まだ夜は明けない

 雨が降っていた。
 繁華街の往来が乳白色に煙るほどの、篠突く雨である。窓から漏れ出る光を乱反射して、夜だというのに、街は暮合いの判然としない明るさを湛えていた。
 そこに闇を負う背中を見出したのは仕事の帰り道のことだった。硝子張りの駅舎の壁に備え付けられた手すりに寄り掛かり、外に背を向けて、構内を行き交う人々を惘乎ぼんやりと眺めている。ぷわりと膨らむ風船ガムが、パンッと弾ける。それを舌先が丁寧に掬い取り、口の中へと再びいざなう。またぷわりと膨らむ、白い球体。
 傘をくっと持ち上げて、その様子を見る。
 手持無沙汰であるらしい彼は、誰かを待っているようでもあったし、ただ時間を潰しているだけのようでもあった。分かるのは、彼が決して己を待っているわけではない、ということくらいである。太宰は口角が上がるのを感じながら硝子に近寄り、こんこん、と固く冷たい背中を叩いた。
「……? あッ」
 振り返りざまに靡く斜陽の幻影が、硝子についた珠雫越しに陽炎のようにゆらりと揺れた。夜に溶けた鈍色の空とはまったく正反対の色をした双眸が見開かれ、やがてハッとしたように剣呑そうに吊り上がる。太宰はそんな彼の普段通りの反応を見留めると、駅舎の中へと回り込んだ。
「何しに来やがった」
 時間にしておよそ三分。一度は視界から消えたにも拘わらず、ガムを吐き出し大人しく太宰が来るのを待っていた中也は、そんな事実すら棚に上げて、不本意だ、とばかりに腕を組んだ。
「通りすがりに見慣れたチビが暇そうにしてたから」
 “チビ”を殊更強調すると分かりやすく眉尻が動く。
「この雨降りの日に幹部殿を待たせるなんて、ポートマフィアの下っ端も随分と偉くなったものだね」
「手前のときと一緒にすんなタコ。俺は別にいいって云ったんだ。けど広津が」
「うわぁ、まるで言い訳する子どもみたい。幹部がこれじゃあ仕方ないのかな」
 言葉を呑み込んだ中也も、おそらくは自覚があったのだろう。子ども染みた文句の代わりに深く溜め込んだ息を吐き出す。
「手前は乗せてってやらねぇからな」
 どうやら彼は、この土砂降りの中歩いていた太宰が、ついでに送ってもらおうという魂胆で話しかけたのだと解釈したらしかった。無賃乗車ができる体のいいタクシー。慥かにそれも悪くはないけれど、と独り言ちた太宰は、中也を追い越しざま、その衣嚢から携帯端末を抜き取った。
「あッ」
「君さぁ、仮にもポートマフィアの幹部が四年も暗証番号変えないってどうなの」
「うるせぇ、返せ!」
 伸びてきた腕をひらりと躱し、電話帳から相手を呼び出す。
「――あ、もしもし広津さん?」
 返せ、と莫迦の一つ覚えみたいに繰り返す中也の手が、名前を聞いた瞬間ぴたりと止まった。それを横目に、笑みを浮かべる。
「――うん、そう。私。さっき偶然中也と会ってね」
「偶然って、手前絶対ェ分かってて此処通っただろ……」
「私が送ってくから。――うん、迎えはいらないよ」
「はァ!?」
 電話相手と話しているわけでもないのにいちいち横で相槌を打つ。勿論聞かせるために丁寧に言葉を選んだ心算なので、その反応は予想の範疇だった。「しぃ」と口元に人差し指をあてると、周囲のざわめきと視線が増していたのもあってすぐに中也は口を噤んだ。
「うん。――ふふ、分かった。善処しよう」
 それじゃあ、と通話を切って、端末を持ち主に戻す。中也は憮然とした顔で、それを引っ手繰った。
「明日早いから無理させないように、だって」
「そうだよ。だから手前なんぞにかかずらってる暇なんかねぇんだって」
「ここから近い部屋なら傘があれば歩ける距離だったよね」
「聞けよ人の話!」
 ころころとよく変わる表情は到底マフィアの幹部のものと云える代物ではなく、それがかえって面白かった。太宰は黒手套が覆う手頸をむんずと掴むと、足取り軽く歩き始めた。いよいよ観念したらしい中也も大人しく従う。
「……殆ど使ってねぇ部屋だから飯作れるもんなんもねぇぞ」
「いいよ。帰りしなに何か買って行こう」
 黒服の、見るからに堅気ではない青年が、ひょろりと細身の男に引き摺られていく様子は、道往く人々の目には至極奇異に映ったものだった。しかし未だ降り止まぬ驟雨を前にすればそれどころではなく、一つの傘に二人がぴたりと肩を合わせて収まろうが最早関係のないことであった。
 それを見越したわけではなかったが、夜であることも、雨が降っていたことも、太宰にとっては幸運だった。もしかしたら中也も同じだったかもしれない。人目を気にしなくていいというのは、日陰に生きる者にとって安寧でもあった。
 今日は心ゆくまで酒を酌み交わし、熱を分かち合おう、と心に決める。受けた注意は勿論、棚に上げて。
 だって二人の夜はまだ、始まったばかりなのだから。



(了)

初出:2020年9月5日
※「 #太中文字書き60分一本勝負」より


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