他人のふり

 眠りに就いたのは、慥か空が白み始めた頃だったか。
 隣に堂々と横臥していた男は疾うにいなくなっていた。薄情だという気持ちは特にない。寧ろこの時間まで一緒になって惰眠を貪っていたなら寝間着のまま外に蹴り出していたところである。
 ふらりとやってきては四年前と全く変わらぬ笑みを浮かべ、言葉遊びという名の嫌味の応酬を繰り返しながら当たり前のように酒を呑んでいく男。酒精が入って暫くすると、あの頃より幾分大人びた顔で名前を呼ぶ。
 あの声は駄目だ。どんなに疲れていても、徹夜明けでも、「中也」と耳元からぬるりと滑り込んでくるあのざらついた声はあっという間に理性を掻っ攫ってしまう。腹いせにあの黒い和布頭を鷲掴み、「日中起きたときに仕事に行ってなかったらあの真面目眼鏡と呑みに行く」と睨め付けながら云ってやれば、造形だけは整っているあの顔が頭の上で苦々しく歪んだ。
 ただ、まさか本当にちゃんと自分で起きて仕事に出掛けているとは思ってもみなかったので、冷たくなって久しい空っぽの隣を見て肩透かしを食らったような心持ちがした。枕元に置いていた携帯端末を見ると待受が自分の寝顔に変わっている。何故、など分かりきっている。ポップアップに表示されたメッセージにはご丁寧に下矢印付きで「この写真、高く売れそう」とあり、危うく端末を握り潰すところだった。表示されていたのは相対時間、二時間前。業務中に何やってるんだあの莫迦は、と嘆息した。
 今日は中也にとって久し振りの休暇だった。午前中は無駄にしてしまったが、おかげで頭はすっきりしている。軽くシャワーを浴び、肌着の上から襯衣を羽織っただけの簡素なジーンズ姿に着替えて明るい街へと繰り出した。
 仕事で出歩くときと休暇で出歩くときとでは、不思議と街の景色も変わって見えるものだ。車通りの多さや人々の喧騒は何も変わらないというのに、まったく別の街に来たかのような錯覚に陥る。あの通りの角に新しく小洒落た喫茶店ができているとか、店先の陳列窓ショウウィンドウに飾られている人形がいつの間にか夏服を着ているだとか、仕事中では殆ど意識しないところに目がいくからかもしれない。そもそも仕事では部下が運転する車に乗せられることが多いし、出歩く時間帯も夜であることが殆ど。たまに昼間歩いたとしても背後や横からの奇襲に気を配らねばならないため、その必要がない日はよく知る街でもなんだか新鮮に思えてしまうのだ。だから、中也は休暇の度によく街を散策した。
 今日の予定は上司と一緒に呑む葡萄酒を見繕うこと。馴染みの酒屋に足を運び、店主に勧められた年代物を二本、購った。一本は自宅での味見用だ。上司は「別に構わないよ」と笑うかもしれないが、下手なものを勧めるのは矜持が許さなかった。
 用事を済ませ、遅めの朝食ブランチを摂ろうと先程見付けた喫茶店の方に向かって歩き始めたとき、それ﹅﹅は視界に入ってきた。女と手をつなぎ、にこやかに歩いてくる和布頭。女も満更ではない様子で頬を桜色に染め、相手に微笑み返している。明け方まで間近に聞いていた声が少しずつ近付いてくる。
 視線が交わったのはほんの一瞬だった。例えば通りを歩いているとき、擦れ違う人とぶつからないよう距離を取ろうとして目が合ってしまった、とでもいうような自然さ。視線は何事もなく互いを素通りし、何事もなく遠ざかっていく。おそらく一緒にいた女でさえ、二人が知り合いだとは夢にも思わないだろう。
 ポートマフィアと探偵社は、元来そうした距離感である筈なのだ。標的が同じなら共闘することも敵対することもあるけれど、端から協力関係にあるわけではなく、日常的に接点を持つことは先ずありえない。慥かに、中原中也にとって太宰治は「元相棒」ではあるのだが、ないに等しいその肩書を取っ払ってしまえば所詮、「ポートマフィアにとっての探偵社」でしかなくなる。つまり、街を往く数多の有象無象と同じ。
 それにしてもよく見かける。
 男が失踪していた四年間は全くと云っていいほど姿を見なかった。その内の二年間は既に探偵社に在籍し、このヨコハマにもいたのだというが、こうして街に散策に出掛けても擦れ違うことは一度としてなかった。――敵だらけのヨコハマにはもういないのだろう。そう思っていたほどである。
 それがこうして再会し、ポートマフィアにも所在を隠す必要がなくなってからというもの、街中で擦れ違うことが増えた気がする。今日のような休暇中は勿論、仕事中でも。部下やらナンパした女性やら、とにかく誰かと一緒にいるのをよく見かける。今日のように一瞬目が合うこともあれば、まったく視線が交わらず往き過ぎることもある。夜、「今日何処其処にいたでしょう」と話題に上ることだって屡々。
 世界が狭いというわけではない。あの男が態と中也の視界に入るところに現れるようにしているのだ。それは疑いようがなかった。
 喫茶店の外席は昼時とあって人で賑わっていて、その程よい喧騒が心地佳かった。しかし、ホットサンドに齧り付きながら仕事用の端末に来ていた電子書面を確認していると、よく知る気配がすぐ後ろの席に座った。喧騒が瞬く間に遠ざかる。
「……いいのかよ、あの女放っておいて」
 最初に口を開いたのは中也だった。
「ああ。彼女なら無事警察に送り届けたからね」
「依頼人か」
「彼女の一件がなければ私も十時過ぎまで寝坊できたのだけど」
 妬いた? と問う声はどこか楽しげだ。一体誰が何に妬くというのか。「タダ飯をたかりに来る害虫がいなくなったと思って清々してたとこ」と答えながら端末をしまうと、背中越しの空気が少しばかり震えた。どうやら笑っているらしい。
「それは残念だったね。害虫は今日も宿なしだ」
「社員寮があンだろ」
「あすこには温かい料理も美味い酒もないから」
「せめてたかる意思くらい隠せよ、図々しいヤツだな」
「そんなのは分かりきってたことでしょう、昔から」
 まるでもう何十年も付き合いがあるかのように、殊更「昔」を強調して云うのがどこか不自然で、思わず振り返る。すると擦れ違い様に素通りした視線が、寝台の上で見るのと同じくらい強く絡みついてきた。底知れない黒瞳。これだけがっつり交わってしまうと、誰かに見られたときに他人のふりをして誤魔化すのは難しい。
「……ンだよ」
 視線だけで中也の動きを封じてしまえる太宰は、少しするとにこりと相好を崩して見せた。そして「今日はビーフシチューがいいな」と暢気に云いながら、空いている中也の向かいの席に堂々と鎮座する紙袋を指差した。
「あれに合うと思うのだけど」
「手前の分は購ってねぇ」
「でも君一人であれを空けるのは辛いんじゃない?」
 押し黙る。慥かにその通りだった。
 中也は部下に苦言を呈されるほど酒に弱い。自宅呑みをするときも量にはかなり気を遣った。仕事柄家に戻らない日も多いため、一度封を開けてからひと瓶呑みきるまで相当な日数がかかってしまうこともある。無論、そうなれば中身の風味はガタ落ちだ。
「先刻擦れ違うときに見たよ。同じ銘柄を二本。ここらでは見ないやつだ。君の性格的に、森さんに土産として渡す前に本当に美味しいのかどうか自分で味を確かめようとしたのだろう。つまり、評価にはあまり時間をかけたくない」
 得意げな口上に舌を打つ。まったく否定の余地がなかったからだ。美味しかったならば余すのが勿体ないし、そうでなくても処分に困る。人数は多い方がいいだろう? と言外に告げる太宰が心底忌々しかった。
 中也は残っていた珈琲を一気に飲み干し、紙袋を持って席を立った。
「あれ、もう行くの」
 太宰は態とらしく頓狂な声を上げながら中也を見上げた。見るな、と思う。卓上には珈琲碗が一つ。口を付けた様子はない。
「シチューの材料がねぇんだよ。手前もとっとと仕事に戻れ、給金泥棒」
「朝から真面目にちゃんと仕事してる人間に云う台詞じゃなくない?」
「普通の人間は云われなくても朝から真面目に仕事してるもんなんだよ」
 中也はひらりと後ろ手に手を振り、喫茶店を後にした。残されたのは、それを不服そうに見送る双つの黒い瞳。
「……付き合いたての生娘じゃあるまいし。あんなにひと目を気にしなくてもいいのにね」
 尖らせた口からぽつりと漏れた独り言は緩やかな初夏の風に攫われ、中也の耳に届くことは終ぞなかった。


(了)

あとがき

中也は嫉妬することなさそうだけどそんな中也にやきもきする太宰はいると思います。

初出:2023年4月21日


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