緩やかなジャズが店主の趣味だ。目を閉じれば耳はより鮮明に音を拾う。波間を揺蕩うような穏やかな空気が満ちた店内。氷が融けるカラン、という音。絞られた照明。客卓に着く者たちも礼儀を弁え、顰められた声は潮騒のように意識の淵を舐めていく。
カウンターの隅に一人、青年が掛けていた。目の前に置かれた洋盃には、先程までぴっちりと収まっていた丸い氷が、琥珀色のアルコールに融けて浮いている。隣の椅子の背には黒外套と黒い帽子。黒手套に覆われた手は細いが無骨で、血の匂いを微かに残している。青年のものではない。青年は気にした風もなく煙草を蒸していた。
入り口の釣鐘が訪客を告げる。「いらっしゃいませ」と、洋盃を拭いていた店主が客に向けて単眼鏡の下で柔和な微笑を形作った。革靴の底が床材を叩き、迷うことなくカウンターに近付く。
「いやぁ、参ったよ今日は。まさか野良犬捜しに横浜中を端から端まで文字通り縦横無尽に走り回るハメになってしまうなんてね。お陰で逢引の約束も台無しだ」
背の高い、随分ひょろりとした男が、台本を読み上げるような調子で馴染みの店主に云った。先客を無視して二つ隣の丸椅子に腰掛ける。
「あれと同じものを頼めるかい」
先客が舐めていた洋盃を指差した男に、「かしこまりました」と初老の店主は応え、棚から同じ形の洋盃を取り出した。男はそれを眺めながら頬杖をつく。
「それにしても犬というのはなぜ、ああも走り回りたがるのだろうね。しかもきゃんきゃん吠えたてながら、逃げてるのだか遊んでいるのだかまったく分からないよ」
「構ってもらえるのがうれしいのでしょう。犬とは本来、人が想像するより遥かに人に従順にできているものですから」
「従順ならまだしも奴らはただの確信犯さ。自分が望む通り人間に言葉を使わせ、そして見返りを求める――餌、オモチャ、散歩といったようにね。従わされているのはいつも人間の方だ。そして気に入らなければ容赦なく牙を剥く」男はそう云って、徐に外套の袖を捲り上げた。「ほら、今日もこの通りまた包帯が増えてしまった」
しゅるり、と解かれた白い包帯の下からは赤く滲んだ綿紗が覗く。滲出液まで染み出して、膚にぺたりと貼り付いているのが分かる。さらぶそれを捲ると、塞がった古傷たちの中にひときわ目立つ赤い一本の線が筋のように奔っていた。明らかに、刃物による裂傷痕だ。
「それだけの噛み痕ですとアルコールを摂取するのは些か障るのでは?」
「そう思うだろう? 血流が良くなってせっかく閉じようとしている傷口をどんどん広げようとする。だが逆にこれが細胞の働きを活性化させるのか放っておくよりも幾分治りが早いんだ」
ちち、っと指を振って得意げに語る男の前に、丸氷がぴっちりと収まった盃が出てきた。そこに店主が五十年もののウイスキィを注ぐ。急激に融かされた氷がパキン、と鳴く。
「昔飼っていた犬もまさにそんな感じでね。ときどき主人の私に噛み付くどうしようもない駄犬だった」男は包帯を巻き直しながら云った。
「ほう? 慥か貴方は犬がお嫌いだった筈では」
「大嫌いさ。今も昔も」ふふ、と含むような笑み。「――でもね」と云いながら、氷を融かすように、持ち上げた盃をくるりと回す。
「その犬は私に何の見返りも求めないんだ。私の命令に心底厭そうな顔をしながらも、此方が舌を巻くほど完璧に命令を熟す。そのくせ、餌を要求することも遊びを要求することもない。ときどきは褒めてやろうと思って撫でようとするのだけど、その度にきゃんきゃん吠えて一向に触らせてくれない」
「でも命令には従う、と」
「おもしろいだろう?」
カタン、と音がした。隅にいた青年が空っぽになった洋盃を置いたのだ。やや乱暴で、よく磨かれた一枚板のカウンターが振動する。男は振り向くことなく盃に口を付けた。
「君は? 犬は好きかい?」
それは店主ではなく青年にかけられた言葉だった。蒼い瞳が睨むように男を見るが、やがて何かを抑え込むように深く息を吐き出す。「……どうでもいい」
「どうでも? 私はてっきり、未だにその首輪を付けているのは大好きな犬の気持ちになりきってみたかったからだと思っていたのだけど」
「――ッ!!」
――ガタンッ
穏やかだった南国の海に訪れる突然の颶風。ジャズの音色と人々の囁きだけが満ちるこの静かな空間に、暗澹とした暴力の気配が忍び寄る。ざわめきが広がる。しかし、その渦中にいる男の顔は乱暴に襟首を掴まれているにもかかわらず、どこまでも涼しげだ。
「おお、怖い」
「手前……」
射殺さんばかりの視線に、店主は慌てた様子も見せず「お客様」と、よく通る低い声でその行動を窘めた。「店内での乱闘はほかのお客様のご迷惑になりますゆえ」
「――ちッ」
苦虫を百匹まとめて噛み潰したような渋面を隠しもせず、青年は掴んでいた男を乱暴に放った。そして卓上に多めの紙幣を置き、「悪かったな」と詫びて出ていった。元の静けさを取り戻した店内はとりたてて詮索する様子も邪推する様子も見せず、何事もなかったように会話を再開させた。肩に外套を引っ掛けて立ち去る小さい背中を見送った男は、上機嫌に躰を正面に戻した。
「……よろしかったのですか?」
「いいんだよ、広津さん。――あれでこそ私の犬だ」
初老の店主はやれやれと肩を竦めた。いくつになっても青い二人は、見ていて微笑ましいものがある。
ふふ、と少年のように無邪気に笑む声が、一枚板の上にぽつりと落ちた。
「それに、やっとで自由を得たのにああして飼い主を待つなんて。なかなか可愛げがあると思わないかい?」
広津、と呼ばれた店主は表情一つ変えることなく青年が座っていた席から洋盃と紙幣を回収した。「本人が聞いたらまた怒り出しそうですな」
男は笑いながら上等な琥珀色を喉奥に流し込み、「支払いはあれにツケといて」と当然のように云い置いて、青年を追いかけるようにして店を出ていった。
通り雨のような、どこか懐かしささえ感じる小さな嵐。
「――まったく、太宰さんにも困ったものだ」
店主の苦笑交じりの声はやがて緩やかなジャズの音色と溶け合い、褪赭色の世界に消えた二人の耳にはついぞ届くことはなかった。
(了)