いい夫婦の日

 本部ビルに留まることが多く、それでなくとも部下を引き連れ遠征してばかりの中也が、自宅にしているマンションに戻ることは稀だった。たまに着替えを取りに来たり、そのまま仮眠を取ったりすることもあるにはあるが、休暇でもない限り長居することは滅多にない。……時々、本当にごくたまに、全身が気だるく寝台から起き上がれないまま半日近くだらだら過ごしてしまうことも、あるにはあるのだが。
「半休と云わず、この際だから一日ゆっくり休んだらどうかな? 連日働き詰めだっただろう」
 遅刻の非を詫びるためにいの一番に電話をかけると、大抵そのような言葉が返ってくる。ごくたまの、敬愛する上司とのやりとり。
 初めこそ「そういうわけには」と狼狽していた中也も、今ではその言葉に甘えることにしている。そうなるよう仕向けた男の意図も、それを上司が了承済みであることも、中也自身が疾うに知っているからだ。
「通い婚スタイルというのも悪くはないのだけれど」
 電話を通して部下たちに仕事の差配をし、漸くひと息ついたところで男が口を開いた。こんがりと焼かれたトーストが卓子に置かれたところで片眉をぴくりと持ち上げる。「情緒がないのだよね。どちらかというと正妻のいる男が愛人の元に足繁く通っているだけのような感じがして」
「手前の場合はそう大差ねぇだろ。やることやって満足して帰るとこなんか特に」
「早朝に叩き起こされ仕事に行けと蹴り出される人が満足してると思うのかい、君は」
 しかも仕事を終わらせて来てみればいなくなってるし。体力莫迦だからといって回復早すぎだしそのまま仕事に行くとかほんとに意味が分からない。いくら蟻んこサイズでも頭の中まで働き蟻に支配されてたら溜まったものじゃないよ。
 ぶつぶつと漏れ聞こえてくる子ども染みた文句にいちいち反応していられるほどの元気は今の中也には流石になかった。右から左に文句を聞き流しながら、黒々としたトーストの表面をバターナイフで地道に削り始める。――が、思いの外頑丈だったのですぐに諦めた。乗せた乳酪バターの白が、妙に浮き上がって見えるようだった。
「それに君、なかなか此処に帰ってこないじゃない」
「だからって伴侶パートナーのいる人間が飲み屋で女引っ掛けるか? 普通」
「……なに、中也のくせに嫉妬? ヤキモチ?」
 顔を上げると、目の前の席に腰掛けた太宰が、同じように香ばしすぎる出来のトーストを前にしながらにたにたと厭な笑みを浮かべていた。
 満足に動けない(それも此奴が元凶だが)自分に代わって朝食を用意してくれるのはありがたいのだが、せっかく美味いと評判の食パンを台無しにされたのは実に業腹だった。「手前は餅じゃなくまずはパンの焼き方を勉強すべきだな」とぼやきながら視線を外し、一口齧る。――固い。辛うじて無事だった中の生地は、パンの甘さと柔らかさを僅かに残していた。
「あーあ、私の努力は一体いつになったら報われるのだろうね」
「少なくとも、疲れた人間に有給取らせるために手っ取り早く体力を搾り取ろうと考えてるうちは無理だろうな」
「なに、ほんの優しさだよ」
 相変わらずの笑みのまま、何も塗らずにトーストを齧る。「うわ、炭だ」と舌を突き出す男は、それっきりパンを皿に戻してしまった。珈琲を啜り、ちらりと見た時計は七時三十分を示そうとしている。
「――却説、そろそろ行こうかな」
「おう。たまにはちゃんと働いてこい」
 出掛ける用意を初めた男を横目に最後の一口を咀嚼して、珈琲で一気に流し込む。まったく、本当になんてことをしてくれたのか。そんなことを思いながらTシャツの上にパーカーを羽織り、砂色の背中を追って玄関へと向かう。
「太宰」
 上り框に腰掛け靴を履いていた男が、「何」と振り返らずに応える。中也は腕を組み、廊下の壁に肩を預けるようによりかかりながら続けた。
「有給は明日までだ」
 踵を靴に収めたところでぴたりと動きが止まる。「定時で帰ってこなかったら二度とその敷居跨がせねぇからな」
 頭が良すぎるために普段から言葉足らずになりがちなこの男が本当は何を云いたいのかを察することは、決して浅くはない付き合いを繰り返してきた中也には造作もないことであった。口で云っても休もうとしない中也を実力行使で休ませるのも、本当は、何もない時間をただ二人で過ごしたいと思っているだけなのだということも。――分かっていても無視するのは背筋がむず痒くてたまらないという天邪鬼な性格が災いしているからなのだが、ごくたまの、さらに稀なこんな日があっても、お互いにバチは当たらないだろう。
「――では、国木田君が泡吹いて昏倒し三日三晩魘されるほどの仕事ぶりを見せつけてくるとしよう」
 よいしょ、と年寄りくさい掛け声とともに立ち上がった太宰に「普通でいいから」と冗談めかして笑い合う関係には正直、未だ慣れないところもあるけれど。
「じゃあ、いってくる」
「ああ。……いってらっしゃい」
 玄関扉が開き、朝の冷涼な風が柔く肌を撫でていく。
 夕方には体力も回復してくるだろうし、夕食は少し凝ったものにしてやろう。
 ひらり。手を振り出ていく男に手を振り返しながら、そんななんてことのない穏やかな日常に想うのだった。



(了)

あとがき

当社比120%増の糖度に書いた本人が一番驚きました。でも好きですこういうの。

初出:2020年11月22日
※「 #太中文字書き60分一本勝負」より

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