敵地に赴く前の僅かな時間に、中也は肩口で遊ぶ髪を一つに纏める。敵地を見下ろせる高い楼閣の上で、獲物の姿を捉えた獰猛な肉食獣のように気配を殺し、爛々とした輝きをその蒼い双眸に宿しながら。
咥えていた輪っか状のゴム紐で手早く器用に纏めたら、首元の邪魔が消えたことですっきりしたのかますます上機嫌に、獣らしく犬歯を剥き出しにして嗤った。それを太宰は数歩下がったところから眺める。外套が風に煽られ、乾いた音を立てていた。
それは、任務を前にした二人のある種の日課のようなものだった。しかも、中也の髪が伸びてないと見ることができない。洒落者を気取る彼は頻繁に毛先を整えてしまうので、その瞬間は意外と貴重だった。
赭が彩る白い首筋。襟足が顕になった項。頸の辺りで跳ねるアホ毛がなんとも間抜けで野性味に溢れている。
無防備に此方に晒された急所を見ながら、もし此処にいるのが私でなかったら君はどうするのだろう、と考える。そんなに油断しきっていると、気付いた頃には首と胴がきれいさっぱり別れている筈だ。嘆息しながら尚もその後ろ姿を見る。莫迦らしく、そして愛おしいその背中を。
もう、四年以上も前のことである。
かつては夜の闇の中でしか拝むことのなかった白い首筋も露わな項も、朝陽の下ではまったく別物のように見える。その白さに眸を細めながら「早すぎない?」と不平を漏らす。欠伸を噛み殺し、対面台所の入り口に立つと、右手に菜箸、左手に鍋を持っていた男が不意に此方に振り向いた。その顔を――正確には顔の左側から耳の後ろに流れるように編み込まれた三つ編みを見て、太宰の蟀谷がぴくりと痙攣する。手元では柔らかくふわふわに仕上がったスクランブルエッグが、それぞれの皿に盛り付けられようとしているところだった。
「手前が寝坊助すぎんだよ。もう八時だぞ」
洒落者を気取り、常に髪の手入れを怠らなかった中也が髪を伸ばすようになったのは、おそらく太宰の離反に起因している。男性は女性に比べてホルモンの影響で髪が伸びにくいと聞いたことがあるが、四年もあれば鎖骨くらいまで伸ばすことは可能だろう。邪魔だと云いながらも未だ切らずにいる理由に、太宰には自惚れている自覚があった。
そんな彼の髪型にケチを付けたことはない。が、今朝は少し違った。
「……なに、その髪型」
「ん? ――ああ、これか?」
中也はいつも以上に剥き出しになった左側の額を撫で付けるような仕草とともに、よく見えるようにと横を向いた。
普段は後ろに撫で付けるだけの少し長めの前髪を三つ編みにし、それを耳の後ろに流し伸びた左側の髪と一緒に肩口で結わえている。ご丁寧に暗褐色の飾紐で。ゆるく波打つ毛先が行き着く鎖骨には、昨夜の名残が淡く刻まれていた。
「偶には気分でも変えてみようかと」
にっと悪戯っぽく口角を上げた中也に、太宰は今度こそあからさまに渋面して見せた。「うげぇ」と漏らしながら台所に足を踏み入れ、奥にある冷蔵庫から鉱泉水を取り出し、乾いた口を適当に潤す。
「今どき兄弟倒錯とかほんと勘弁して」
「莫迦なこと云ってねぇで珈琲淹れるのくらい手伝え」
どことなく楽しそうな中也に機嫌はみるみる下降の一途を辿った。
その髪型が彷彿とさせる人物を、太宰はよくよく知悉っていた。欧州人らしい薄金色の長い髪が視界の端でちらちら揺れる。目の前の赭色とは似ても似つかぬ色だけれど、太宰は思考に突如侵入してきたその幻影を追い払うように首を横に振り、大きく息を吐いた。
「最悪な気分だ」
「そうか。それはよかった」
むっすと口唇を尖らせる太宰に対し、中也は上機嫌に肩を揺らした。
似てない。似てないが、あの男が彼の後ろで笑いながら此方を見ている気がしてならない。
夢に出てきた懐かしい一場面――少しだけ伸びた髪をゴム紐で乱雑に結わえる仕草を思い出し、やはりそちらの方が、お行儀よく整えられた今よりも野性味があって君らしい。――そう心裡でぼやき、まずは確信犯であるらしい男から、その赤髪を彩る暗褐色の飾紐を奪い去ることにした。
(了)