膝枕

 太宰は自分の蟀谷が引き攣るのを感じた。
 無表情を保ちたいのに、顔の筋肉はぴくりとしてどうにも御し難い。おかげで怒ったような、困惑したようは、なんとも云えない奇怪しな顔になってしまう。しかしそれは、執務室の長椅子に腰掛けていた部屋の主である麗人には、子どもの拗ねた顔にしか見えなかったようである。「せっかくの整った貌が台無しじゃのう」と、揶揄い混じりに笑われてしまう。太宰はますます渋面になりながら後ろ手に扉を閉めた。
「なんなの、それ」
 冷めきった視線の先には夕陽が散っている。正確には、夕陽のような色を持つ癖毛だ。柔らかそうな髪を嫋やかな手で優しく梳きながら、紅葉は膝の上に視線を落とした。
「随分と疲れておったようじゃ。今日の会合も緊張しっぱなしだったからのう。戻ってくるなり糸が切れたように健やかに眠っておる」
「いや、だからってなんで姐さんの膝……」
「なんじゃ、太宰もしたかったのかえ?」
「そんなわけないでしょ」
 ころころと鈴を転がしたように笑う紅葉に、太宰はやや乱暴に書類の束を差し出した。本日、急遽外せない会合が入った中也に代わって太宰が久し振りに指揮を執った宝石商としての業務報告書である。本来は中也が行う筈だったが、珍しく頭を下げてきたので代わってやったのだった。
「相変わらず口の利き方がなっておらんな、坊主。首領殿が黙認しておるからといっていつまでも餓鬼のままでいられると思うな」
 紅い瞳が、午前中に市井の宝飾店ジュエリーショップに売った紅玉のような輝きを帯びて光る。……その輝きの中にあるのが厳しい教育者としての鋭さであるという点が玉に瑕であるのだけれど。
 太宰は無言を貫こうとしたが、やがて溜め息を吐き「申し訳ございません」と軽く頭を下げた。取って付けたような物云いがこの麗人に通用するわけもないのだが、膝の上の存在を気遣ってか諦めた様子だった。「よい。次からは気を付けよ」と短く返して書類を手にする。太宰はそれを確認すると長椅子の前にしゃがみ込み、眠る中也の顔を覗き込んだ。
「……僕がせっせと仕事をしている間に暢気に昼寝だなんて。いいご身分だね、中也」
 半開きの間抜けな口許も、弛緩しきって皺のなくなった眉間も、嵌め込まれた二つの蒼玉を隠す閉じた白い瞼も、彼の熟睡っぷりを余すところなく示している。それは珍しいことだった。野生の動物並みに勘が鋭く、警戒心の塊みたいな反射神経を持つ中也が、眠っている間にこれだけ至近距離まで顔を近付けても起きないだなんて。
 せめてもの腹いせに鼻でも摘んでやろうかと手を伸ばしかけると、容赦のない手刀にぱしりと叩き落されてしまった。叩いた本人の胡乱な眼差しが突き刺さる。
「中也が疲れておるのは太宰が過剰な仕事を回してくるからだとぼやいておった。そんなだから嫌われるんじゃ、お主は」
「……聞き捨てならないね、姐さん。僕は自分の犬があまりに暇を持て余しすぎて怠け体質になってしまうのを防ぐためにコントロォルしてあげてるだけさ。あと、云っておくけど中也を嫌ってるのは僕の方だから」
 早口で捲し立てる太宰に一瞬きょとん、と目を丸くした紅葉は、次の瞬間何かを察したようにくつくつと喉を鳴らし、肩を震わせ始めた。 「そうか。いや、お主も難儀な性格じゃのう」
「……笑われる意味が分からないのだけど」
「気にするな」
 却説、と肩を竦めた紅葉が「折り入って相談がある」と、紅を刷いた唇を蠱惑的に吊り上げ太宰を見た。手招きされて立ち上がると横に座るよう促される。この時点で彼女が何をしようとしているのか大体のところは察していたが、太宰は云われるがまま大人しく従った。
 その間にも、紅葉は中也の上体を優しく抱き起こした。長い睫毛が微かに震えて、寝惚け眼がゆるりと持ち上がる。
「あねさん…………?」
「すまんな、起こしてしまった。じゃがまだ隈は取れておらんようじゃ。もう少しお休み」
「は……でも、」
「一時間程度なら大丈夫じゃ」
 立ち上がった紅葉の眼差しはどこまでも慈愛に満ちている。目を擦りながらそんな彼女を見上げた中也は、隣に座る太宰にはまったく気付いていないようだった。眠気の方が勝っているのだろう。頭を撫でる紅葉の手を払い除けることもなく、「すみません」と力なく言葉を発し、再び長椅子に横たわろうとする。まるで聞き分けのいい子どもだ。実際のところ、紅葉にとっては彼も、そして太宰もまた、このような組織の中にあったところで矮小な「小童」でしかないのだろう。
 横になろうとする中也を補助しようとさりげなく手を伸ばした紅葉は、夕陽色の頭が太宰の膝に乗るよう調整すると、顔を上げて悪戯っぽく人差し指を唇の前に立てた。二人を交互に眺めていると、やがて微かな寝息が聞こえ始める。
「……もしかして僕、一時間このまま?」
「当然じゃ。報告書の確認をするにも本人がいた方が何かと都合がいいのでな」
「そっちが本音でしょ」
「じゃが、お主とて悪い気はするまい?」
「……」
 むっすと口を尖らせ、重さを主張してくる膝の上を憮然と見下ろした。
 枕が変わったことにも気付かず寝こける中也に「ほんとに暢気」と悪態をこぼしながら、先程紅葉がやっていたように夕陽色の髪に指を差し入れてみた。さらさらと柔らかく、指通りも滑らかだ。普段なら絶対に触れることのできないそれに、自然と口許が綻んだ。
 柔らかくて、温かくて、まるで陽だまりのよう。背負う黒の重圧も全てないものにしてしまえる小さな重力遣いを見下ろす太宰の眼差しが、自身が慈愛に満ちていると感じた紅葉のそれと同等かそれ以上の柔らかさを湛えていることに、当の本人はまったく気付いていなかった。せめて今だけは起きてくれるな、という願いが風船のように絶えず膨らんでいくのを、どこか遠くで感じるばかりである。



(了)

あとがき

太宰から中也に向かう矢印の方が大きいといいなと思う今日この頃です。

初出:2021年6月13日
※「 #太中文字書き60分一本勝負」より
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