う街中で、このような荒廃と暴力の匂いを感じることはあまりない。せいぜい、貧民街からの流れ者が、金持ちの鞄や財布を狙うところを目的するくらいである。いくら治安が不安定とは云え、棲み分けは意外なほどきちんと取れている。
 音は路地の奥、建物と建物の間で反響するように聞こえた。既に誰かが市警に連絡したかもしれないが、中也はその前に現場を確認しよう、とすぐさま近くの路地裏に入り込み、重力操作で建物の屋上へと飛び移った。真っ青な空がぐん、と近くなる。風に攫われそうになる帽子を左手で押さえ、走る。
 場所はそう遠くなかった。
 文具屋とは反対側の洋装店の隣の店。その裏手に少し進むと、床面積の異なる建物同士が不完全なパズルを組んだことで出来上がった、空白になった空間が現れる。
 そこには二人の人間がいた。
 一人はごうごうと音を立てる室外機の上に倒れている。背後の壁には飛び散った血痕が付着していて、よくて重傷、悪ければ死んでいるだろうことが窺える。襤褸を纏ったもう一人が布の隙間から拳銃を構えていた。銃口からは白い硝煙が立ち上っている。状況は火を見るより明らかだった。
「おい」
 中也はそのまま襤褸の前に降り立った。
 周囲の建物に被害が出ないよう、そうっと。ちらりと背後を見ると、倒れた男は既に事切れていた。
 まるで羽が舞い降りるように建物の屋上から降ってきた子どもの姿に、襤褸の奥の目が丸くなる。そしてくっくっ、と喉が鳴った。
「餓鬼か」男の声が云った。
「ここはポートマフィアの縄張りだ。厄介事は勘弁してくれ」
「ほう。坊主、あの悪名高い組織の狗か」
「っ、俺は犬じゃねぇ!」
 吠えながら反射的に回し蹴りを叩き込む。重力を載せた蹴りは当たれば頭蓋が粉々に打ち砕けるほどであったが、襤褸を靡かせたその者はひらりとあっさり躱してしまった。「なるほど、噂は本当であったか」と、一人得心し、頷く。
「擂鉢街を根城にしていた〈羊の王〉が、自らが支配する重力をある者に捧げ渡したと聞いた」
「……手前、何者だ。なんで俺のことを知ってやがる」
「お前は良くも悪くもこの界隈じゃ有名だ。情報はそこら中、掃いて捨てるほどある」
 男の言葉を理解するのは容易かった。
 中也がポートマフィアに下る瞬間を知っている者からの――嘗ての仲間たちからの情報だ。まだ塞がったばかりの背中の傷が、しくしくと引き攣るように痛みを訴えていた。
「それに」男は舌なめずりをした。
「一度、お手合わせ願いたかったところなんだ」
 低く、地を這うような声が、笑うように空気を震わせた。
(なん、だ……?)
 男の纏う空気が変わった。殺気とも異なるそれが、ぴしぴしと膚を打つ。
 野生の勘が告げている。
 此奴は、ヤバい。
「異能を使えるのはお前だけではない。お前だけが特別なのではない。――私はね、触れた相手の力を模倣コピーする能力を持っているんだよ」
「ッ!?」
 男の荒れた手が、中也の骨ばったそれを恭しく掬い上げた。
 途端に、己の意思とは関係なしに、躰が急激に重くなった。「これは素晴らしい!!」男は恍惚と叫んだ。
「人も動物も、星々ですら抗えない自然科学における絶対の真理! その理を超越し、歪曲することで、自然すら支配下におけてしまう。なるほど、何故皆が〈羊〉を畏れたのか、この身に得て初めて理解した。――ははッ」
 中也は目を見開いた。
 ――違う。自分は、自分の存在こそが異能そのものなのだ。
 重力を操作できるのは己が高エネルギー生命体として生まれたからであり、そこには異能のような不可思議な理屈は存在しない。混沌とした高密度天体ブラックホールを制御するのが、外皮としての〈中原中也〉の役割である。つまり誰かが異能として模倣することは、本質が異なる以上、本来であれば不可能なのである。
 自身にかかる負荷を、自らの重力操作で相殺し、後方に飛び退く。そして気付く。
 襤褸の男は「力を模倣する」と云った。つまりそれは異能に限らないということだ。歯軋りのしすぎで奥歯が痛かった。
「一つ教えてやろう。私は能力を模倣したあと、力の元になった者を殺す。その男もそうだった。男は並外れた身体能力を持っていた。お陰で貴重な銃弾を五発も使う羽目になってしまったが、その驚異的な力はお前の破壊的な蹴りを難なく躱せるほど素晴らしいものだった」
「……ふん、見かけによらず随分とお喋りなんだな。嫌われるぜ、そういうの」
「せめてもの餞だよ。年端もいかぬ子どもが、己が持つ大きすぎる力に殺されるんだ。種明かしでもしないと不公平だろ?」
「ッ、随分見縊られたもんだなア!!」
 衣嚢に手を突っ込んだまま、とん、と地面を蹴った。重力を軽くした躰は、撥条の上を飛び跳ねたかのように男に向かって鋭く突き刺さる。触れる寸前、足が腹の辺りを捉える。しかし男は片腕で防御ガードしつつ、異能を発動して横に飛び退いた。その瞬間、力同士がぶつかり合い、男とは反対側へと弾き飛ばされる。近くの壁に着地し、すぐに足を蹴り出す。弾丸のような速度で迫りくる中也の躰を男は紙一重で躱す。着地した地面に亀裂が入る。
 見たところ男は、力の殆どを異能に頼っている。室外機の上に転がる男の身体能力、中也の重力。もしかしたらほかの異能力者の力もあるかもしれない。
 どのように出力しているのかは定かでないが、それがなければただの襤褸雑巾のようなものだ。倒すのに一分もかからないだろう。
「防戦一方かよ。もう少し戦ってみたらどうだ?」
 次々と繰り出される中也の足技を、男は器用に避けていた。時折ぶつかれば強大な力がそれぞれを覆い、爆風にも似た衝撃波が路地全体を駆け巡る。砂埃が舞い、使われているかどうかも分からない建物の硝子窓にぴしりと亀裂が走る。
 小柄な躰を生かし、柔軟な撥条を生かし、それでも相手はなかなかにしぶとかった。焦りを感じ始めた刹那、顔面を狙った足が男の手にあっさり捉えられた。
「ッ」
「蹴り技ばかりと聞いていたけどまさにその通りだった。蹴りは間合いが長い分、隙を生みやすい。誰かに指摘されたことはなかったようだね」
「っ、だからなん……うわッ」
 ブンッ、と中也の幼い躰はあっという間に抛り投げられた。受け身を取る暇もなく、負荷がかかった躰は建物にめり込み、背中を強かに打つ。頭がぐらぐらする。
「却説、反撃の時間だ」
 銃弾が効かないことなど既に把握済みなのだろう。男は恍惚としたまま拳を握った。
 触れれば衝撃波が二人を襲う。ほんの一瞬判断が遅れればどちらかが粉々になる。中也は呻きながら、痛む躰を押さえて立ち上がった。まるで生まれたての子鹿のように覚束ない足元に、男の口許は愉悦に歪んだ。
 そこに。
「わぁ、まさに犬も歩けばなんとやらって感じだねぇ、君」
 男の背後から響き渡ったその声は、路地に充満する殺気の渦をあっという間に掻き消してしまうほどに暢気なものだった。コツン、と混凝土を叩く音が悠長に近付いてくる。
「……おっせーよ、糞野郎」
「ふふ、大人しく”待て”もできないくせに」
 太宰は「面白いものを見た」とでも云うように目元を細めて中也を見下ろしていた。表通りにつながる方角を背に、黒い外套を靡かせている。
「お友達かな、坊主」
 一時蚊帳の外に置かれていた男がやっと言葉を発すると、太宰の鳶色の片目がきょとん、と丸くなった。「やだなぁ、こんなやつと友達なんて御免だよ」
「それはこっちの科白だ!」
 すかさず言い返した中也を無視し、太宰は襤褸に覆われた躰を上から下まで丹念に眺め回し、やがて「嗚呼」と、特に興味もなさそうに嘆息した。
「最近噂になってた異能力者狩りの人か」
「そんな噂あったのかよ」
「今日出かけたついでに会えたらいいなぁとは思っていたけれど、……え、なに中也。君もコピーされたの?」
 明らかに人を小馬鹿にしたような目が向けられる。文句を云おうと思ったが、事実なので何も云えない。「うっせぇ」と視線を逸し、唇を尖らせるのが関の山だった。
「力をコピーされるのは厄介だけど、森さんが何も云ってなかったってことはその程度ってことでしょう。まぁ、最近はちょっと調子に乗りすぎだったみたいだけど」
 太宰が目を向けたのは、既に事切れた男の方だった。
「なんにせよ、僕の敵じゃあない」
 不適で、不遜で、傲慢な笑みが浮かぶ。子どもらしからぬそれは、躰中に巻かれた包帯と相俟ってどこか不気味さを纏っていて、男はぐっと息を呑んだ。しかしすぐに口許を歪ませ、大人の余裕を見せつける。
「あまり大口叩かない方が身のためだよ、坊主」
 男の荒れた手が、太宰の顎をむんずと掴んだ。
「なるほど、お前も異能力者だな? 〈羊の王〉が、ポートマフィア子飼いの能力者と組んでるという話は既に聞いてるんだ。――お前の力ももら」
 男の言葉は最後まで続かなかった。
 太宰に触れた瞬間、男の手から青白い閃光が迸ったのだ。驚愕に彩られた双眸が一瞬だけ太宰を捉える。しかしすぐに襲った衝撃に、悲鳴を上げることなく失神する。
 背後では、中也の膝が容赦なく後頭部にめり込んでいた。頭蓋を砕くには至らなかったが、脳震盪を起こすには十分すぎる威力だった。
「……まったく、口吻キスされるんじゃないかと思ってひやひやしたよ」
 太宰は掴まれていた顎を、まるで汚いものが触った後のように手で軽く払った。その目は嫌悪に塗れ、倒れ伏した男を睥睨している。
「そのまま口から脳味噌吸われて死ねばよかったのにな」
「口から脳は吸い出せないよ。吸うなら耳穴だ」
「ああ、そうかよ」
 鼻で笑い、脱力した中也はその場に腰を下ろした。打ち付けた箇所が痛む。肋骨の一本や二本は折れてしまっているかもしれない。
「……ったく、ひでぇ目に遭ったぜ」
「でも君、僕が来て此奴の異能無効化するの待ってたでしょ」
「……待ってねぇよ、自惚れんな」
「だって、でなかったら蹴り技だけで対処しようとはしないでしょ。君の力の大きさは君自身が一番よく知ってるもの」
 じろりと睨み付ける中也には構わず、太宰は外套の衣嚢をあさり始めた。はたと気付く。
「手前、俺と此奴の戦い見てたな?」
「邪魔すると怒ると思って」
 取り出した携帯端末で本部に連絡を取る。もうすぐ駆けつけるであろう市警の目に触れる前に退く必要があったからだ。
「……まったく、躾のなってない犬はこれだから」
「まだ云うか、手前」
 細い躰で中也の躰を支える。節々が痛みを訴えており、自ら歩くこともままならなかったので助かった。
 そのまま中也は、ポートマフィアが提携する病院へと運ばれた。


「うわぁ」
 二日後、病室を訪れた太宰の目に入ったのは白い寝台に半身を起こして本を読む中也の姿だった。紅葉が持ってきたその本は中也の好きな詩集だったが、太宰にとってはそのように大人しく読書する中也というのが信じられず、思わず声を上げた。
 部屋に入ってきた太宰の姿に、中也も「げ」と顔を顰める。
「何しに来た」
「病院で見舞い以外にあるとしたら暗殺くらいかな?」
 手には果物が入った籐籠。それを視認した瞬間、中也は心が浮き立つのを抑えるのに必死になった。「これは森さんから」と、寝台横の棚の上に無造作に置かれる。
「……具合は?」
「なんてことねぇよ。全身打撲以外は肋が二本逝っただけだ」
「どうせならその肋が内臓に刺さっててくれればよかったのにね」
 いちいち癇に障る云い方しかできないのか手前は、と云いかけた中也の膝の上に、紙袋がぽんと投げ出された。小さい袋だった。投げ渡してきた相手を見るといつものにやにやとした笑みはそのままに、
「あげる。僕からのお見舞い」
「いらねぇ」
「え、ひど」
「手前がタダで物渡すわけがねぇってことくらい分かってンだ。そんな危険なもん受け取れるか」
 自分の胸に手を当ててこれまでの行いを振り返ってみてほしいものだ。中也は虫でも払うようにしっしっ、と手を振ると、太宰は脣を尖らせながら紙袋を手に取った。かさかさと乾いた音を立てて中から取り出されたのは黒い革製の首飾チョオカー。バックルを外し、中也の頸に恭しく回した。
「これでよし」
「……ンだよ、これ」 「ふふ、躾のなってない飼い犬には首輪コレでしょ、やっぱり」
「なッ! てか、勝手に着けんじゃねぇよ!」
 急いで外そうとしたのだが、「帽子に合うやつ選んであげたんだから大切にしてよ」なんて云われてしまうと、その手は金具に触れたまま止まってしまう。
 中也の頸より少し緩いくらいのそれは、黒々とした異様な存在感を放ってそこに収まっていた。白い膚によく映える、と太宰は満足そうに微笑んでいる。中也は苦々しげに舌打ちした。
「――まぁ、躾云々は置いといて。君をマフィアの世界に引き込んだのは直接的には僕だからね。本当はあの日あげる心算だったのだけどそれどころではなくなってしまったから」
「……だから洋装店なんかに行ったのか」
「昔の慣わしに乗っ取るなんて自分でも馬鹿げてるとは思ったけどそれらしいことはしとかないと。あの草臥れ帽子よりはいい感性センスしてると思うよ?」
「……ふん、云ってろ莫ァ迦」
 病室の白い窓掛カーテンを揺らす風が、黒い豊かな髪をさらりと撫ぜる。包帯に隠されていない鳶色が子どもらしい惑いに揺れているのが垣間見えてしまい、中也は静かに目線を逸した。そこに映る自分もまた、困惑を隠せてはいなかった。
 二週間の安静を言い渡された中也だったが、驚異的な回復力を発揮し一週間ほどで普通に歩けるまでになっていた。
 休暇を利用して訪れたのは、過日硝子越しに見た万年筆がある文具屋だ。古びた木目が瀟洒な雰囲気を醸す店内には二、三人の客がいるばかりで、外の喧騒とは打って変わった心地好い静けさに満たされていた。棚には万年筆やら羽ペンやら硝子ペンやらが陳列されていたが、一番手に取りやすい目線の高さの棚にあった一本を手にとった。
 黒く滑らかな胴軸が美しい万年筆。キャップの部分にも金の細工が施されている。頭の部分が少し重かったが、それが却って手に馴染むように思えた。中也はその万年筆と墨汁瓶を一セット購入した。「贈答プレゼント用ですか?」と笑顔で訊ねる店員に束の間逡巡し、やっとのこと小さく頷くと、黒く光るペンによく似合う、黒く艷やかな箱で丁寧に包装ラッピングされて差し出された。
 いらないと云われたら自分で使えばいい。――そう思ったのだが、中也がその万年筆に墨汁を入れる日はついに訪れなかった。なんだかんだ頻繁に病室を訪れる太宰は、差し出された箱を前に目を丸くした。中身を確認し、驚きに見開かれる瞳。きゅっと引き結ばれた口許がやがて不自然に綻ぶと、「ありがとう」と、素直な言葉が発せられた。
「単なる礼だ」
 中也もまた、外方を向いて嘯くことしかできなかった。


【Side:D】


 そのバーは寂れた裏路地の建築物ビルヂングの一階にあった。
 あまり人が訪れないそこは、カウンター席が八つと二、三人掛けの客卓が二つある程度の小さなバーだ。常連が八割を占め、夜の世界に生きる者たちにとって束の間の休息の場にもなっていた。
 音量を押さえたジャズが時の流れを琥珀色に染める。それはグラスの中のウィスキーに似て異なり、回顧はさらに遠く、想いを馳せる。
 入り口の釣鐘がカラン、と静かな音色を奏でた。
「いらっしゃいませ」
 カウンター越しにグラスを拭いていた初老の店主が、単眼鏡モノクルの下の目元に小皺をいっぱいに刻み、新たな客人を迎え入れた。
 手帳に走らせていたペン先がぴたりと止まる。足音もまた、ぴたりと止まった。息を呑むような気配が伝わったが、やがてすぐ、それは何事もなかったように動き出し、背後を横切った。一つ席を開けた隣に、それは腰掛けた。
「……最悪だな」
「最悪だね」
 静かな店内には似つかわしくない剣呑な空気が漂う。しかし店主にとっては慣れたものであった。顔色一つ変えずにこやかに、今しがた腰掛けたばかりの茜色の髪の青年の前に、深紅を注いだ丸グラスをことりと置いた。
「なんで手前がいンだよ」
「私がどこで酒を嗜もうと中也には関係ないよ」
「場所考えろよ。俺には関係ねぇが他の奴らはそうもいかねぇだろ」
「何か云われたときはそのとき考えるさ」
 会話はそこで途切れた。
 ウィスキーに溶かされたロック氷がグラスとぶつかり、からりと涼やかな音を立てる。
 店内は照明が落とされており、客の人数は分かっても、顔まではなかなか判別できない。客卓でマフィアの人間が女性と逢瀬を楽しんでいたとしても、誰もそれが黒社会の人間であるとは気付かないだろうし、それはこの店にあって、さして珍しい光景ではなかった。ただ、その中でも一等明るいカウンターに、五大幹部の青年が一人陣取っていたとしたならば、マフィアの人間にとっては針の筵に座らされているようなものなのでは、と太宰は思った。
 葡萄酒を舌の上で転がす中也の前に、注文したきり手付かずだった乾酪チーズ盛りの小皿をスッと滑らせる。片目でそれを捉えた青年に、「あげる」とひと言。
「……見返りは」
「やだなぁ、乾酪くらいでそんなの求めるわけないじゃない」
 ひらり、と手を振る太宰の方を向いた中也は、訝るようにその蒼の双眸を眇め、数秒間、凝視した。人を――と云うか太宰を疑う目は、彼がどれだけの嫌がらせをその身に受けてきたかを物語っていた。
 しかし何も読み取れないと見るや否や飽いたように息を吐き、乾酪を口にする。「ちびっこは乳製品をたくさん食べないとね」と含み笑いとともに囁く。
「テメッ」
「はいはい。ここ、店の中ね」
「……」
 太宰よりも良識ある中也は、状況を理解しすぐに言葉を呑み込んだ。幹部は大変だなァなどと他人事のように思う。
 ちなみに数枚ある乾酪のどれか一つにはたっぷりと好物の味の素を振り掛けてある。その秘かなロシアンルーレットに気付くのは果たしていつのことだろうなどと考えていると、「それ」と、中也が口を開いた。先程とは打って変わり、その声はどこか頓狂な響きを帯びていた。
「ん?」
「まだ使ってたのか」
 中也の目が捉えていたのは、太宰が持つ万年筆だった。覚書メモを取る習慣はないのだが、つい、このペンを使うためだけに書いてしまう。太宰は指先でくるりとペンを回した。
「まぁね。重たいし書きにくいけど、わりと愛用してるよ」
「手前はいちいち減らず口叩かねぇと気が済まねぇのか」
「真逆、事実さ」
 くるくると回る万年筆は、重いので軸がぶれにくい。慣れてしまえば回しやすいのだが、愛好家が知れば「そんな乱雑な扱いをするな」と目くじらを立てて怒鳴られるだろう。しかし残念ながら周囲にそのような者はない。いたとしても、特にこだわりがあるわけではない太宰が聞く耳を持つことなどなかっただろうが。
 頬杖をついてその様子をぼんやり眺めていた中也が、ふと、
「……それ、そんなデザインだったか?」と、胡乱げに顎で示したので、やっとその手が止まる。
「……気付いた?」
「あんまよく覚えてねエけど。もう少しキャップの金の幅が小さかった気がする」
 蛞蝓のわりにはいい記憶力だ。
 万年筆は、七年前に中也が太宰に贈ったものだった。ちょうど、今中也が身に着けている首飾を渡した頃のことだ。怪我をしているのに病院に内緒で抜け出して購いに行ったもの。タイミングよく中也が看護師にこってり絞られているところに出くわし、太宰は大爆笑した。そこで渡されたのだ。看護師が出ていった後、憮然としたその顔で。
「中也がくれた万年筆はねぇ、二年前にどっかいっちゃった」
 物持ちの良い中也は文句を云いながらも首飾を大事にしているらしく、外したところを見るのは稀だ。経年による草臥れ感が彼のトレードマークでもある帽子とよく合っている。
 そんな中也に報告するのは、まるで自分が物を大事にしない人間のようで癪ではあったが、太宰は敢えてそれを口にした。
「……ふぅん」
 惚けたような太宰の声とは対象的に、中也の目が一瞬、何とも云えない色を帯びる。傷ついた、というのが一番近いかもしれない。酔いが回り始めたのか反応が少しばかり素直になっている。
「ちょっとした事件に巻き込まれちゃってね。でも大活躍だったよ」
「あ、そ」
 葡萄酒を呷る。分かりやすく拗ねている中也に自然と笑み溢れる。
「ただ長年愛用していたから失くすとなんだか惜しくて。君が購ったっていうお店を探して店員さんに特徴を伝えたらこれが渡された。あの万年筆の後継モデルなんだって」
「……店のことなんかよく覚えてるな」
「そりゃあだって君、あんな刺戟的な一日のこと忘れられるわけないよ」
 ――そう、刺戟的だったのだ。
 初給料をもらった喜びを隠しもしない相棒の莫迦みたいに子どもっぽいところも、思いついた悪戯を実行に移すまでのワクワクも、組織とはまるで関係のないところで起きた喧嘩も、悪戯に成功し――なのに悪戯を仕掛けた相手が、思いがけず最後はうれしそうにしていたことも。
 人から物をもらう経験がなかったからか、中也は人からもらうものを、何か宝物のように扱うことがある。蘭堂の帽子もそうだ。それが、犬猿の仲であるはずの自分があげたものでもそうなのだと知ったとき、何か得難いものが胸の奥を満たした。
 詰まらないものである筈の世界が、仄かに色づいて見えたのだ。
「……じゃあ、今度見に行くか」
「え?」
 ぽつりとこぼされた声は小さく、見ると彼の横顔は、暗がりでもよく分かるほど真っ赤に熟れていた。酔いの所為ではないその赤に、太宰はきょとん、と目を丸くする。それに気付いた中也が、「ンだよ」と喧嘩腰に視線を投げた。
「いや……っていうか私はもう持ってるし」
「俺が欲しいんだよ! あンときだって、本当は自分の購う心算でいたんだ。なのに手前が」
「私が?」
「――ッ! もういい」
 ガッ、と残っていた葡萄酒を一気に飲み干した中也は、そのまま立ち上がり会計を済ますと、黒外套を肩に引っ掛けた。反対側の腕を掴むと葡萄酒一杯のわりには体温が高いことに気付く。大方、他の店で既に飲んできていたのだろう。
 今にも喧嘩が始まりそうな二人を、しかし店主は止めなかった。相変わらずにこにこしたまま「いつもありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。
「それじゃあ、今度は中也の万年筆を見に行こうか」
 中也の躰から力が抜けた。それを見て取ると、太宰もまた店主に金子を渡し、立ち上がった。
「蒔絵が施されたものがあって、それはそれは見事な芸術品でね。やることがいちいち派手な中也に似合うと思ったんだ」
「……おい、それ幾らだ」
「百万」
「死ね」
 カラン、と釣鐘が震え、扉が開く。夜気が、酒精アルコォルに火照った頬を冷たく撫ぜた。
 店を出ていく小さな元相棒に続き、店主にバイバイ、と手を振った。せっかく用意したロシアンルーレットが無駄に終わってしまったのは心残りだが、この機を逃すのは惜しかった。困ったように眉尻を下げる店主の顔が、扉の奥に消えていった。
「慥かにこの万年筆は君がくれたものと同じ型ではあるが私にとって思い入れがあるのはやはりあちらの方だった。しかしあれはもうない。だったら、思い入れのある品を増やせばいいと思ったのだけど」
「……思い入れってなンだよ」
 あの日と同じ憮然とした顔が、バーの入口を示す橙色の洋灯ランプに照らされる。太宰は邪気のない笑みを、その顔にぺたりと貼り付けた。 「大嫌いな君とお揃いの万年筆なんて、生涯忘れられない逸品になりそうだと思わないかい?」
 お互いにお揃いなんて柄ではないし、そんな間柄でもない。けれどそうすることで、このちびっこがどんな反応をするのか試してみたくなったのだ。きっと蒼い目を吊り上げて怒るだろう、と。――しかし、太宰が思っていたのとは、その反応は少しだけ違っていた。
 いつもは澄んだ空の蒼を思わせる瞳が、橙色の光を放ちながら揺らめいている。鋭い小刀ナイフのように尖った眼差しはどこにもなく、まるで水の中にでもいるようだった。強かに酔った彼の膚は単色光の下でも上気しているのが一目瞭然で、何かを云いかけたまま時を止めた脣が微かに震えている。やがてそこから、諦念混じりの溜め息が小さく漏れ出していた。
 その一連の、普通であればなんてことのない仕草一つ一つに目を奪われる。
 喉が上下に動き、そんな自分に息を呑む。
 不覚にも。
(……こんな男に欲情するなんて)
 表通りの喧騒が、どこか遠くに感じる。
 そんな太宰の心情などいざしらず、やがて中也は「はんッ」とわざとらしく鼻で笑った。無意識だろうか。低い身長を誤魔化すように胸を逸らし、太宰を睥睨する。
「――いいぜ。手前がそれ使う度におもしれぇ顔で頭抱えるとこ想像するだけで溜飲が下がるってもンだ」
「……中也は使わないの?」
「使う」
 今度は太宰が噴き出した。特大のブーメランに気付かない中也は暫く頸を傾げていたが、やがて「あっ」と、何かに気が付いたようにくるりと背中を向けた。
「い、いいまのは無しだ!」
「えー、なんで。せっかくおもしろかったのに」
「おもしろくねぇよ、忘れろッ」
「無理。私、記憶力いい方だから。酒飲んでも飛ばないよ、君と違って」
 記憶より随分と低い位置にある肩をぽんぽん、と叩くと、中也はものすごい勢いで睨んだ。
 彼がせっかく、お揃いの万年筆を拒絶する意思がないことを自白したというのに、これではあまりに酷い仕打ちである。
 「だァ、クソッ!」と、赤くなった顔を隠すように帽子を深くかぶり直した中也はさっさと表通りに向かって歩き始めてしまった。
「――次の木曜日の午后二時、文具屋の前で待ってるから」
 聞こえないだろうと思ったその声は、しかし中也の耳にしっかり届いたらしく、「誰が行くかよ、莫ァ迦」と憎まれ口が返ってきた。
 しかし、混凝土を叩く足音はどこか軽やかだ。
 その上機嫌な足音に、太宰の頬もまた、常になく綻ぶのだった。



(了)

あとがき
「君は僕の犬だろ」って言う太宰に怒る中也の首には既にチョーカーがあって、それ見たときに真っ先に「首輪だ。贈ったな」と思いました。だったら小説版入社試験で度々出てきた万年筆も中也が贈ったものだといいなぁ、と妄想してできたのがこのお話です。以降、もちだの作品の中で中也がしているチョーカーは太宰が贈ったものとして書いていたりします。

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