レンチをボルトに噛ませ、力を込めて回す。初めはこそ固かったそれは、あるところまでいくとまるでから回る水道の蛇口のように軽くなる。
吹かしたエンジンに温められた黒々としたオイルがとろりと流れ、廃油缶の中へと吸い込まれていく。オイル独特のどこか甘さを含む匂いが立ち込めた。
滲んだ汗をTシャツの袖で乱暴に拭い、工具箱にレンチを放る。オイルを抜いている間に手拭いにクリームを乗せ、それを丁寧に車体の上で伸ばしていくと、砂埃が微かに浮いていた赤い車体はみるみる滑らかな艶を取り戻していった。反射する己の顔が、機嫌よく綻んでいるのが分かる。
久し振りの休暇だった。
最近は組合戦の影響から遠出をする機会もめっきり減ってしまい、本部と自宅とを往復する日々が続いていた。しかも外勤ならまだ息抜きのしようもあるというのに、始末書や報告書の作成・決済、立て続けに行われる会議、従来の取引先との打ち合わせ、調整等々、内勤ばかりで肩が凝る。――それだけ組織としての被害も大きかったのだ。かつての抗争ほどではないにせよ、幹部という立場上、現場を取り仕切る責任は大きかった。
オイルがすっかり抜けきったのを確認し、再び軍手をしてボルトを締める。真新しい石油の匂いを嗅ぐと、ほんの束の間、ポートマフィアの五大幹部が一翼、という皮が剥がれ落ちていく感覚というのを味わえる。「中原中也」という、ただ一人の青年に戻る瞬間。それは、世界に三つとない瞬間に違いなかった。
「うわ、暑っ、くさっ」
綺麗になった車体に満足し、少し走らせようかと車座に跨って再度エンジンをかけたとき、その声が混凝土打ちのガレージに苦々しく響いた。「チッ」とあからさまに舌打ちをして、エンジンを切る。
「何しに来た」
「うん? 暇そうにしてる中也の様子見」
「暇じゃねぇよ、見りゃ分かんだろ」
マンションに備え付けられた共用ガレージの入り口で、砂色の長外套の裾が翻った。黒い蓬髪が海風に靡き、さらにぼさぼさになっているというのに、その髪が縁取る顔は無駄に整っている。そのギャップと甘言に騙された女性は少なくない。
「前々から思っていたのだけどよくそんな小さい躰で莫迦みたいにそのでかい単車乗り回せるよね。私には理解できないよ」
「手前に理解されるために乗ってるわけじゃねぇよ。人の趣味に茶々入れてる暇があんなら仕事しろ給料泥棒。まだ勤務時間中だろ」
「生憎、今日はもうひと仕事終えててきたところなんだ」
両手をひらひらと振りながら得意げに胸を張る太宰は、ガレージに足を踏み入れると落ちていた手ぬぐいを摘み上げ、そのまま中也に向かって投げて寄越した。油と砂埃ですっかり黒くなったそれはもう使い物にならない。身に着けていた軍手も外し、用意していたポリ袋に揃って放り込む。
「で。結局何しに来たんだよ、手前は」
片付けを始めた中也を、太宰は車座に凭れかけながら眺めていた。赭色の髪が風にふわふわと揺れている。いつもは二十糎ほど下にある旋毛が、しゃがみこんで作業しているため少し遠い。
「現場が近かったから帰りに立ち寄っただけ」
「他の社員はどうした」
「敦君なら先に帰ったよ。こんな油臭い小男の住処なんか来たら彼の鼻が曲がってしまうからね」
「人に仕事押し付けるところも昔と変わらねぇのかよ」
「それこそが私の自己表現なんじゃないか」
「ンな自己表現なんざ手前ごと溝に捨ててこい」
非道い! まるで駄々を捏ねる子どものように声を荒立てる太宰を半ば無視しながら、パタン、と工具箱の蓋を閉じる。そろそろ片付けも終わろうかという頃合いを見計らったように、「中也」と太宰が名を呼んだ。
「あア?」
振り返りざまに伸びてきたのは白い布。それが頬骨のあたりをやや乱暴に擦り上げてくるので、すかさず手の甲で払い落とす。
「ンだよ、急に」
「なんだよ、はこっちの台詞。顔が黒くなってるから拭いてあげようと思った私の優しさを無碍にする気かい」
手元を見ると慥かに布の一部が黒く変色していた。どうやら太宰の手巾だったらしい。バツが悪くなり、「悪ィ」と小さく告げて視線を逸らす。
「つか、手前が“優しさ”とか鼻で笑っちまうな。裏に何隠してやがる」
「何も? ただ、単車の次は私のメンテでもお願いしようかと」
太宰はどこか上機嫌にそう云うと、まるで邪気など感じられない笑みを浮かべて中也の手首をむんずと掴んだ。
「……は?」と、呆けてしまった中也を引き摺るように、部屋へと向かう昇降機に乗り込む。
「まずはその油と汗臭さをどうにかしてからだ。シャワー浴びたら海に行くよ」
こちらの都合など一切聞かずに午后からの予定を組み立て始めた太宰を見上げることしかできず、やがて中也は深々と溜め息を吐いた。
結局は惚れた弱みというやつなのだ。ポートマフィアの幹部という皮を脱ぎ捨てて、ただの「中原中也」になる瞬間――これを「恋」と呼ぶにはあまりに殺伐とした感情だが、立場が変わってしまった男との邂逅は存外悪くないと思えるのだから困りものだった。
ガレージにぽつねんと残された赤い車体が、まるで二人の再会を祝福するように、射し込む陽光を弾いてひと際美しく輝いていた。
(了)