「僕、君のことが好きなのかもしれない」
今日は久し振りの休暇だった。宝石商としての取引も軌道に乗り、最近では欧州に拠点を置く古物商との大物契約を取り付けることにも成功したため、これまでにないくらいの忙しさで日々を消費していた。自宅には寝に帰る暇もなく、昨夜にいたっては一週間ぶりに敷居を跨いだ程である。幾つかある取引先と本部とを往復してばかりの中也を見兼ねた上司が強制的に暇を云い付けなければ、さらに十日は同じ状況を繰り返したかもしれない。おかげで先月の売上成績は、あの大嫌いな同期を初めて抜くことになる。それを思えば連日の激務も耐えられるというもの。――うっかりそれを口にしてしまえば上司からの辛い叱責が飛んでくるので、命令には黙って従うしかないのだが。
朝はいつも通り起床して、いの一番に部屋中の窓を開けた。籠もった空気を攫っていく春風は心地良く、芽吹く草木の匂い感じながら軽く朝食を摂り、掃除を始めたのが小一時間ほど前のこと。前に帰ってきたときも殆ど寝に来ただけのようなものだが、それにしては部屋が荒れ過ぎていたような気がしなくもなく、少しばかり時間を掛けすぎてしまった。
普段はできない家事に勤しみ、洗濯機を回している間に小休止がてら広げた書類に目を通していたところ、ソレはやってきた。
音もなく視界の端を横切った黒。当たり前のように正面の椅子に腰掛け、卓上に両肘をつき、組んだ両手に額を押し付ける蓬髪は、寝癖の所為かいつもより幾分乱れが激しかった。何故此処にいるのか、いつ入ってきたのか、問いかけることすら億劫になる見慣れた不法侵入者は深々と息を吐き出した。
そして重々しく飛び出したのが冒頭のひと言である。
「…………何云ってンだ手前」
「言葉の通りだよ」
これだから小さい蛞蝓脳は理解力が乏しすぎて厭なんだ、と吐き捨てた口を縫い付けたい衝動に駆られたが、やはり、どうしたって中也にはその「言葉の通り」の言葉の意味が分からなかった。
太宰治は中原中也が嫌いだ。そして中也もまた、嫌いなものに太宰を挙げるほど彼のことを嫌っている。お互いがそれを認識しているし、周囲の人間にとっては不文律と云ったっていい(一部の人間にはそのことを引っくるめて”仲が佳い”と云われるがまったく不本意だ)。
だから、その片一方から――況して太宰の口から「好き」という言葉が出てくるというのは、本来ならありえないことなのである。
一体どういうことかと思考を巡らせかけたところで、中也ははたと気が付いた。
先程まで目を通していた手元の書類に書き込んだ日付。四月一日。旧暦の話だが、地域によっては寒さが和らぐこの日に防寒着の綿を抜いたことから「わたぬき」と読むこともあるという。世間一般には四月莫迦として親しまれ、某国政府ですら諧謔的な嘘を吐き、国民を楽しませる日。――そう。つまり太宰の冒頭の言葉は世間的な慣習に則った真っ赤な嘘、と考えるのが自然である。
毎日がエイプリルフールみたいな男だ。嘘など吐き慣れているし、こちらとしても特段の目新しさはない。しかし中也への厭がらせのために躰を張るような人間がそれを利用しないとも限らなかった。中也がエイプリルフールを知らなければ「知らないの?」と単純に莫迦にできる。もし知っていて、鬼の首でも取ったように得意げに指摘したならば、「なんだ知ってたのか」と白けて手を引けばいい。――否、寧ろ奴は自分自身にも嘘を吐き、徹底的に「好き」を演じるのではないだろうか。「本気なのかもしれない」と此方が思い始めた頃を見計らい、やっぱり嘘でしたと揶揄うために。
何れにしても思惑に乗ってやる心算はない。それどころかこれは、人の感情をおもちゃにする悪魔野郎の鼻をへし折るまたとない好機会だ。
中也は上がりそうになる口角を必死に押さえながら口を開いた。
「奇遇だな」
「……中也?」
「俺も同じことを思ってた。忌々しいことにな」
包帯に覆われていない片方の黒瞳が一瞬だけ驚いたように見開かれたのを、中也は見逃さなかった。すぐさまそれは此方の奸計を見抜こうと細められる。「そう来るか」と云う声が聞こえた気がしなくもないけれど、出来だけは佳いその脳みそとの駆け引きは既に始まっていた。
「へぇ? じゃあ僕たち、両想いってわけだ」
うれしいねと、太宰はまったくうれしくなさそうに云う。
種明かしの時機は相手を完璧に信じ込ませたとき。そのときまでは、この莫迦げた茶番劇の役者になりきってみせよう。
中也は決意を胸に、引き攣る相好を無理やり崩した。
*
エイプリルフールは嘘を吐いてもいい日とされている。一日中なのか午前中だけなのか、その捉え方は人それぞれだが、太宰にとってそれは特別なことでも何でもなく、いつもと何ら代わり映えのしないつまらない一日でしかなかった。
だが世間的には「特別な一日」を中也で遊ばないというのも勿体ない。だから少しだけ趣向を凝らすことにした。嘘を吐くことが許されるたった一日を、太宰は「嘘を吐いてはいけない一日」としたのだ。そのことを知る由もない中也は、太宰の剥き出しの感情を当然の如く疑った。そして世間の慣習に従順なその思考回路は狙い通り、太宰の言葉を「嘘」だと決め付けた。
予想外だったのは、彼が認識を誤ったまま太宰の言葉に乗ってきたことだ。あまりに安っぽい愛の告白は謂わば宣戦布告だ。彼の言葉を鵜呑みにしたが最後、ネタバラシだとでも云ってこっ酷くフる三段なのだろうが、そうは問屋が卸さない。何故なら此方の言葉に嘘はないから。本気で落としにいっていいというのなら、手加減する気はない。どれだけの時間がかかろうと。
この勝負、相手を信じ込ませた方が勝ちなのだ。
(了)