寒くない?

 白く冷たいそれを、初めて見たのは果たしていつのことだったか。
 敬愛する直属の上司に頂いた葡萄えび色の襟巻マフラァに埋めていた顔を上げると、はらはらと白いものが、凍える空気の合間を滑るように舞い降り頬の上へと落ちてきた。闇に沈む本部ビルの黒によく映える白。街灯に照らされると、光を撹拌していつもより周囲を明るくするように思えた。
「雪か」
 珍しいこともあるものだと独り言ちれば、ふわりと浮かんでは虚空に消えていく白い影。それが顔の周りで一気に冷えて、肌を刺すような寒さに拍車をかけた。慥かに朝から底冷えする寒さではあったのだが、今日は珍しく本部に缶詰だったので、土瀝青アスファルトがうっすら雪化粧するほどまで降っていたとは気付かなかった。
 それが「雪」と呼ばれるものであることは、知識としては知っていた。初めて見たのはおそらく、擂鉢街なんて名前も何もない、瓦礫だらけの窪地の中だ。この地域では滅多に降らないのに、時折思い出したように遠くの山の方から冷たい空気とともにやってくるものだから、当時はたまったものではなかった。
 頬も耳も、外気に晒された肌が頻りに痛みを訴えていたのを覚えている。やがてやってきた人々が家を造り、町を形成しても、そこに生きる者たちにとってそれは明日の命を左右する凶器に違いなかった。市井の子どもたちにとって、それが偶に訪れる非日常の中のちょうどいい遊具になりうることを知ったのは、本当にごく最近だった。
 広間エントランスへと続く外階段は踏み荒らされ、融けた雪が凍って非道い有様であったが、階段の端の方には二、三糎ほどの雪がきれいに降り積もったままだった。植え込みは白粉をはたいたように薄っすらと白く染まっていて、近付いてふうっと息を吹きかけてみると、気温の低さを示すように粉雪が勢いよく舞った。
 しんしんと降る雪に音は吸収され、辺りは静けさに満たされている。遠くに聞こえる筈の自動車の走行音も、いつもは低く唸る海上の汽笛の音も、まるで雪というベェルに包まれてしまったように遠くくぐもって聞こえ、意識の深くには届かない。
 雪の降る音を感じながら、まだ誰にも汚されていない新雪の上に足を踏み出す。ふわふわの雪に含まれていた空気が一気に押し出され、氷の粒と粒が擦れ合うぎゅっという音が靴底から直接響いてくる。その感触に、つい口元が綻ぶ。
「さっむ」
 そんな紗に包まれた自分だけの世界に響く忌々しい声に、中也は綻んでいた顔を瞬時に引き締め、殊更目を吊り上げて振り返った。首領に下賜された黒外套の上からさらに温かそうな長外套コォトを着込んでいる少年は、雪に負けない青白い肌を半分、白い包帯に隠していた。「ちッ」と、上司がいたなら小言が飛んできそうな行儀の悪い舌打ちに、鳶色の眸がゆるりと瞬いた。
「てっきり人に仕事押し付けてとっとと帰ったんだと思ってたが」
 今日の中也の缶詰生活の原因を作った少年は、悪びれた様子もなく薄い唇を「へ」の字に曲げた。「本当はその心算だったのだけど森さんに別の仕事を頼まれてしまってね。――ほら、僕ってば幹部候補だから」
 どこかの犬と違って忙しいんだ、という言葉の裏側では、自分が仕事を与えなければ暇人のくせに、というあからさまに人を見下した意図が見え隠れしている。
「っていうかよくそんな薄着でこの寒い中いられるね。信じられないのだけど」
「虚弱な手前と一緒にすんじゃねぇよ」
「筋肉自慢の大狒々からすれば全人類が虚弱ということになるね」
 それにしても、と言葉を切った太宰の口元が、中也のことを頭の天辺から足の爪先まで一通り眺め回すと徐ろに三日月を描いた。「……そういえば、こういう雪の日って犬は喜んで庭を駆け回るんだったね」
「誰が寒さ知らずの莫迦犬だ!!」
「そこまでは云ってないよ。――でも君、自分じゃ気付いてないようだけど雪を踏むときめちゃくちゃ楽しそうだったじゃない? 餓鬼でも犬でもない僕にはその気持ちはこれっぽっちも理解できそうにないなと思ってね」
 態々神経を逆撫でするような言葉を選ぶ太宰だったが、長居する心算はないとばかりにさっさと階段を降り始めた。踏み荒らされたまま固まってしまった氷の上は普段の革靴では歩き難い筈なのだが、そんなことを一切感じさせない迷いのない足取りに思わず腹が立った。
 中也は腰を屈め、積もった雪を掬い上げた。
「痛ッ」
 固く握った雪玉を投げた先にはぼさぼさの黒髪。きれいな直線を描き、見事に命中すればすっと胸も空くというもの。相当痛かったらしい太宰は後頭部を押さえながら振り返り、「何をするんだ!」と、さながら三下組織の下級構成員のように詰まらない喚き声を上げた。
「なぁ、勝負しようぜ」
「は?」
 ぽん、と二球目を頭上に放り投げる。赤黒い光を帯びたそれは宙空に固定され、夜空に浮かぶ満月のようにぽつねんとそこにある。
「どっちかが音を上げるまで雪玉を投げ合うんだ。俺が勝ったら、手前が金輪際俺に仕事を押し付けてこないよう、首領と姐さんの前で念書を書いてもらう」
「……僕が勝ったら?」
「一つだけ手前の云うことを聞いてやるよ」
 どうだ? と挑戦的に笑みを深める中也を、階段下から太宰の黒々とした片眸が見上げてくる。その表情は大地を覆う氷のように冷ややかだが、その口元がやがて力なく開かれ、深々とした溜め息を吐き出した。――日頃から生きている気配が少なく、自殺願望を持つ少年の口から、生きている証の白い吐息が可視化されて見えるというのは、何やら少し不思議な心持ちのする光景だった。
「却下」
「なんだ、負けんのが怖ェのか」
「そういう安っぽい挑発はいらないよ」
 再び、今度は呆れたような溜め息。「そうじゃなくて」と仕切り直すように躰ごと中也の方を向く。
「その条件だと僕には何もメリットがないじゃないか」
「ンだよ。手前が勝てば云うこと聞いてやるって云ってンじゃねぇか」
「”聞く”とは云ったが”実行する”とは云ってない。こんな初歩的な虚言、今どき小学生だって使わないよ」
「……じゃあ何ならいいんだよ」
「なに。そんなに僕と雪合戦したいの、君」
「ちっげーよ! つか、質問に質問で返すんじゃねぇ!」
 重力で固定されていた雪玉を操作し、弾丸のように太宰めがけて飛ばす。しかし先程とは違い、正面からでは容易に時機タイミングを図ることができてしまうので、固い豪速球でも相手にぶつかることはなかった。
「そうだなぁ。――僕にとってのメリットはこの場合、君が死にたいと思うような盛大で素敵な嫌がらせが実現することだ」
 にたり、と音がしそうな笑みに、先程まで感じていた寒さとは異なる種類の寒気が背筋をぞわりと震わせる。反射的に三球目を拵えて投げようかとも思ったのだが、太宰が口を開く方が幾分早かった。「例えば」と声を弾ませながら、一歩階段を上がる。
「今夜はこの通り冷えるから、同じ布団で温め合うというのはどうだろう」
「…………は?」
「あ。勿論、敗者である君に上か下かを決める権利はない」
 思考がぴたりと停止する。何を云われているのか、瞬時に理解することができなかったのだ。「どう?」と小首を傾げる黒い悪魔を前に、じわじわと染みてきた言葉の意味を漸く理解する。そうなればもう、「はぁ!?」という頓狂な叫びを抑え込むことは不可能だった。
「それ、手前だって、その」
 動揺していた。
 慥かに太宰の提案は、中也にこの上ない屈辱を与える究極の罰ゲェムだ。しかしそれは太宰にとっても同じ筈だ。
 直接的な言葉を避けようとする中也の疑念や動揺を瞬時に汲み取った太宰は笑顔を絶やすことなく、また一歩中也に近付いた。――多くの人間を魅了し、惑わし、破滅に導いた笑みとともに。
「僕は穴があって気持ちよくて温かくなれればそれで構わないよ」
「ほんっとに最ッ低野郎だな、手前は!」
 整った顔でよくもまぁぬけぬけと云い切れるものだ。だが、それが太宰治という少年である。
(……とにかく、勝ちさえすりゃあいいんだ)
 中也にとって最も重要なのは、太宰から仕事を押し付けられないようにすることだった。そうすればもっと周りに目を配ることができるし、仕事の押し付けが原因で断らざるを得なかった仕事を引き受けられるようにもなる。……太宰の云う通り、市井の子どもたちが雪玉を投げ合う楽しそうな姿に触発され、かつては死神の鎌のようにさえ思っていた雪で遊ぶことの何が楽しいのかを知りたいと思ってしまった事実には厳重に蓋をして、「どうする?」と首を傾げる人間失格野郎をめいっぱい睨み付けた。
「はッ! 体力勝負で俺が手前なんぞに負けるかよ」
「決まりだね。――公平を期すために異能力は禁止。いいね?」
「いいぜ。精々吠え面かくんだな」
「そっちこそ」
 雪を拾い、玉を作って投げ合う。逃げるにはでこぼこした氷の上を走らなければならず、慣れないうちは苦戦した。だが普段から躰を動かすことに慣れている上、体力がある自分が有利。――中也はそう信じて疑わなかった。

 その後、太宰の目論見通り慥かに肌を刺すような寒さはどこかに消え失せていたものの、勝敗の行方は杳として知れない。



(了)

あとがき

横浜だと雪合戦できるくらい雪が積もることってなさそうだよなぁ、と思いながら書いていました。ストブリ前に書いたため太宰の一人称が「私」になっていたので「僕」に修正しています。

初出:2020年12月19日
※「 #太中文字書き60分一本勝負」より


「よかった!」と思ったらポチッとしていただけるととても励みになります!
close
横書き 縦書き