真夜中の来訪者

 また一年、生き永らえてしまった。
 太宰は己を無意識に生かしている呼気の塊を肺腑から深々と絞り出した。薄汚れた木の天井がその様子を静かに見下ろしている。そこには長い歳月の中で染み付いた黒い点のようなものが浮かび上がっていて、それが何やら憐れみを湛えた人の顔のようにも見え、逃れるように瞼を閉じた。なおも漏れ入る光を遮るように腕を乗せる。いいザマだ。此処にはいない者の声が聞こえた気がした。
 月明かりが差す青白い部屋には何もなかった。ひと組の煎餅布団と、読みかけの書物、倒れた空の酒瓶だけが、辛うじて家主の生活感を保っている。屋根があり、畳があり、表皮がわだけは真っ当な人が暮らす一室に違いないのに、扉を開ければ嘗て住んでいた輸送用コンテナの中と変わらない。
 部屋とは、そこに住む人の深層を表しているのだという。――何もない。太宰はそれで構わなかった。
「どうやって生活してるんですか」
 前に一度、同じ建物に住む後輩に訊ねられたことがある。興味本位に覗いた先輩の部屋のあまりの殺風景さに驚き、言葉を選ぶことすら忘れてしまったようだった。元々備え付けられている冷蔵庫には麦酒といつかの惣菜の余りのみ。台所には鍋も包丁もなく、味の素の瓶だけがぽつねんと置かれている。戸棚の中には缶詰が数個。月光を閉じ込めたような双眸が困惑した様子で室内を泳いだ。心配した彼とその同居人が、多めに作った煮物や炒め物を持ってやってくるようになったのはそれから少ししてからのことだった。

「なんだ、まだ生きてやがったのか」
 初夏の夜の涼やかな風が、室内の籠もった空気を攫っていく。腕を退かして見れば小柄な黒い人影が月明かりを背負って窓枠に腰掛けていた。逆光で、表情までは見えないけれど、その貌を補完できるくらいの付き合いはある。「残念ながらまだ生きているようだ」と力なく返し、再び瞼を閉じる。
「――十六の夜だったか」
 男が云った。「あの日も、手前はあの奇怪しなコンテナの寝台でそうやって寝ていた」
「そうだっけ」
「傍らには香を焚いた痕跡があった。科学班に頼んで調べてもらったところ、その匂いの成分の中には毒性のものが含まれていた。佳い匂いに包まれて眠るように死ぬ心算だったんだろう。――手前らしい、胸糞悪ィやり方だ。慥かにそれは致死性の毒物だったが、不幸なことに香に含まれていたのは致死量に満たない量だった。精々麻薬的な中毒症状を起こす程度で、薬耐性のある手前には何の効果もなかったわけだが」
 ふわり、と軽やかに室内に足を踏み入れる。
 敵組織の人間が、不法侵入とはいい度胸だ。――喉元まで出かかった言葉を嚥下すると、気配はすぐ傍で止まった。微かな衣擦れが、彼が身を屈めたのだと教えてくれる。触れた毛先が、彼が覗き込んでいるのだと教えてくれる。
「――今日はやらなかったんだな」
 雨樋から落ちる水雫のように抑揚のない声だった。「入水にも出かけず、一日中そうして寝てたらしいじゃねぇか」
「何、そんなに私の行動が気になるの、君」
「そりゃあな。手前が組織にいた頃、今日という日は首領命令で手前の自殺を止めなくちゃならない一日だった。おかげで仕事になりゃしねぇ。その習性が抜けきらなかったンだよ」
「五年も経つのに?」
「煩ェ」
 ふふ、と揶揄するように笑うと、反射的に返ってくる苦々しげな声。瞼を持ち上げると、思ったよりも近くにその顔はあった。
 真っ先に見えたのは青だ。冴え冴えと冷たく、それでいて人情の温かさを湛えている。その懐かしい双眸に触れようと、目を細めながら頬に手を伸ばす。佳い雰囲気だ。そう思ったのはどうやら自分だけだったようで、するりと後方に避けられてしまった。行き場を失くした手は畳の上に力なく落ちた。
「最初は、洗剤でも購ってくる心算だったんだ」
「……」
「簡単手軽に逝ける方法さ。液体同士を混ぜるだけでいい。発生した瓦斯がじわじわと命を削っていくのを夢想していたのだけど、途中で苦しくなって止めてしまった。瓦斯が社員寮全体を覆ってしまうのも本意ではなかった」
「手前でも他人の迷惑を考えられるンだな」
「彼らを殺したいわけではないからね」
 死期を悟ると、人は身辺整理を始める。太宰は昔から、いつそのときが訪れてもいいようにしてきた心算だった。生活感のない殺風景な部屋はその証左だ。何も持たず、何にも執着しない。そうして俗世とおさらばしても、後には何も残らない。――そう思っていた。
「所詮は戸籍上の記録でしかないと分かっていても、今日という日が昔からずっと嫌いだった。“私”という人間の“生”を押し付け、現実を突きつけてくるようで、忌々しかったんだ」
 太宰の黒々とした眸は、注がれる青を通り過ぎ、暗い天井を捉えていた。先程見付けた憐れみを湛えた顔は、今やどれのことだったか判別がつかなくなってしまっている。積み重ねた歳月を記す歪な曲線に、己の心を重ねる。「だが今はどうだろう? 彼らとともに過ごした日々を思い返すと、存外悪くないと思えるんだ。それらを手放してしまうのが――そう、惜しくなってしまってね」
 部屋には相変わらず何もないというのに、心には、いつの間にか手放し難いものが増えてしまっていた。それは太宰自身、気付かなかったものだ。友人ともに背中を押され、変えた道の先で漸く見出すことができた、自分の生命せいの意味。その道はあまりにまぶしく、時折目が眩んで立ち止まってしまうこともあるけれど、止まった背中に感じる嘗てたがえた筈の背のぬくもりが、前を向けとこちらを向いて拳を突き立ててくる。
 失くしたくないと、思ってしまった。
「……それが、今日一日寝転んで考えた結論か?」
 気配が遠のいた。
 見れば黒い影が立ち上がるところだった。変わらない青にふっと頬を綻ばせる。
「人を一日中寝て過ごす怠け者みたいに云わないでくれるかい」
「怠け者には違ェねえだろ」
 そんな話を聞かなきゃ俺がこの場で殺してやったのに。
 肩を竦めながらそう嘯く男を、太宰は嘗てのように鼻で笑った。
「君に私は殺せないよ、中也。だって、――」

 ゆっくりとした緩慢な瞬き。
 そこには月を背負う小さな影も、見知ったぬくもりもどこにもなかった。彼が入ってくるときに開けた筈の窓はぴたりと閉じられたまま、籠もった空気が室内に滞留している。太宰は立ち上がり、鍵がかかったままだった窓をからりと開けた。涼やかな風が待ち侘びたように吹き込み、寝起きの蓬髪を揺らしていく。
 異能力か、それとも脳が無意識に求めるものを具現化した、単なる夢まぼろしだったのだろうか。
 枕元で唸り声を上げている携帯端末の青白く光る液晶に記された二文字を視界に収めながら、脳裏にちらつく顔に自然と笑みがこぼれる。
 悔しいが、気持ちは不思議と晴れやかなものだった。



(了)


Happy birthday to DAZAI!

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