朝露に見た夢

 ――なぜだ。
 中也は鍵を持つ手をぴたりと止めた。鍵は旧式で、防犯性能なんてあってなきに等しい。もしも此処が賑やかで長閑なだけの温泉街の直ぐ近くでなければ。もしも此処が、犯罪者や不法者が蠢くあの魔都・横浜であったなら。或いはこの旧式の鍵を抉じ開け部屋の中を荒らす不届き者がいたとしても怪訝しくはなかっただろう。それに、仮令最新鋭の自動施錠オートロックを取り付けたところでそれをふい﹅﹅にしてくれる存在にも十分心当たりがあった。長年蒐集コレクションしてきた秘蔵酒を勝手に呑みあさり、帰ってきた家主に向かってぞんざいな態度で手製の摘まみを要求してくるようなどうしようもない男だ。
 ――だが、繰り返すようだが此処は横浜から新幹線で片道数時間のところにある山陰地方の温泉街の直ぐ近くであり、当たり前の平和を静かに享受する長閑な町である。他人の家の鍵を勝手に開けて這入ってくるこそ泥や殺し屋や人間失格野郎とは、本来ならまったく無縁の筈だった。
 意を決して把手を掴む。どんなに強力な敵異能組織と対峙したって、ここまで手に汗握ることはなかった。「ありえない」という混乱に思考が苛まれ、動きは一層慎重になる。
 既に意味のないものとなった鍵はジーンズの衣嚢に押し込んで、ゆっくりと下げた把手を引く。念のために音は立てないようにした。そのときにはもう、慥かな確信があった。

「あ、おかえりィ」
「……なんで手前が此処にいンだよッ」

 本来ならいる筈のない、けれど想像通りの男が、台所キッチンを兼ねた短い廊下の先の居室にある寝台に腹這いになって此方を見ていた。艶のある黒い蓬髪。身に着けた浴衣の袷から覗く白い包帯。三日月に撓んだ鳶色の瞳――見間違えるわけはないが見間違いであってほしい、と思わず内に眠る荒神にまで手を合わせ懇願してしまった。ひくりと口許が痙攣する。
「旅行だよ。社を挙げた慰安旅行」
 明日からせっかくの黄金週間ゴールデンウイークだしねぇと、人間失格野郎こと太宰治は間延びした声で飄々とそう宣った。

 世間が浮足立つ黄金週間。説明するまでもないが、一般企業や官公庁の多くが連休に入り、経済の動きが少しだけ変わる。ポートマフィアのフロント企業をはじめ、取引先の多くもその対象である。
 しかしマフィア構成員にとっては関係のない話だった。外国の不法者が縄張りを荒らせば報復しなければならないし、表立って取引することが難しい闇企業の調整を図る必要もある。世間が連休だからといって、幹部以下構成員たちは基本的に、拠点を離れることはない。
 それでも中也がこうして遠出できているのは、最近の横浜が怖気が立つほど平和だからだ。部下たちでどうにでもなる案件ばかりで、執務室で部下からの報告を受けるだけで終わる日もある。担当しているフロント企業が休みに入ればそれはさらに顕著になる。――ようは暇なのだ。
 探偵社が慰安旅行に興じることができるのも似たような理由だろう。彼らの業務内容に興味などないが、大体の想像はつく。
「慰安旅行なら大人しく旅館にいろよ。探偵社の連中だって来てンだろうが」
 1DKの単身用共同住宅アパルトマンに元から備え付けられている寝台は、いくらもやしと云えど無駄に背の高い男が転がるととても窮屈そうに見える。それがすなわち己の体格との歴然とした差を示すものであるから、中也は大仰に舌を打って室内に足を踏み入れ、手に持っていた購い物袋を寝台前に置かれた小卓の上に乗せた。
「まぁね。でも此処ら辺に来るの初めてだったし、せっかくだからどこかに佳い自殺の名所スポットと一緒に心中してくれそうな美女はいないものかとちょいと散策を」
「こんな観光地のど真ん中で止めろ自殺願望。死にたきゃ一人で死ね」
「その観光地のど真ん中にこんな堂々と別宅を持ってるんだから、流石幹部殿ともなると羽振りが違うよね」
 袋から酒と惣菜を出していた手が止まった。振り返ってみればニマニマした顔で寝台の上に肘をつき、その手で頭を支えるようにして横たわる元相棒と目が合ってしまう。「そんなんじゃねぇ」と口を尖らせ、目を逸した。
「……昔、任務でこっち来たときに借りっぱなしにしてたんだよ」
「うん、知ってるよそれくらい」
 いやなんで知ってんだよ。手前はもういなかっただろうが。
 喉元まで出かかった言葉は溜め息となって虚空に消えた。
 そもそもなぜ旅行先がよりにもよって此処なのだろう。まるで自分が休暇を取るのが分かっていたみたいに、しかも隠れ家同然のこの部屋を嗅ぎ付けてまで。
 それが偶然だなどとは中也も思っていない。けれど太宰の行動の真意を探ろうとすると、同時に期待してしまっている自分に気付いてしまう。それでは何のために此処まで来たのか分からない、と奥歯を噛み締めた。
「珍しいね、中也がお惣菜なんて」
 そんな中也の心裡など既に見通しているであろう太宰は、しかしそのことには一切触れずに上体を起こし、袋から顔を覗かせていた小さな日本酒の瓶に手を伸ばした。観光地使用の地酒の飲み比べセットだ。普段は葡萄酒や洋酒ばかりで呑み慣れないが、せっかくだからと購ってしまった。――断じて太宰のためではない。
「暫くこの部屋使ってなかったから掃除と洗濯で一日終わっちまったんだよ」
 この部屋に御猪口などあるわけもなく、付属の酒器を使われると中也が呑めなくなる。「私、辛口の方が好きなんだよねえ」と云いながらも注ごうとする男の手を止めて、中也は食器棚から小さめの湯呑を持って彼の前に置いた。「文句云うなら呑むな」と釘を刺すことも忘れない。
「今日着いたの?」
「ああ」
「何日くらいいる?」
「聞いてどうすンだよ」
 惣菜を温めて並べる。太宰が注いでくれた御猪口に早速口を付けると、吟醸酒独特の香りが鼻腔に抜けた。葡萄酒のそれとは違う。舌の上で転がすと白米を噛み締めたときのような甘みがしっとりと広がって、さらりと喉を通ると華やかな香りとともに酒精が鼻奥で弾けて熱を持つ。日本酒の良し悪しは中也には分からなかったが、それでもこれは美味い部類なのだろう、ということは分かった。二口目を呑もうと杯を傾けたとき、その爆弾は投下された。
「私も一緒に残ろうかと思って」
「ッ――!」
 危うく、せっかくの美酒を全て吹き出してしまうところだった。咄嗟に御猪口を卓上に戻すが酒精が僅かに気管を侵し、中也は背中を丸めて咳き込んだ。地味に痛い。
「何やってんの」
 呆れたような声が突き刺さる。
「ケホッ……煩ェ。つかなんだよ残るって。とっとと帰れよ」
 大体、一緒に旅行に来た連中を放ってこの部屋に居座っていること自体、普通に考えれば怪訝しな話なのだ。太宰治に常識を求めるなと云われればそれまでだが、これではいつもと変わらないではないか。
「……帰ってもいいけど、明日まではいるよ」
「はァ?」
 御猪口に触れていた手に、冷たい手が重なった。ぐっと距離が縮まり、的の中心を寸分違わず射抜いてくる真っ直ぐな双つの黒瞳が近くなる。息を呑み、距離を取ろうとするがそれは叶わなかった。
「だってせっかくの誕生日だもの。四年ぶりに祝わせてよ」
「――ッ」
 酒精を帯びた吐息が触れる。どこかかつてを彷彿とさせるざらついた声で低く云い募る太宰の、心の奥を見透かしたようなその昏い双眸に、背筋がぞくりと粟立った。

* * *


「ハッピーバースデイ、中也」
 帰宅して自宅の扉を開け放つと同時に発せられた、歌うように弾んだ声。天使の仮面を張り付けた悪魔の微笑みで、包帯に覆われていない方の目が楽し気に歪んでいるのを見た。手には正方形の白い箱。誰が見ても中身は推し図れる。差し出されたそれと片目の悪魔を交互に見遣り、「いらねぇ」と中也は吐き捨て、玄関扉を閉めた。当然の反応である。
「なんで? せっかく作ったのに」
「余計にいらねぇわ!」
 太宰は元々食に拘りがない所為か、料理を料理としてではなく、化学実験か何かと同列視している節があった。途中までは食べられるだろうと思われたものですら最終的に口に入れてはならない暗黒物質ダークマタァへと変貌してしまう。見た目は綺麗にできあがっていたとしても、その構成物質が一般に想像するものとかけ離れている可能性だってあるのだ。下手をすれば命に関わる。死因が原因不明の暗黒物質を食したことによる衝撃ショック死など恥ずかしすぎる。
「つか、なんで手前が俺の誕生日なんて知ってんだよ」
 太宰が不法侵入してくることなどいつものことすぎて最早突っ込む気にもなれなかった。靴を揃え、ついでに脱ぎ散らかされた太宰のも不承不承整えてから、横をすり抜け居間へと向かう。明かりを付け、遮光布カーテンを閉める。
「そんなのマフィア加入時の資料見れば一発でしょ」
「人の個人情報を態々電賊ハッキングして覗き見てんじゃねぇよ、胸糞悪ィ」
「練習だよ。初めてでも簡単に侵入できちゃったから少しは対策練った方がいいかもね」
「手前が組織のセキュリティに口出しなんてした日にゃ絶対抜け道作って自分は入りたい放題する心算だろうが」
「おや、中也にしてはいい読みだ。流石は僕の犬」
「だから! 俺は犬になった覚えはねぇっつの!」
 何を云っても暖簾に腕押しなのは出会った頃から変わらない。いくら中也がドスのきいた声で怒鳴り散らそうがのらりくらりと躱してしまう。今とて当たり前のように長椅子に腰掛けた太宰は、怒る中也を軽くいなしながら小卓に乗せた箱を恭しく開いた。赤く熟れた苺が乗った綺麗なショートケェキが姿を現す。見た目は普通のそのケェキに、瞬間毒気を抜かれる。
「ああ、安心して。これは姐さん監修の下で作った正真正銘安全安心人畜無害の普通のショートケェキだから」
「……一周回って怪しさ満点じゃねぇか。手前らしくねぇ嘘つきやがって」
「僕らしくなく感じるならそれは嘘じゃないということさ。君の云う通り、君なんかに暴露バレるような無益な嘘はつかない主義だからね。時間の無駄だ」
「今此処でこうしていること自体時間の無駄とは思わねぇのか」
 段々相手にするのも面倒になってきた。それは太宰も感じていたことだろう。溜め息を吐いて立ち上がると台所に備え付けてある食器棚から二組の平皿と突匙フォーク珈琲碗マグカップを持って戻ってきて、黙々とケェキを取り分ける。ケェキは元々切れていたらしく、扇形の小さな塔が皿の上に載せられた。
「そんなに疑うなら僕が全部食べちゃうよ」
 突っ立ったままの中也には目もくれず、どうやら水筒に持参してきたらしい珈琲を碗に注いで再び長椅子に腰を下ろした。随分と用意のいいことだ。黒々とした液体の苦みを思い出して顔を顰めていると、太宰はケェキをぱくり、と一つ口に抛り込んだ。
「うん、流石姐さんだ。味も柔らかさもちょうどいい」
 三口ほど食べて、珈琲を呑む。息をつき、「ほら、何ともないだろう?」と見上げてくる表情から感情らしい感情は窺えない。本当に大丈夫なのだろうか。そう逡巡する中也の背中を、続く言葉が後押しした。
「姐さんも中也のためなら、って喜んで教えてくれたから、中也が食べなかったって聞いたらさぞがっかりするだろうね。感想だって楽しみにしてるだろうに」
「……っ」
 中也はギッと太宰を睨み付けた。いちいち遣り口がせこいんだよ! と怒鳴り付けてもよかったのだが、いつも世話になっている女性の顔を思い浮かべればそんな言葉は喉奥に引っ込んでしまう。太宰の隣(勿論人ひとり分の空間は空けた)に腰を下ろし、皿の上で艶々と輝く赤い宝石と、それが鎮座する純白の玉座に向き合った。
 口振りから察するに、殆ど姐さんが作ったものなのだろう。太宰だって食べても何ともない顔をしているし、きっと大丈夫。突匙で丁寧に切り分けて欠片を口に運ぶ。季節は終わりかけだが苺は酸味よりも甘みの方が強く、甘さ控えめの生クリィムと一緒に口の中で融け合っていく。しっとりとしたスポンジ生地が二種類の甘さを包み込んで離さない。
 想像以上の美味しさだった。甘いものが特段好き、というわけでなくとも食べられる。あっという間に平らげ「ごちそうさん」と両手を合わせた中也に、太宰が「美味しかった?」と微笑んだ。
「……まぁ、な」
「そう。姐さんもきっと喜ぶよ」
 その、一見すると邪気のない笑顔に申し訳なさが募った。初めはあれだけ疑ったのに、と。太宰と違い、人並みの感性と常識は弁えている心算だ。詫びの気持ちだってある。「悪かったな」と云いかけて顔を上げた瞬間、心臓が急に飛び跳ねたのが分かった。
「っ……は、?」
 手足の先が急激に冷えていく。血液が全て足元に落ちていくようだった。覚えのある痺れが末端を侵し、耳の後ろでキン、とした耳鳴りが絶え間なく続く。後頭部に過った冷たさとは対照的に、汗が止まらなくなるほど全身が熱くて震える。まるで湯上りの、少し逆上せたときのような感覚が、後から後から波濤のように押し寄せてくるようだった。中也は震えを抑えるように己の腕を掻き抱き、躰を折り曲げながら、隣で面白そうに目を細めている太宰を睨み上げた。
「テ、メェ……なにしやがった……」
「なに。誕生日に余興サプライズは付きものだろ?」
 やっぱりな! そんなことだろうと思ったよ!
 内心で口汚い呪詛を吐き出しながら舌を打った。
 そう、この男が理由もなく誕生日を祝う、などということは端からありえないことなのだ。生まれたことを祝うという行為そのものが、生まれたこと自体に絶望し続けてきた太宰にとっては忌避すべきもの。それが大嫌いと云って憚らない中也のものとなれば、これ幸いとばかりにその日を中也にとって最悪の日となるよう手引きするだろう。そんなことは考えなくても分かることだった。
 太宰は勿体ぶるように衣嚢から小さな硝子瓶を取り出した。
「これは僕が夜なべして調合した催淫剤に近い成分でできた毒薬だよ。効能は手足の痺れと軽い呼吸器障害、発熱、感覚過敏。姐さんが生地を作るとき、小麦粉の中に忍ばせてみたんだ。篩に掛けてしまえば粉末もばらばらになって見分けがつかなくなる」
「……っ、でも、手前だって食って」
「ああ、何。簡単なことさ」
 そう云って次に太宰が手に取ったのは、自ら持参した珈琲だった。中也の碗には手付かずのまま残されている。
「この珈琲に解毒薬を入れておいた。症状が出る前に呑めば効果が出ることはない。簡単なトリックだよ」
 中也は無糖珈琲ブラックの苦みが苦手だった。口に入れた瞬間広がる酸味とやらも、なかなかその佳さを理解することができず、どうしても敬遠してしまう。「呑めば治るよ?」という言葉には悪意しか感じられない。
「……っそれで? まんまと罠に嵌った俺を揶揄って、手前は満足かよ」
「真逆。種明かしをした今、君が『お願いします、どうぞこの犬めに解毒薬をお恵みくださいなんでもしますから』って云わない限り僕が満足することはないね」
「はんッ! とんだ悪趣味野郎だな」
 そうは云っても全身が熱を持ち、呼吸は浅くなる一方だった。敏感になった皮膚の表面を汗が伝うだけでぴくぴくと躰が震えて止まらなくなる。ふうふうと威嚇する猫のように息を吐き出しながら、涙の膜が張った蒼の双眸で太宰を睨む。
 熟れた薄い口唇くちびるが傍目にはいっそう煽情的だった。白い肌は林檎のように赤くなり、滲んだ汗で張り付いた夕陽色の癖毛が上気した頬の輪郭をなぞる。――それを見た瞬間、これまで悪戯が成功した子どものように笑みを浮かべていた太宰からすっと表情が消えた。二度、三度、と瞬きをし、「あーそうかー……」と、何やら腕を組んで唸りながら天井を仰ぎ、そう間を置かずに項垂れる。
「ちょっと効きすぎじゃないかとは思ったけど」
 それは何の含みもない言葉だった。思わず出てしまった素の言葉。太宰にとってそれはまったく想定外の出来事だった。「……もしかして君、躰は頑丈なくせに毒には人並みに弱いんだね?」
「ああ?」
「そこまで強い成分は使ってない。でも解毒薬がないとはいえここまで反応が出ているところを見るとそれしか考えられない」
 次に太宰が顔を上げたとき、そこには何の感情も浮かんではいなかった。ただそれは、湧き上がる様々な感情や情動を押さえ込もうとした、ある種防衛本能のようなものだった。「木乃伊取りが木乃伊になった気分だ」と嘆息しながら、木乃伊らしく包帯に塗れた手で中也の碗を掴む。思考が朦朧とし始めていた中也の涙に濡れた視界で、太宰は珈琲を一つ口に含んだ。
「――……ッ!?」
 あっという間の出来事だった。
 珈琲を口の中に溜めたまま、太宰は中也の腕を引っ張って躰を引き寄せた。普段ならそんな小枝みたいな細腕にどうこうされるようなことはなかっただろうが、力の抜けきった四肢では抵抗らしい抵抗もできない。半端に開いたままだった口に太宰のそれが躊躇いもなく重なって、反射的に逃げようと引いた腰はすぐ腕に絡め取られる。腕を引っ張ってきた冷たい手がすかさず後頭部を押さえて逃げ場を奪う。見開かれた視界にはいっぱいの、黒。
 混乱していた。何が起きたのか、すぐには分からなかった。塞がれた口の中にぬるまった液体が少しずつ注がれて、それが珈琲であるということに気付くのにも時間がかかった。逃げる術はなく、かといってこのまま溜め込むわけにもいかず、中也はぎゅっと目を閉じ、注がれる珈琲を少しずつ嚥下した。苦味も酸味も最早あってないようなものだ。太宰の口に残っていたらしいクリィムの甘さだけがやけに際立って感じられて、餌をもらう雛鳥にでもなったような気分だった。
「ン……っ、ふ、んん」
 ぽたぽたと口の端からこぼれた珈琲が、白い襯衣に染みを作る。けれどそんなことを気にしている余裕は今の中也にはなかった。太宰の襯衣に必死にしがみついて堪える。
「……は、」
 全て呑み切ったことを確認し、口端を汚す茶褐色の筋をひと舐めして顔を離した太宰は、充血した目と紅潮した頬を晒しながら茫然と息を乱す中也から視線を逸らした。呼吸も思考も儘ならないのはお互い様だ。手の甲で汚れた口許を拭う。
「っ……なんなんだよ、一体」
「あのさ」
 硬質な声にはいつもの小憎たらしい揶揄も厭味も含まれていなかった。これまで中也が聞いてきた太宰のどんなそれとも違う。まるで拗ねた子どものように、自分の感情すら真面に操作コントロォルすることができずにいる。幼い不機嫌さが滲み出る。
「……そういう顔、僕以外の前で絶対見せないでよ」
 一体どんな顔をしているというのだろう。聞きたいような聞きたくないような微妙な心持を持て余しながら、どっと疲れが増した躰を太宰の方へと倒した。深く息を吐き出し、薄い肩に頭を預ける。
「……重い」
「煩ェ。嫌がらせの罰だ。黙って枕になっとけ、莫迦」
 解毒薬が効いてきたのか、それとも刺戟が強すぎて毒薬の方が驚いて鳴りを潜めてしまったのか。孰れにせよ熱は少しずつ引いていた。頭を優しく叩く手の感触が心地よく、目を閉じる。
「ふふ。来年も祝ってあげるね」
「……絶対ぜってェいらねぇ」


 太宰は有言実行、とばかりに翌年も、その翌年も、律儀に、且つ迷惑極まりない「祝い」という名の嫌がらせを中也に仕掛けてきた。
 中也にとって誕生日などというものは書類上の日付でしかなかった。本当にその日に生を受けたのか、それともこの肉体が「試作品」として造られた日を指しているのかも判然とせず、その日を皆が云うような「祝うべき特別な日」とみなすことができなかったのだ。
 それは、擂鉢街という特殊な環境で育ったことも一因としては挙げられるだろう。〈羊〉は誕生日がいつか分からないという子どもが大半を占めていたし、望まれないまま産み落とされた子もいた。その日を忌むことはあっても、祝うという感覚を中也の中に芽生えさせる環境でなかったことは慥かだ。
 太宰もそれは同じだっただろう。けれど十六になったあの日の出来事は中也に慥かな衝撃インパクトをもたらしたし、その日を意識するきっかけにもなった。そして少しずつ、仲間や部下たちからもらう「おめでとうございます」という言葉の意味や重みを受け止めることができるようになった。もらった贈答品を嬉々として持ち帰ると、それを見た太宰が「中也ってばほんと単純」と呆れたように嘆息した。十八のときだ。太宰が購ってきたプディングを一日の締めに二人で美味しくいただいたのが、一緒に過ごす最後の誕生日となった。
 その後暫くして、太宰が消えたからだ。

(……なんで今さら昔のことなんか思い出すんだ)

 瞼越しに感じた夜明けの気配にうっすらと眸を開ける。視界には昨夜のまま残された晩酌の名残。まだ二口ほどしか舐めていなかった吟醸酒は小卓の上で静かな水面を湛え、大半が食べられることなく干乾びてしまった惣菜類が恨めしそうに整列しているのが見える。倒れた湯呑だけはご丁寧に空っぽだった。
 頭が痛む。ついでに躰の節々も痛い。一度目を瞑り、深く息を吐き出す。
 今日は早々に部屋の片付けを終わらせて近くの足湯にでも浸かりに行こう。旅の疲れと日頃の疲れを全部洗い流して、休み明けに万全の状態で仕事に臨めるよう英気を養うのだ。
 そうと決まれば行動開始だ。起き上がろうと身動ぎをしたとき、敢えて意識の外側に放り出していた背中側の熱がもぞりと動いた。腹の前に回されていた腕に力が籠り、起き上がることがますます困難になる。くそっ、と内心で口汚く吐き捨てる。直後。

「――ハッピーバースデイ、中也」
「っ」

 耳に直接流し込まれる、とろりと甘い蜜のような声。つい数時間前にも散々聞かされた覚えのあるその声に、中也は肩を窄めて動きを止めた。そろそろと肩越しに振り返る。
「……起きてやがったのか」
「誰かさんの寝相があんまり悪いから押さえておかないとと思ってね」
「俺は抱き枕じゃねぇぞ」
 寝起きの所為だけではない掠れた声はどこまでも弱々しかった。太宰はくすくすと笑いながら「抱き枕でしょう。ちょうどいいサイズ感だ」と云ってさらに拘束を強めた。肩口にぬるりとした何かを感じ、「ひッ」と身を固くして慌てて飛び起きる。そのとき、腹の上に乗っていたらしい何かがぽろりと落ちてきた。――時機タイミング的に、それを持っていた太宰が起き上がるのと同時に手放したのだろう。
「……っ、なんだァ?」
 拾い上げたそれは四角い小さな箱だった。
 妙に手触りのいいそれは濃紺の、蓋が丸みを帯びた小箱だ。十六のときに渡された白い箱を見て誰もが中のケェキを連想したように、その箱が示す中身は明白である。しかし、何故それが今此処にあるのか。
 布団の上で頬杖をつくように頭を支えながら横たわっていた太宰が、「開けてごらんよ」と含み笑いとともに促す。中也は一度怪訝そうに視線を男に向けてから、再び箱を見た。云われた通り、おそるおそる蓋を開ける。
「…………は?」
 実は何も入ってないとか、中也の恥ずかしい姿を収めた記録媒体が収められているとか、威力高めの小型クラッカーが目の前で弾けるとか、いろいろ考えていたがそんなことはなかった。
 箱の中の小さな溝の入った枕に大人しく鎮座するのは、美しく輝く華奢な白金指輪。飾りも何もないがひと目で上等と分かる。内側にアルファベットが刻まれているがそれ以外の意匠はごく単調シンプルで、仕事で付けていても邪魔にならないだろうと思われた。
 同じようなものを、部下が身に着けていたのを見たことがある。「結婚したのか」と聞くと照れ臭そうに笑いながら「はい」と答えた男は、今では立派な一児のパパだ。仕事柄命の危険が伴うだけに、新しい命を慈しめるのは素敵なことだと、中也も我が事のように言祝いだ。
 それが、その普通なら幸せを象徴するような小道具が、今、手元にある。
「……ちょっと。流石の私もそんなうっすい反応されると結構傷付くのだけど」
「は? あ、いや……だって、なんなんだよ、これ……」
 中也の知る太宰からの贈答品など、毒入りケェキだの愛車に仕掛けられた爆弾だの碌なものがなかった。四年前に気紛れだと云って購ってきたプディングと、二人の生まれた年に醸造された葡萄酒が唯一真面と云える代物だった(その昼間も散々な目に遭わされたわけだが)。
 もしかしたら今隣にいるのは全然知らない人間で、何かの異能で太宰の姿を借りているだけなのではないか。その可能性に思い至った中也は今一度振り返り、目を細めて男を凝視した。寝乱れて皺だらけの浴衣から覗く白い包帯。黒いぼさぼさの髪。ムカつくくらい無駄に整った顔。――外見だけは太宰だ。ついでに肩に手を置いて異能を発動させてみると、青白い光にすぐさま掻き消されてしまう。やっぱり太宰だ。間違いない。
 困惑で百面相する中也をじとりとした目で見上げ深々と息を吐き出しながら、太宰もようよう躰を起こした。やはり成人の男が二人、しかも一方は長身ともなると、単身用の寝台はだいぶ狭苦しい。
「中也が何考えてるのか逐一説明した上でその疑問に一つ一つ丁寧に答えてあげてってもいいけど」
 骨張った細い指先が恭しくそれを摘まんだ。そして中也の左手を取り、つっと薬指を右手の薬指でやわくなぞる。付け根から指先へ。そして辿り着いた指先を輪に通し、同じようにゆっくり指輪を滑らせる。何やら儀式めいたその一連の動作をただ呆然と眺めていると、薬指を過ったひんやりとした冷たい感触も、すぐさま体温に融けて同化した。
「……ぴったり」
 なんで中也の薬指にちょうどいい大きさの指輪が用意できるのか、などというのはもはや愚問だろう。四年ぶりの再会からこっち、そこまで浅い付き合いはしていない。寧ろ昔より深くなった。
 真意を探るように視線を向けるが、太宰は満足そうに指輪を嵌めた手指を見下ろしたまま。「うん、よく似合う」と。中也相手ならまず出てこないような裏表のない誉め言葉に、全身がむず痒くなるのを感じた。
「これは首輪なんだ」
 太宰が徐に云った。
「……いや、どう見ても指輪だろ」
「首輪さ。君は自分の主人が誰なのかを未だに勘違いしているようだから、今一度、今度は強固で頑丈な首輪を用意した。ただそれだけのことだよ」
 ポートマフィアからほんのひと時だけ離れたこの一瞬の隙に、もただの中原中也﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を繋ぎ止めるための白金の枷。見た目は華奢なくせに、重力の塊が圧し掛かってでもいるかのように重い。「まさか」と、中也はある可能性に辿り着いた。
「これを渡すために態々此処まで来たのか? 慰安旅行なんて嘘まで吐いて」
「慰安旅行は嘘ではないよ。探偵社の面々――まぁ、戦力分散は流石に拙いから横浜に残っている面子もいるけど――彼らも今頃は旅館で寝ている筈だからね」
 そう云って、頭の後ろで腕を組み再び仰向けに寝転がる。遮光布の隙間から差し込む一条の光を辿り、未だ忘我の境地から戻って来られないでいる中也に視線を滑らせた太宰は、「旅行先をこの町に決めたのは慥かに私だ。君も此処に来るだろう、と見越して」と内緒話を打ち明けるように軽やかに白状した。
「家にいたら、いつ私が来るのかと一日中そわそわしなくちゃいけなくなるからね」
「っ、別に、俺はッ」
「君のその面倒な性格のことなら七年前からよくよく知ってるよ。云い訳は無駄。観念したまえ」
「……っ」
 先回りされてしまえば最早何も云うことはできない。開きかけた口を金魚のようにはくはくと開閉し、やがて視線を逸らして舌を打ち鳴らす。「なんでもお見通し、ってやつかよ」と小さな声で憮然とした言葉を投げるが、「そうでもないよ」と力の抜けた声が返ってくるだけだった。
「中也が私に振り回されたくない一心でどこかに逃げ込むだろうことは予想がついていたし、一昨日の段階でポートマフィアのサーバーに残っていた記録から五日間の休暇届が受理されているのは確認済みだったけど」
「……おい」
 相変わらずの手癖の悪さに文句を云おうとしたが、太宰は構わず続けた。
「でもどこに行くかまではほとんど賭けだった。市内にある私の知らないセーフハウスかもしれないし、まったく別の地域かもしれない。ただ、君のことだからもっと効率的に動く筈だ。――そう考えたら、故郷ここが第一候補に挙がった。誕生日という特別な日を、君にとっておそらく特別な場所で静かに過ごす。そう考えるのでは、とね」
「……故郷じゃねぇよ」
「うん、知ってる」
 中也がこの町に来たのは二、三回程度だ。幹部就任祝いに初めてこの地を訪れた後、西方での長期任務に出向く機会があり、そのとき何とはなしにこの共同住宅の一室を借りた。あの夫婦と会って話したいとか、自分の過去を未練がましく追及したいとか、そういった気持ちは今や微塵もないけれど、この穏やかな空気に身を浸している時間が心地よく感じられたのだ。
 意味がないことだというのは分かっている。思い出だってこの土地には何もない。今はポートマフィアが自分の居場所で、自分の家族。――それでも。
「それでも君はこの土地に何か特別な感情を抱いている。書類上の日付でしかない君の誕生日と同じさ。それが事実なのか虚構なのかは最早誰にも分からないけれど、意識してしまえば君は必ずそれを自分の中に取り込んでしまう。考えずにはいられなくなる。実に単純な思考だ」
「……やっぱ手前、昔俺に毒入りケェキ寄越したのも、」
「うん? あれはただの嫌がらせ」
「おい」
 あっけらかんとした答えにがくり、と肩を落とし、ぴくぴくと蟀谷を引き攣らせる。
 あの日の出来事は、今思い出してみても「最悪」としか云いようがないものだった。けれどだからこそ、四月二十九日が訪れる度にこの男が自宅や執務室の扉を勝手に開けて這入ってくるのではないかと身構えるようになった。また質の悪い嫌がらせを仕掛けてくるのではないか、と。あれがなければ、年に一回のこの日を今も何の感慨もなく過ごしていたことだろう。太宰が云うように真偽のほどはさておき、ないものとばかり思っていた自分の出生ルーツを目の当たりにしたことでこの土地が何か特別な場所のように思えたように。
 そして太宰がいなくなり、生きているのか死んでいるのかすら分からなかった四年の間も、この日だけは何かの拍子にひょっこり姿を現すのではないか、と思うようになっていた。それが少しの期待と浅ましい願望であることに気付くのに時間はかからなかった。この男の口から発せられる「ハッピーバースデイ」という言葉は、生を疎む彼にはまったく似つかわしくないものであったけれど、だからこそ毎年律儀にその言葉を紡ぐ姿に絆されてしまったのかもしれない。
 再会したことで、またかつてのように来るかもしれないという期待と、関係が変わってしまった今もう来ないかもしれないという不安の板挟みに苛まれ、そんな太宰のことで一喜一憂する自分に絶えきれず、ついにはこんなところまで逃げてきてしまった。それでも結局はこうして読まれ、先回りされ、見付かってしまう。此奴には一生かかったって敵わないんだろうな、とどこか諦めにも似た境地で薬指に嵌った指輪を眺めた。
 そこで不意に視線を感じた。そちらに目を向けると何とも微妙な――子ども染みた拗ねた顔の男と視線が交わった。まるであのときと同じだ。自分の感情の操作コントロォルが上手くいかず、不機嫌が露になったときの顔。飄々としているようでその実、どこか不安を押し隠そうとしている。そのいつにない緊張が手に取るように分かってしまい、こんな奴でも緊張するんだなと中也は口角を上げた。
「……なぁ、太宰」
「なに」
 名前を呼びながら、横たわる太宰の顔の横に手を付いて顔を近付ける。夕陽を映す髪がさらりとこぼれ、太宰の頬を柔く擽った。
「手前の分の“首輪”もあるんだろうな?」
 吐息が触れそうなほどの距離で紡がれるその挑戦的な言葉に一瞬だけ目を丸めた太宰は、やがてホッとしたように頬を綻ばせ、しかしすぐに策士の仮面を張り付け「勿論」と答えた。無駄だというのに、この男はいつまで経っても素直にならない。
「寄越せ。俺が付けてやる」
「まったく。もうちょっと情緒ある云い方をしてほしいものだけど」
「手前が情緒なんてお綺麗なもん語ってんじゃねぇよ」
 くすくすと笑いながら口唇を掠め取る。少しだけ離れ、目交まなかいで言葉を交わしてから今度はゆっくり濃密に重ね合わせた。ケェキの甘さも珈琲の苦味も感じないけれど、分け合う温もりはどこまでも心地よかった。


* * *


 温泉街の朝は静かだが、そこかしこで慌ただしく動き回る独特の人の気配というものがある。観光客の醸し出す喧騒とは別の種類。観光客には決して気取られてはならないという不文律のもと、それぞれの旅館内では女将らが足音を立てることなく朝食の準備に奔走する。タオル交換や敷布交換の業者が旅館の裏手に停まり、決して声を荒げることなく黙々と作業するのも毎朝のこと。二日後に本格的な黄金週間ゴールデンウイークが始まれば、気配は一層慌ただしさを増すことだろう。トラックの低い駆動音は、温泉街のある通りから少しばかり離れたところにある共同住宅アパルトマンの階下にまで響いていた。
「ったく、浴衣しわくちゃじゃねぇか」
 肌着の上からパーカーを羽織り、ジーンズにサンダルを引っ掛けただけの如何にも地元民然とした中也が、太宰の背中に呆れたような声を投げた。どうすんだよそれ、と顎で指し示す通り、太宰の浴衣は全体に皺が寄って非道い有様で、とても言い訳し難い状態である。「中也の所為なんだけど」と胡乱に目を細めて詰ってやれば、目を瞬かせた彼は「けッ」と分かりやすく臍を曲げ視線を逸らした。
「アイロンでもあれば手前のそのひん曲がった根性ごと矯正してやったんだがな」
 アイロン如きで性根が真っ直ぐになるなど本人だって思ってはいないだろう。これだから脳筋マフィアは、と云いかけて、太宰は口を噤んだ。横浜の外ここでその言葉はマナー違反だ。
「で、手前らはいつまでいる予定だ?」
 一歩を踏み出しかけた足が止まった。
 町に染み付いた温泉特有の硫黄の匂い。どこからか立ち上る白い湯気。遠ざかるトラック。
 低い建物ばかりのその景色に一つ瞬きをして、それから口許に弧を描く。「――ふふ。そんなこと聞いてどうするんだい?」
 振り返って見れば「質問に質問で返すんじゃねぇ」と、尤もらしく肩を竦める。昨夜の自分はどうやら棚に上げるらしい。太宰は、此処は自分が大人になるべきか、と嘆息した。
「明日には帰るよ。明後日からは後発組が北海道に行くらしい」
「へぇ。そりゃあいいな」
「なんなら今度一緒に行くかい? 新婚旅行にぴったりじゃないか」
 その言葉に目を丸くした中也は、やがて鼻で嗤った。
「莫迦云ってんじゃねぇよ。俺にたかって蟹ばっか食うやつと旅行なんて絶対御免だ」
「ちっ、暴露バレてしまってはしょうがない」
 踵を返す。――少し。ほんの少しだけ名残惜しいと思うのは、この先を行けば二人は探偵社員の太宰治とポートマフィア五大幹部の中原中也になってしまう、ということだった。何でもない、ただの二人というのは、今此処にしか存在しない。そんなことは太宰も中也も分かっている。それが普通で、それが日常。何も怪訝しなことなんてない。けど。
「……太宰」
 彼にしては珍しく、小さく控えめな声だった。「なに?」と、視線だけを向けると、これまで見たことのない気持ち悪いほどの柔らかさでふわりと微笑む中也と目が合った。
「ありがとな、来てくれて」
 まるで見せびらかすように、愛しげに、薬指で輝く指輪に口唇で軽く触れた。その手をひらりと振って、何も云わず建物内に消えていく。彼の薬指で朝日が煌めく。遠ざかる小さくも広い背中を、太宰は暫し呆然と見送った。
「はぁ〜〜……ッ」
 思考が戻ってくるまでゆうに一分はかかった。
 顔が若気にやける。だらしなく緩む。口許を隠すように左手で顔を覆うが、胸の内側を掻き毟りたくなるこの衝動はなかなか収まらない。
「なんっなの、ほんと。蛞蝓のくせに」
 遠くから「太宰さーん」と呼ぶ声がした。鼻が利く優秀な後輩は、硫黄の匂いにあてられながらも太宰の匂いを嗅ぎ分けられるようだった。表情を引き締めて顔を上げると、遠くから敦が手を振ってやってくるのが見えた。
「太宰さん、やっと見付かった……!」
「やぁ、ごめんごめん。手間をかけさせたね」
「本当ですよ! 夕べから全然帰ってこないからみんな心配で心配で」
 でも何事もなくてよかったです、と邪気のない無垢な笑顔を向けてくる後輩に笑みを返す。道すがら、社員たちがどれだけ心配していたのかとか、今日はみんなで何処其処に行こうとか、昨夜の皆で話し合ったという出来事を敦は丁寧に説明してくれた。その目を盗み、遠ざかる中也の部屋をふっと見上げた。
 室内までは見えないが、こちらの姿はおそらく見えているであろう。見ているかどうかは分からない。それでも、太宰は袖の中で組んでいた腕を解き、左手で輝く白金にお返しとばかりに口唇を寄せた。

 これが一時の夢で終わらなければいい。――柄にもなく、そんなことを願いながら。



(了)

あとがき

文ストにハマって初めて迎えた推し誕でした。両親の結婚記念日でもあったので軽率に結婚させようかと思いましたがこの二人だと違和感ありまくりますね。糖度120%。精進します(?)

初出:2021年4月29日


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