敦は目の前の光景から目が離せなかった。
視線の先には、夜に融けるように見慣れた黒い蓬髪の男が立っている。肩にかけた真っ黒な外套が風にはためいて揺れていて、その背中は何物をも拒絶するように一分の隙もなかった。飄々とした人当たりの佳い笑みを浮かべながらも、決して己の奥には入り込ませない普段の彼の人と同じ。しかし、どれだけ見知った先輩社員と似ていようとも、動物の勘が「あれは先輩だ」と告げてこようとも、視界から入り込む情報が脳へと伝播する度、本能が「違う」と全力で訴えかけてくるので、喉を掻き毟りたくなるような衝動に襲われる。あれは、かつて自分を扶け探偵社に招き入れてくれた先輩ではない。あんな冷え切った眼差しの彼を僕は知らない。
彼の背丈は、今の敦と然程変わらないか少し高いくらいだった。夜を一身に背負うような黒外套の下からは僅かに白い包帯のようなものが見え隠れしている。そしてそれは、いつも陽の光を反射して輝く先輩の鳶色の瞳の一方を顔の半分ごと覆っていた。
片方だけの、黒々とした深淵が見下ろす先には、血に塗れ仰向けに斃れた男。武装してはいるものの、その甲斐もなく絶命しているのが遠目にも分かる。死の直前にどれだけの恐怖を目の当たりにしたのか、目は大きく見開かれ、顎は外れたまま、まるで絶叫の瞬間を切り取って冷凍保存したかのように虚しく時を止めていた。
何が起きたのか、順を追って話そう。
任務の最中だった。珍しく事務所で大人しく仕事をしていた太宰に突然「研修だ」と外に連れ出されたのが二時間ほど前。もしかしたらこのまま自分を煙に巻いて今日のサボりを獲得する心算なのではないか。と、衣嚢に両手を突っ込んだまま足取り軽く前を行く砂色の背中を絶対に見失わないよう、全神経を集中させていた。でないと自分までとばっちりで叱られてしまうからだ。――不本意ではあるのだが。
通りを歩いて暫く。どこからか女性の悲鳴が聞こえてきた。敦と太宰が悲鳴の聞こえた路地へと足を向けたとき、襤褸を纏った人物が走り去っていくのが見えた。手には、その格好には到底似つかわしくない見るからに上等そうな手提げ鞄。――ひったくりだ。脳がそう理解するのと、「敦くん、GO!」とまるで曲馬団の動物使いのように太宰が遠ざかる背中を指差すのは殆ど同時だった。敦は云われるまでもなく足を変化させ、逃げる相手を追いかけた。
しかしその先が拙かった。元々狭い路地で走りにくく、本来の機動力を活かせずやきもきしていた敦の目の前に、突然、逃げる人物と同じ襤褸を翻して一人の男が立ちふさがったのだ。止まる暇などなかった。ぶつかる! と思った瞬間、男が手を翳し、白い光が視界を一気に焼いた。「敦君!」と血相を変えた聞き慣れた声が聞こえた気がしたが、再び目を開けたときには既に、そこは昼ではなく夜の世界へ、路地裏ではなく港の倉庫街へ、そして見知った先輩は敦と同い年くらいの少年の姿へ、まるっきり様相を変えてしまっていたのだった。
「――こっちは粗方片付いたよ」
これは夢だろうか、と思案していたところに、視線の先にある黒い背中が平坦な声で云った。一瞬自分に向けられた言葉なのかと動揺したが、すぐ、虎の耳が地面を擦る第三者の靴音を捉えた。
「君たちがもたもたしている間にね。何のための陽動だったと思ってるんだい」
「……来る予定のなかった作戦指揮官が気紛れで前線に出てきたりするから下の奴らがビビっちまったんだろうが」
「それくらいで動揺されちゃあ困るなぁ。おかげで銃弾を五発も無駄にしてしまった」
太宰は振り返らなかった。代わりに敦が声のした方を見遣ると、黒い帽子をかぶった少年が不機嫌を眉間に刻んで近付いてくるところだった。
記憶より短い、夜の闇とは対象的な明るい茶髪。袖を捲くり上げた黒い紳士服。胸衣嚢に差した遮光眼鏡。彼の人のループタイを思わせる青黃玉の袖飾。――直截の面識はそれほど多くはないものの、それが誰であるかはすぐに分かった。「中也」と、先程よりも幾分温度を宿した声で太宰が名前を呼んだ。どうやら二人には、敦の姿が見えていないらしかった。
「残念だったねぇ、中也。暴れられなくて」
ゆっくりと振り返った底の見えない黒目が、既に敦の前に出ていた中也を捉えた。にこり、ともにやり、ともつかない微笑にどんな感情が浮かんでいるのかは分からない。ただ、月灯りの逆光の下に妖しく浮かぶそれに、ぞくり、と背筋が震えるのを感じた。
夢だとしたらなんともリアルな夢だ。しかし先程から虎の鼻は、辺りに満ちる腐敗した生物が堆積してできる潮の匂いと、目の前の悍ましい屍体から流れる失われた命の雫が齎す慥かな鉄臭を敏感に捉えている。
もし、これが夢ではないとしたら。敦が知らない筈のマフィア時代の先輩が目の前にいる現実が指し示すのは一つしかない。
ここは、異能によって顕現した「過去」の世界なのだ。襤褸を纏った男が手を翳した瞬間に発した光、あれが、対象者を過去に飛ばす力の源だったのかもしれない。
中也が苦々しげに舌を打った。
「わざとか、手前」
地を這うような低い声が耳を掠める。前の太宰の言葉への返しだと気付いた。
「こんな然もない仕事に私たちを引っ張り出したんだ。上だってこれくらいの余興は想定済みでしょう」
「ほぉう? なら、今回の件は手前がきっちり報告書を書くんだな」
つか任務の最中に遊んでんじゃねぇよ、という至極ご尤もな言葉に、敦も思わず頷いてしまった。
「はぁ……何のために君を此処に呼んだと思ってるのさ中也。私の仕事ぶりを見ていただろう。それを記録するのが君の今回の仕事だというのがまだ分からないのかい」
「テ・メ・エ・が! 作戦無視して此奴らから情報を抜き取ってとっとと処分しちまったんだろうが! 最後まで責任持って仕事しやがれ!」
「うん。聞いた情報は後で枕元で延々語って聞かせてあげるからここはバトンタッチということで」
先程まで周囲を取り巻いていた得体の知れない死と暴力の気配が瞬く間に霧散していく。拳を前に出して今にも殴りかかりそうになっていた中也を、太宰はへらへらしながら語尾にハートマァクでも付きそうな甘えた声で宥めている。よく見慣れたあの顔だ。足元には屍体が転がり、返り血であろう血糊を僅かに頬に付着させていることを除けば、ではあるが。目を逸らしたくなるようなこの光景と二人のあまりに子どもっぽすぎる口喧嘩の果てのない温度差に、くらり、と目眩を憶えた。これが探偵社のもう一人の先輩だったなら、頻りに愛用の眼鏡を拭いて現実逃避を図っていただろう。しかも、人に仕事を押し付けるあの鮮やかな手腕こそ、目の前の黒尽くめの少年が自分のよく知る先輩にほかならないということを何より克明に証明していた。
(中原さん、苦労してたんだろうなぁ……)
国木田が毎日のようにおちょくられ、最近では巡り巡ってとばっちりを受ける機会が多くなった身としても、敵対組織の人間とは云えかつての相棒だったという青年に同情を禁じ得なかった。それでも男が離反するまでは相棒として行動をともにしていたというのだから尊敬の念はひとしおだ。
しかし今考えるべきはそんなことではなく、どうやって現代に戻るか、だ。敦はふむ、と考え込むように腕を組み、片方の腕を立てて人差し指と親指で顎を摘まんだ。思案し、そしてはたと気が付いた。
(太宰さんなら触れたら無効化できるんじゃ?)
一抹の恐怖は拭えないものの、彼らに見えていないのであれば触れるのは容易な筈。見えていないということは実態がない、つまり触れられない、という可能性ももちろんあったが、そのときはそのときで別の案を考えればいい。今はできることをしよう。
妙案を思いついたことで視界が開け、気分も前向きになった敦は、早速太宰に近付こうとして揚々と顔を上げた。――そこで目に入ってきたものに思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて口を抑えた。
姿が見えないのであれば声だって聞こえないだろう、などと考えている余裕はなかった。もはや条件反射だ。
太宰が中也の右肩に右手を置き、ごく至近距離で何かを囁いていた。中也の耳にさっと朱が奔り、すぐさま距離を取ろうとするが腰に回った腕が離れることを許さない。「離せ太宰、どこだと思ってんだ」「だって離したら君、逃げるじゃない」「あったり前だろうがッ」
虎の耳が捉えたひそひそとしたやり取り。太宰を睨み上げる双眸は僅かに揺れていて、それを受け止める横顔から表情を読み取ることはできなかったが、弧を描いた口元がどこか歪に思え、敦は見てはいけないものを見てしまったかのような心地に苛まれた。実際、見てはいけなかったのだろう。固まって動けないでいる敦の目の前で、太宰の細い指先が中也の子どもらしさの抜けきらない頤を掴んだ。
「あ、」
ほんの僅かな時間の筈なのに永遠にも思えたその瞬間。
触れた口唇。隙間に見えた赤い舌先。微かなリップ音。濡れた吐息。
外套の襟を必至に掴む、黒手套に覆われた手は僅かに震えていた。
中原中也に対する敦の印象は、重力遣いであり、たった一人で探偵社を潰せる実力を持った怖い人であると同時に、男気に溢れる仲間想いの頼れる人物、だった。マフィア幹部はみな揃いも揃って情に厚い、とは太宰の言葉であるが、他人を思い遣る言葉は太宰より中也の方がよく知っている。休戦協定を締結して以来、太宰と歩いているとかなりの頻度で遭遇するようになってしまったので、接点こそ少ないもののその人となりの片鱗くらいは見えている心算だった。
その彼が、太宰からの口吻けを甘んじて受け入れているのが分かる。顔を真赤にして、トレードマァクの山高帽が地面に落ちてしまっていることにも気付けないほど。それがなんだか切なくて、胸の奥が掴まれてしまったようで、どうしても目が逸らせなかった。なぜ彼が太宰の相棒を続けられていたのかが分かってしまったような気がしたのだ。
その彼は未だ知らない。このあと太宰が組織を裏切ることを――数年後には、まるっきり敵対組織にいることを。
頤を掴んでいた太宰の手が柔く頬を辿り、耳元を擽って、後ろ髪の中へと消えていった。性的なものを感じさせるその動き。後頭部を掴み、ますます口吻けが深くなっていく。心拍数がどんどん上がっていく。
どうしよう。どうしたらいい。
誰にともなく問う。
とりあえずこの場を立ち去るべきだろう。太宰に触れるのはいつでもできる。機会を窺えばいい。何も、今じゃなくたって。
そう思って踵を返しかけたとき、底の見えない昏い眸と目が合った。ぱちり、と。慥かに此方を見ている。蛇髪女の魔眼に囚われてしまったように動けなくなる。片方しか晒されていない眸が、弓形に撓んだ。
嗚呼、違う。――この人が相棒を手放さなかったのだ。
敦は直感した。その直感を裏付けるように、どこからともなく声がした。
――これは私のだ。
「え?」
――帰したまえ。
頭の奥に直截響くような冷たい声の後、光の奔流が敦を襲った。目を開けていることができず、顔の前に腕を翳す。薄目を開けて見ると双つの黒は既に遠く、霞の中の光景に意味もなく手を伸ばした。
「太宰さんッ!!」
そう叫ぶ自分の声で、意識が完全に覚醒した。
過去に伸ばした筈の手は灰色の無機質な四角に切り取られた狭苦しい蒼穹へと掲げられていた。先程まで夜だったのに。倉庫街にいた筈なのに。
混乱に息を荒げていた敦は伸ばした手を引き戻し、感触を確かめるように目の前で握ったり開いたりを繰り返した。そこに「大丈夫?」と、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
覗き込んでくる見慣れた鳶色の双眸にぎくり、と肩を揺らし、慌てて上体を起こす。肩にかけられていた黒い何かがずるりと滑り落ちていった。
「は、あれ……?」
「大丈夫かい? 異能の影響だと思うけどだいぶ魘されていたよ」
「太宰さん……」
うん? と小首を傾げる太宰には、先程まで感じていた底知れない恐怖はどこにも感じられない。自分が殺した屍体を凪いだ眸で見詰め、人の命をものともせず、あまつさえ、己の相棒を歪んだ独占欲で雁字搦めにしようとする仄暗さなんてものも、どこにも。
「あの、さっきのひったくりって……」
異能による攻撃を受けて昏倒していた申し訳無さと垣間見てしまった過去の情景への戸惑いに混乱する思考を整理しようとおそるおそる訊ねる。過去にトリップする直前の記憶は、慥か女性から鞄をひったくったならず者を追いかけていたところで止まっている筈。それは正しく、太宰は「ああ」と肩を竦めて見せた。
「通りすがりの親切なちびの蛞蝓がとっ捕まえてくれたよ」
「え?」
「主犯格の男が異能力者だったんだ。異能力を解除した後、市警に引き取ってもらった」
ちびの蛞蝓。それが誰であるか、敦は咄嗟には分からなかったが、肩にかけられていたであろう黒外套を摘み上げて丁寧に埃を払う先輩社員の様子から、ある程度の想像はついた。それを乱雑に折り畳み、腕に引っ掛ける。
「此処らへんでちょっとたちの悪い噂を聞いたんだ。スリやひったくりをするときに組織の異能力者が介入して隙を作り、対象者が昏倒している間に下っ端が金目のものを奪う、というね。やり口は分かっていても未然に防ぐことがどうにも難しい案件だったんだ」
「……それで僕に“研修”なんて云ったんですか」
「そ。私がいれば万が一のことがあっても無効化できるし、君の脚力があればまず逃すことはない。うまくいけば組織を一網打尽にできると思った。――ま、然もない仕事さ」
そう云って微笑んだ先輩に他意はなさそうだった。
実際にそうなのだろう。倒れた敦の代わりに偶然居合わせたポートマフィアの幹部が尻拭い紛いのことをしてくれたのも、きっと。
「そういえば中原さんの普段の格好って、昔の太宰さんを意識してるんですかね?」
「……ねぇ敦君。あまり聞きたくはないのだけど君、異能で何を見せられたの」
脳裏をよぎるのは夜を背負う寂しい背中。
あれがもし過去の一場面を切り取ったものなのだとしたら、この無駄に頭が切れる目の前の先輩なら憶えているのではないだろうか。目が合ったのも、脳裏に語りかけるように聞こえた声も、もしかしたら異能が見せた幻だったのかもしれない。
それでも、見てしまった二人のことは、触れてはいけない神域での出来事のようにも思えてくる。死や暴力と隣り合わせの世界の中で、二人を二人たらしめていた何か。それがあの過去の短い逢瀬の中に濃縮されているように思えたので、怪訝に顔を歪めて覗き込んでくる当事者の先輩にも「秘密です」と笑顔で応えることが、何より正解な気がしてならなかった。
(了)