中原中也は強い。
それは単純な腕力や暴力による強さではなく、精神力や忍耐力といった「ヒト」としての強さのことだ。そこに文字通りの体力的な強さが加わるのだから、生半可な人間が彼を挫くことは殆ど不可能に近い。その強靭さと、他者を寄せ付けぬほどの生命力に溢れる暴力は、彼の数少ない好ましい美点でもあった。強靭な精神は強靭な肉体に宿る、とはよく云ったものである。
だがその所為で見られないものが一つだけあった。――泣き顔だ。
中也はどんなことがあっても泣かない。ポートマフィアに加入したてで浮いていた彼を受け入れた五人が凄惨な死に方をしたときでさえ、悲しみを怒りに換え、その怒りを糧に真っ直ぐ前を向いた。龍頭抗争で仲間が殺されたと知ったときも同じだ。
拷問されても、真実を突きつけられても、激しく揺さぶられた筈の彼の心の振り子はすぐに落ち着きを取り戻してしまう。まるでそれ自体が重力に操られてでもいるかのように。触れなければ分からないほどの微振動を繰り返しながら。
いっそあの顔が涙と洟水でぐしゃぐしゃになるようなことでもあれば「無様だ」と指を差して笑ってやったのに、そんな機会は太宰がマフィアに所属していた三年間、ついぞ訪れることはなかった。無論、泣かせようと画策したことも何度かある。が、残念ながら特に成果はなかった。そもそも人が最も泣くものとされる「親しい者の死」を前にして泣かない男なのだから、泣かせようと思う方が土台無理な話なのかもしれない。
そんな中原中也の「常識」が崩されたのは四年後のことだ。呆気なく、何の前触れもなく、彼は頻繁にぼろぼろと涙を流した。目の前に晒されたあられもない姿を思い出す度、なんとも形容し難い感情が胸の内側で渦を巻く。
「…………ンだよ、ニヤニヤして。気色悪ィな」
汗を流して部屋に戻ると、脱力しきった四肢を寝台に投げ出して転がっていた中也が、目を合わせるなり怪訝そうに眉根を寄せた。寝間着を身に付けているとはいえ、風呂上がりの湿った躰に情事後の気怠さが纏わり付いているのが分かる。「寝てなかったんだ」と太宰は扉を閉め、部屋に一つしかない寝台に向かった。
「寝ようと思ったら手前が戻ってきたんだよ。いくらなんでも早すぎだろ」
「だって私も早く寝たいもの。明日早いし」
それに君と違って後処理の必要もないから、と態とらしくにこにこと相好を崩すと、中也は不機嫌そうに舌を打ち、欠伸を噛み殺しながら半身を起こした。
「相ッ変わらずデリカシーのねぇやつだな」
「君にデリカシー? 必要?」
「死ね」
そう云いながらも少しだけ躰を横にずらし、律儀にひとり分の空間を開けて再び横たわる。明日は珍しく休みを取っているらしい。私も有休取ればよかったと嘆いたのは夕食のときだったか。
「そんな風に云うくらいだったら、君もちょっとは赤面して恥じらいでも見せたらどうなのさ」
枕元に腰掛け、眠そうな顔にゆっくりと手を伸ばす。「手前はンなもんが見てェのかよ」と視線だけが上に向けられたので、太宰は迷うことなく首を横に振った。
「まさか。でもおもしろいから写真に撮って後で姐さんにでも送ってあげようかと」
「やめろ」
本気で厭なのかじとり、と睨み上げてくる視線はまさしくマフィアのそれで、太宰は肩を竦め、「冗談だ」と戯けて見せた。昔だったら間違いなく会報のネタにしただろうけれど、それこそ、今はもう必要ない。
「……まったく。最中はあーんなに泣き虫で多少は可愛げがあるのにね」
「はァ?」
「なに、気付いてないの?」
頬に触れていた手を滑らせ、親指で下瞼――涙袋の辺りをそっとなぞる。湯を浴びた所為で分かりにくくなってしまっていたが、それでも微かに赤らんだ痕跡は隠しきれていない。顔を真っ赤に染め、足りない酸素を追いかけるように呼吸を乱しながら惜しげもなく流した、透き通った蒼い雫の痕跡は。
「君、セックスするときよく泣くじゃない」
「は、」
どうやら本当に気付いていなかったらしい。先程まで微睡みかけていた双眸はこれでもかというほどにかっ開かれ、煌々と照る室内灯の下で蒼がきゅっと丸くなる。上体を起こしかけたことで結われていない赭色の癖毛がさらりと枕に流れ、それがどことなく扇情的だ。しかしやがて心当たりにぶち当たったのか、視線を逸し、ゆっくりと枕に戻っていく。
「思い出した?」
ニヤついた顔を隠しもしない太宰に、中也はもう、視線を向けようとはしなかった。「知らねぇよ」と布団越しにくぐもった不機嫌な声を発するばかり。――しかしその後に続いた何気ないひと言に、今度は太宰の方が、後頭部を金属棒で殴られたときのような衝撃を受けた。
「…………手前とヤッてるときなんて基本、気持ちよすぎてそれどころじゃねぇし」
「…………………」
――間。
時間にしてどれくらいかだったのかは分からない。十秒のようにも、十分のようにも感じられた。けれど先程のような余裕のあるニヤけ顔を保つことは、既にできなくなっていた。
つまり何か。気持ちよすぎると我を忘れて泣くというのか。このマフィア最強の男は。
しかもさらりと告げられたので思わず流してしまいそうになるが、手前と――つまり、太宰とのとき、と限定して云っているのは一体何なのか。
いつもは回転のいい頭が錆びついたように鈍く軋む。それでも懸命に思考し、漸く弾き出された真意を汲み取れば、口角は押さえきれないまま露骨に吊り上がっていった。
「……太宰?」
唐突に黙り込んだ男にやっとのことで視線を戻した中也の目に飛び込んできたのは、上機嫌な雄の目をした太宰治その人だった。
「――中也、もう一ラウンド。いけるでしょ」
「は!? なんでだよ……ぁ、こら、っ太宰!」
太宰は勢いよく布団を剥ぐと、完全に寝る体勢だった中也の上に伸し掛かった。暴れられる前に関節と大腿を押さえ込んでしまえば、いくらマフィア随一の体術使いといえど身動きは取れなくなる。
「明日仕事だ、つったの手前だろうがッ」
「今このときをもって私の喫緊の任務は君をボロクソに泣かせることに変更になったのだよ」
「訳分かんねぇこと云ってねぇでどけ、って……ッ」
つい三十分ほど前まで行為に溺れていた躰に火を点けるのは容易い。太宰は寝間着の下の素肌に触れ、細かく痙攣を始めた肢体を見下ろしながら一つ、舌舐めずりをした。よく動く口は無駄に抵抗を試みるが、躰は陥落寸前だ。
中原中也は強い。
心も躰も。それは太宰が一番よく知っている。
けれど快楽に滅法弱いというのは、四年前までの自分にはまったくの盲点だった。
(しかも私が齎す快楽に、か)
それはそれで、悪い気はしなかった。
今日はあとどれくらい彼を泣かすことができるだろう。――そんなことを考えながらヘッドボードに手を伸ばし、遠隔操作機で室内灯の光量を落とす。その頃には煩かった口もすっかり鳴りを潜め、代わりに「絶対ェ泣かねぇ」と、強気に尖った蒼が睨み上げてきていた。
結果は無論、二人のみぞ知るところである。
(了)